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特集 2
健やかに育て、子どもたち−−地域で育てる

総論  地域で子どもたちをたくましく育てましょう

                  野中 一也(京都教育センター)


1 近所の公園の風景から

 私は宇治市に住んでいてよく近くの児童公園に散歩にいきます。そこには「犬の散歩をしないように」「ボール投げをしないように」「気をつけて!知らない人と 歩かない (00小学校)」といった看板が立っています。こんな看板はいまやどこにもあるのでしょうが、何となく違和感を覚えます。こんな立て看板を立てなければならないような社会になっているのでしょう。心ない人でしょうが、公園の砂場に犬の糞をたれたままに放置している人がいます。小学校の標語を含めて、こんな立て看板が無くなるような公園にしたいものだと思います。春には公園の木々に鶯が飛んできて美しい声をきかせてくれたりすると、自然に包まれた美しい世界を実感させてくれます。

 公園に人の姿を見かけることが少なくなりました。しかし時々、保育園の子どもたちが先生に引率されて公園にやってきます。すると禁止掲示の立て看板の違和感は一変します。砂場、鉄棒、滑り台、ブランコ、シーソーに小さいあどけない子どもたちの大きな歓声があがります。その大きな声は私を生き返えらせたように元気を与えてくれます。公園で子どもたちが遊ばなくなったと言われて久しくなります。いろいろ歴史的制約があって今日にいたっているのでしょうが、淋しい「死んだ公園」から「生きた公園」にするには私たちの努力が必要になっているのではないかと思います。

 「足元を掘れ、そこに泉がわく!」という言葉があります。私の好きな言葉です。「足元」を「地域」と言い換えてもよいと思います。しつこく「地域」にこだわって考えてみたいのです。

 公園の淋しさは、地域の淋しさに連動しているように思います。子どもたちがロマンを内に秘めた地域で育つ環境をつくりたいものだと思います。

 足元の京都という地域での教育力を考えてみましょう。歴史的に京都は武士たちの権力闘争によって庶民は苦渋の生活を強いられてきました。だから地域の「町衆」たちは、典型的に祇園祭などに表れているようにさまざまに工夫をし、知恵を寄せ集め、それをねりあげながら連帯感をつくりあがてきました。生きる知恵は結集されて、「地域の教育力」となっていろいろな領域で発揮されてきました。例えば、明治維新後、文部省の「学制発布」以前に、町内の一番良いところに小学校をつくりました。消防署や役場の役割も果たした小学校です。地域の人々は「つながり」を大切にして、子どもを中心にした子育て「地域」を構想し、実行してきました。

 戦後の人間教育を目指す「高校三原則」(地域制、総合制、男女共学)の高校は、京都の地域では素直に受け止められ、蜷川民主府政で自然に地域の高校として定着しました。民主府政が「落城」した今日でも高校入試で「総合選抜制」として一部残っているのは京都の地域教育力の表れであると言ってもよいと思います。京都の「つながり」あって地域で生きるという連帯感は、先人たちの努力によってつくられてきたということを想起し、そこに新しい現代的意味をこめて子育ての地域として再生することを考えていきたいと思います。


2 地域で子どもが見えにくくなった背景

 地域で子どもたちが見えにくくなってきた背景を考えてみましょう。まず大きな背景から見ていきましょう。

 1960年代の高度経済成長政策「列島改造論」は労働力を流動化させて、乱開発で自然破壊をし、「過疎」「過密」を生みだしました。住民は労働力として「地域」から離され、マイホームを建てるという政策に乗ってそれなりに「幸せ感」を味わう人も多くうまれ、「一億総中流」という意識も生まれました。しかし他方で技術革新は近代化の象徴として無批判に礼賛されました。大学の自治を侵害する「産学協同」も進行しました。この網の中で、これまで大切にしてきた「つながり」が切断されて、地域の人々がバラバラにさせられていく状況もうまれました。

 学校教育はと言えば、60年代から教育基本法に謳われている教育の平等性が侵害されるようになり、学校は能力に応じて生きる「人材」養成機関に変節させらていきました。90年代からはあくなき利潤追求をする市場原理に基づく新自由主義の教育政策が子どもたちを「能力」競争に駆り立てていきました。2000年代はまさに学力で学校・子どもたちに序列をつけるようになっていきました。いわゆる学力テスト体制といわれるものです。

 教職員の方々は、本来の教育を実践したいと思ってもそれが許されない教育行政と監視体制で苦しんでいます。教育に数値がなじまないにもかかわらず、数値目標も設定させられてその実行を迫られています。

 子どもたちは遊ぶ時間も惜しと言われて尻をたたかれ、学力競争に走らされています。子どもたちが内閉的傾向にならざるを得ない状況です。弱肉強食の生存競争が子どもの世界にまで押し寄せてきていると言ってもよいのです。

 では子どもの遊びはどうなっているのでしょうか。現代社会はコンピューターをテコとする情報化社会になっています。そのなかで生活している子どもたちはその影響を強く受けざるを得ません。外に出ないでネット世界で遊び、その世界の面白さに魅かれ夢中になり、自分の「バーチャル世界」をつくっていきます。その世界の中の「自由」を楽しみます。バーチャル世界は空想力を育てたりして非常に大切なものだと思います。しかし、それが否定的に作用すれば、現実の矛盾というリアリティーを見ないようになっていく傾向があるように思います。現実の矛盾はそう簡単に解決できるものではありませんので、現実に向き合えば向き合うほど「むなしさ」の感情がわいてきたりします。現実逃避という傾向に走っていくと、「外」の地域に出て遊ぶという行動が難しくなり、内閉的傾向が強くなっていくように思います。

 このような状況からわかるように子どもたちは「外」に出て自由に活動しにくい状況になっています。未来を担う子どもたちに希望を語り、展望をもって生きてほしいと思います。


3 本来、子どもは地域で育つもの

 地域とは一体どのようなものとして考えたらよいでしょうか。

 地域といえばまず一定の空間的広がりを想定するでしょう。そしてそこに自然があり、人々の暮らしがある風景を想像するでしょう。地域で日常的に父母が周りの人たちとふれあい、交わりあって生活しています。地域にある生活習慣や文化の影響も多く受けて、子どもたちは育ちます。地域でも長年子どもたちの教育に携わってきた棚橋啓一先生は、「子どもはやりたがりで知りたがり」で要求をもった存在であると言っています。先生に学びながら考えていきましょう。

 殆どの「やりたがりで知りたがり」の子どもたちは、「つながり」あいたいと無意識的にも思っていると思います。地域の子どもたちは、「つながり」あって遊びます。「つながり」には、子ども同士のつながり、子どもと自然とのつながり、子どもと大人のつながりがあるでしょう。異年齢集団とのつながりもあるでしょう。つながりあいのなかで、「要求をもっている」子どもたちは体をいっぱいに動かして、はち切れるほどの栄養をためこんで成長していくものです。

 地域には子どもを育てる"宝もの"もいっぱいあります。時には喧嘩もして泣いたり笑ったりする経験をもちます。場合によっては、殴ったり蹴ったりの「暴力」を使ったり、受けたりもします。そんな中で「悪かった」という反省のこころも生まれるでしょう。人間としての優しさも自然に学んでいくでしょう。地域は子どもたちに元気を与える発達の無限の供給源であるといってよいでしょう。

 子どもは遊びの天才とも言われます。与えられる遊びには満足はしなくなります。いたずらが好きなのも子どもの特徴です。「冒険」も大好きです。典型的なものとしては「探検あそび」があるでしょう。「大切なものは目にみえません」(『星の王子さま』より)といって、空き地がなくなっているところでも、そこに何かを発見して目を輝かせます。泥んこであったり、草であったり、昆虫であったりします。図鑑から学ぶものとは違った「実物」に接するのです。直観的実物教育を体験しているのかも知れません。

 冒険、探検から想像力がうまれ、それが創造力に発展していきます。草木から命(いのち)を学んだり、やがて枯れていく姿から「死」を学んでいくかもしれません。動物から学ぶものも多くあり、怖さ、優しさといった情緒的なものから、文字通り「生命と死」という大変重い課題をも体験的に学んでいくでしょう。

 地域で遊ぶことが制限されている現状は、子どもの発達を貧しいものにしています。体験的に学ぶ教育的意義を歴史的にも学び、「地域に根ざす教育」を現代的により深く生かす取り組みを進めていくことが大切であると思います。


4 地域の教育力を高める取り組みを!

 子どもたちが地域でたくましく育ち、共生の思想をもって地球的課題に向かって取り組める力量を身につけてほしいと思います。

 そのためにまず第1に、これまで歴史的に地域住民が大切にしてきた文化的伝統行事を引き継いでいくことです。日本の四季はすばらしい風景をもっています。節分、ひな祭り、地蔵盆などなどをもっています。それらは地域の異年齢層の多くの人々に支えられながら引き継がれてきました。特に地蔵盆は京都に残っているすばらしい文化的行事です。子育ての社会教育の典型的行事といってよいと思います。地域再生づくりの構想をもって現代的な意味をそこに新しく組み込んで発展していってほしいと思います。

 また地域には、人間として生きていく力を育てたいと願い、さまざまに教育的に取り組んでいる活動があります。例えば、受験を勝ち抜くための学習塾ではなく、国民としての基礎学力・国民的教養を保障しようとしている「学習塾」や「寺子屋」があります。それを「民主的塾」と仮称してみます。

 競争で勝ち抜く「勝ち組み」になるように煽られている現代ですが、それに対抗する「軸」が社会的に求めらているといえます。「負け組み」になって傷つけられている子どもたちも多くつくられています。「民主的塾」は競争原理の中で実行されている習熟度別授業ではなく、1人ひとりが人間として大切にされて、国民としての基礎学力が保障されるように懸命に努力されています。京都にはその長い伝統があります。この「民主的塾」に来て初めて人間として大切にされたという感動体験をもった子どもも多くいます。新自由主義教育は破綻の必然性を露呈しつつありますが、まだまだ強い根っこをもっています。競争主義に対抗する「対抗軸」をもっている「民主的塾」などの取り組みがなお一層重視されていかなければならないと思います。

 これらの取り組みをサポートする集団も大切です。このサポート集団が広がれば広がるほど地域での教育力が高まると思います。あくなき利潤追求をする市場原理の新自由主義から共生の社会をめざして、「地域・日本・世界を串刺し」(上原専禄)に展望し、「日本の夜明けは京都から」を合言葉に、地域の教育力を高め、「世界市民」「地球市民」として生きる生き方を希求して一層の努力をしたいと思います。

                                              
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