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早川幸生の京都歴史教材たまて箱(62)

 門 (時代を代表し、人や物を迎え見送り続けて)

                  早川 幸生
 「ひろば 京都の教育」162号では、本文の他に写真・絵図など11枚が掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」162号をごらんください。


−門にまつわる言葉−

  テーマを「門」にしようと決めたと同時に、ふと気付いたのは、毎日の生活や、新聞・教科書はじめ書籍に「門」という字のついた言葉がけっこう多いことです。地名や通り名にも「名門」「入門」「破門」「門外不出」「権門勢家」「登竜門」「門下生」などなど。

 ついでに、子どもたちの使う国語辞典で調べてみると、数多くの「門」に出会えました。

(1)家の外囲いに設ける出入口。出入口に設けた建造物。「門戸・門扉・門構え・門番・門前・正門・校門・山門・楼門・三門・仁王門」

(2)出入口。せばまった通路。「噴門・幽門・肛門・水門・声門・門歯」

(3)門をくぐって弟子となった仲間。「門下・門人・門弟・門戸・同門・破門・孔門」

(4)いえ。いえがら。「門地・門流・門閥・一門・名門・権門」

(5)学問の系統。「仏門・宗門・条土門・部門・専門・門外漢」

(6)物事の分類上の大別。「部門」

(7)生物分類学で、最も大きな分類単位。綱(こう)の上。「節足動物門」

(8)大砲を数える語。「臼(きゅう)砲一門」といった具合でした。もちろん今回のテーマの「門」は、言うまでもなく(1)の「門」です。


−仁王門−

  東山区粟田口に生家がありました。いちばん近くの市電の停留所は「東山三条」でした。左京区の親戚に行く際は、必ず市電でした。赤の1番、緑の6番は、ともに北上し「東山三条」の次は「東山仁王門」です。

 子供心に、不思議なことがありました。「におうもんて言うけど、どこににおうさんいはんにゃろ」と市電の窓から仁王さんを捜したものでした。結局見つけることはできませんでした。疑問が解けたのは五十年後です。

 東大路通りに「古門前通り」「新門前通り」そして「仁王門通り」と、門に因んだ通りがあります。すべて寺院と関係があるものです。「仁王門通り」の仁王門とは、左京区仁王門通川端東入ル大菊町にある「頂妙寺」の仁王門で、通り名もこの門に由来しているのです。

 寺伝によると、明応四年(一四九五)、法華教布教のため四条柳馬場に創建され、その後新町上長者町(今も元頂妙寺町の名が残っている)に移ったが、火災により延宝二年(一六七四)に現在地に移ったとされています。

 仁王門取材のため、五十年ぶりに境内に入りました。祖母や父と何回か、日曜日の朝市に来たなつかしい境内でした。朝市が無くなり訪れる機会もなく、仁王門にも気付かなかったのです。ふつう、仁王門と言えば、写真資料のように左右の見上げるような仁王像が見えるのですが。ここはそうではありませんでした。

 金網に額をつけ目をこらすと、やっと右に持国天、左に毘沙門天が見えてきます。他に見る裸像ではなく、着衣彩色の彫刻像です。巨大な像ではありません。子供時代の目に留まらなかったのも、そのせいかも知れません。お寺の方の話によると、昔は火災に遭うと首の部分を抜いて避難したそうで、運慶作と伝えられているとのことです。二天王とも庶民の信仰があつく、通りの名もこの仁王門から付いたと伝えられているそうです。

 さらにこの寺にとって大切な物が、この仁王門の通路の頭上にかかる、横長の扁額です。「天正十二年」「豊臣太閤秀吉公台命」などが読みとれます。これは天正七年(一五七九)宗教勢力の台頭を恐れた織田信長が、互いの力を弱めるためにさせた「安土宗論」で、敗れた法華は迫害を受けました。が、秀吉によって再び名誉が回復し、布教活動が認められました。その許し状を額にし、掲げてあるのです。

 そもそも「仁王門」とは、仏法を護持する神である金剛力士の像が、左右一対に安置された寺の門のことで、「二王門」とも言うそうです。


−表門−

 伏見の御香宮神社周辺は、伏見の子どもたちにとっては、絶好のフィールドワークです。高学年の歴史学習、中学年の商店街の見学等はずせないポイントです。また、大河ドラマで幕末・維新が取り上げられると、観光客で土日やシーズン、特に秋の祭礼の時は大混雑です。近くに伏見奉行所跡、寺田屋、乃木神社、桃山御陵、工兵隊跡等もあり、平和を考えるイベントとして十石舟や酒蔵巡りと合わせ、実施されています。

 というのは、幕末期、御香宮はそれまで徳川家のお宮として厚遇されていた立場から一転し、尊皇攘夷の薩摩の本陣になり、大手筋の南にあった伏見奉行所に陣取った幕府軍に、イギリスから購入した火器で砲火を浴びせかけたのです。維新のその後を決した鳥羽・伏見の戦いとはこのことです。奉行所にいて戦った新撰組が初めて敗戦を味わった戦いとも言われています。

 社伝によると、高さ約八メートル、桁行十メートル近くのこの大門は、元和八年(一六二二)、水戸の藩祖・徳川頼房が、秀吉が築城した伏見城の大手門を移築したと、伝えられています。近づいて見ると、正門冠木の上に四つ並ぶかえる蟇また股には、中国の故事「二十四孝」の一つ、冬雪中にタケノコを掘る、祇園祭でおなじみの「孟宗」の説話などが四場面描かれています。所々に彩色の跡が見られます。「日本の活気のある商店街百選」に選ばれている大手筋商店街の大手筋とは、伏見城の正門であったこの「大手門」に続く道と、理解することができますね。「大手門彩色復元」の夢の実現が待たれます。


−勅使門−

 左京の比叡山麓に、天台宗の門跡寺院(天皇家や貴族の師弟が、その法統を伝えている寺院)「まんしゅいん曼殊院」があります。「竹内門跡」とも呼ばれ、紅葉の名所とされています。

 勅使門とは、天皇の意見や考え、命令や伝言を伝えるために天皇が派遣する使者である勅使しか通れない、また開かない"開かずの門"と呼ばれています。門跡寺院の石段などをあがった正門としての役割をはたしていますが、ほとんどが閉まっており、開いても立ち入り禁止状態です。

 その勅使門が開き、そこを通り曼殊院に入ることができた時期がありました。それは平成になって七年間、いつも通用門として使われているくり庫裡の大修理が実施されたからです。いつもは、見上げるだけで、石垣をぐるりと廻り、北側の通用門に行っていました。それが「曼殊院通り」を登りつめた坂の上に、幅八メートル、十四段の石段と左右の石垣と白壁の中央にたたずむ堂々とした勅使門からの入場でした。

 PTAの地域巡り、総合学習や歴史学習の見学、図工の写生にと、修学院小学校勤務中に何度も見に行きました。秋の紅葉だけでなく、新緑の頃、そして五月のキリシマツツジは、緑の苔にはえて一見の価値があります。また、紅葉の下、勅使門の左右の石垣の上に咲く無数のリンドウに目を奪われたものです。 曼殊院のみならず、他に青連院、大徳寺、南禅寺、建仁寺、妙心寺の勅使門も素敵です。


−唐門−

 京都の寺院や神社に「桃山の三唐門」と呼ばれる門があります。それは西本願寺の国宝「日暮門」と、大徳寺の国宝書門、そして豊国神社の唐門です。いずれも国宝です。

 本来「唐門」とは、弓なりに反った唐破風様式の門の総称で、寺院や神社によって、勅使門であったり、表門であったりもしています。六年生の歴史学習でよく実施した見学コースは、国立博物館・太閤堤・耳塚・豊国神社・方広寺「国家安康の鐘」と縄文弥生時代から明治の富国強兵政策まで、一気に学べる、春の遠足を兼ねた丸一日の見学コースでした。全てが至近距離で絶好です。

 児童が目を見張るのは、豊国神社の唐門で特に門扉や大きなかえる蟇また股に掘られた鯉や鶴、波などの飾り模様です。社伝によると、秀吉が四年がかりで完成させた伏見城の城門だったとのこと。その後徳川幕府の手により、二条城に移築。さらに十七世紀前半に南禅寺金地院に移築。後、明治維新のはいぶつきしゃく廃仏棄釈の時代を経て、当神社に寄進されたとのことです。

 神社の方の話では、「唐門の装飾文様は、名工左甚五郎の作。左右二匹の鯉は、太閤秀吉にあやかって立身出世するように、中国故事の「登竜門」の意味があるとのことでした。門扉にかけられた無数の千成瓢箪の絵馬も、同じ意味の思いから奉納された物のようです。

 もう一つ、西本願寺の国宝唐門は、地元京都では「ひぐらしもん日暮門」と呼ばれ、門の装飾文様があまりにも豪華で、一日見ていても見飽きないくらい美しいと言われています。また、この門には、なぜかクモが巣をかけないとされ、「西本願寺の七不思議」の一つに数えられています。門のある北小路通は、常時は通れず見学難門です。


−三門それとも山門−

 東山区粟田口で少年期を過ごした僕の遊び場は、北は岡崎南禅寺、南は円山知恩院でした。いずれも立派な「さんもん」がありました。雨風がしのげる格好の集合場所でもあり遊び場でした。

  「三時に知恩院さんの、さんもんに集合やで」

 下校時、教室に飛び交う合言葉でした。

 琵琶湖疎水の見学で行く、南禅寺水路閣とともに、南禅寺の「さんもん」も思い出いっぱいの門でした。大人になって気付いたのですが、「さんもん」には「山門」と「三門」の二つの表記があることでした。

 知恩院は「三門」で、江戸時代徳川家の京都菩提所になり、寺領の拡大は家康が、御影堂は三代家光が、そしてあの壮大な現存する日本最大の国宝三門は、二代将軍家忠が建立したのでした。

 「三門」か「山門」か調べてみました。

 「三門」と表現される門は柱間は五つ。そのうち中の三つが扉のある通路となり、五間三戸と呼ばれる形式なのです。

 このことが、この門が「山門」ではなく、「三門」と表現されることに関係するといわれています。「三門」とは「空門」「無相門」「無頼門」の三解脱門のたとえであること。また「山門」はもともと寺が山林にあったことから、また山号を持っているから、三門と同じ意味で使われることがわかってきました。

 ひさしぶりに知恩院三門の前に立ち見上げると、三門の中央に「華頂山」の額がかけられていることに気付きました。


−羅生門−

 京都には、全国にまた世界中に日本の門の代表として知られた門があります。それが「羅生門」です。門の跡は、当時の南大門を約四五〇メートル西にあり、以前は礎石があったと言われています。

 羅生門は、平安京を左京と右京にわける当時のメインストリート、都大路の代表であった朱雀大路南端(九条)に位置し、北の朱雀門に対峙し「洛中第一」といわれた大門でした。朱塗りの重層瓦葺きで、屋根の上には、金色のし鵄び尾が置かれ、「羅生門」の額が掲げられていたといわれています。

 建立は、延暦一三年(七九四)平安京造営の時で、弘仁七年(八一六)の大風で倒れたものの再建されました。その後西京周辺の衰退とともに荒廃し、平安中期には盗賊のすみかと化していたといわれています。

 その当時を小説にされたのが、芥川龍之介著の「羅生門」です。その後映画化され、世界中の映画ファンを始め多くの人々にその名を広めました。

 現在は、九条通を少し北に入ったところに、児童公園があり、遺跡の石碑と説明板が建てられています。去年の車石・車道研究会のフィールドワークで公園内に車石が発見されました。

 江戸時代に、鳥羽街道の牛車輸送効率を良くするためにレール状に並べられた舗石のことで「鳥羽の牛車」として都名所図会にも紹介されています。「車止め」の石碑もあり、当時の往来の激しさを思い起こさせる資料も見られます。門はありませんが、是非一度どうぞ。

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