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早川幸生の

京都歴史教材 たまて箱(61)
−−熊野 元祖信仰の旅・旅ブームの始まり−−



          早川 幸生
 「ひろば 京都の教育」161号では、本文の他に写真・絵図など13枚が掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」161号をごらんください。


 京都の左京区・東山区に「熊野」という名のついた地名や社寺がいくつか見受けられます。例を挙げると、熊野神社・熊野繁栄会・今熊野小学校・今熊野観音・今熊野商店街・新(いま)熊野神社といった具合です。少し不思議に思っていました。

 東大路丸太町下ルに住んでいた叔母を「熊野のおばちゃん」東山区東福寺に住んでいた叔父を「今熊野のおっちゃん」と呼んでいました。今でこそ閑静な街並になりましたが、四・五十年前は、それぞれの街の商店街は賑わい、定期的に夜店(よみせ)、昼店(ひるみせ)が出て、昼も夜も人出の盛んな活気のある町でした。

 特に左京区の熊野神社の春の祭りには、叔母の家のいとこと一緒に、子どもみこしに毎年参加しました。祭りの行列の先頭は、少年勤皇隊の鼓笛が先導していました。ぼくたち子どもはその音を聞いて、誰ともなく「ピィヒョロホットイテー」と、隊士少年の勇姿への憧れの眼差と共に、ちょっとおどけて言ったものでした。この原稿を書くにあたり、熊野神社を訪れ、お話をうかがったり少年勤皇隊の扁額などを見る中で、鼓笛隊のメンバーの中に、教師仲間の友人がいたり、高校の後輩の名前を見つけるなど、新たな発見がありました。


――「伊勢に七度、熊野に三度」――

 中世から近世にわたって、人々の念願のひとつに「伊勢に七度、熊野に三度」と言われるものがあります。信仰の旅として、一生のうちせめて七回は伊勢詣りに行き、最低三回は熊野詣りに行きたいという、当時の庶民の願いを表したものです。伊勢詣りとは昭和四・五十年代まで、修学旅行としても実施された伊勢神宮を参拝する旅行のことです。室町時代以降に熊野三山から代わって始まり、江戸時代に空前のにぎわいを持つようになり、京都周辺でも伊勢講と呼ばれる積み立て旅行の組織が組まれ、盛んに伊勢参拝の信仰目的の旅として実施されました。明治・大正時代も実施され、形を変えて修学旅行としても残りました。

 一方、「熊野に三度」の熊野とは、和歌山県南部紀伊半島先端部に位置する熊野本宮大社(本宮)と熊野速玉(はやたま)大社(新宮)そして熊野那智大社(那智)の三大社に青岸渡寺と補陀洛山の三社二寺で構成され、熊野三山または三所権現と呼ばれるものです。平安時代に始まる熊野詣は、当時の末法思想(釈迦の死から千五百年、または二千年後に仏法が衰え社会に混乱が起こると考えたもので、末法のときには、天変地災が起こり、戦いや動乱が相次ぐという仏典の説に似た社会現象が、平安時代、十一世紀頃から起こり続いたことから、極楽浄土や浄土への往生を求める社会風潮が広まった)の拡がりは、前述の「日本第一大霊験」と呼ばれた熊野三山に、京都の天皇家、宮家、貴族をはじめとする権門勢家の信仰を得、競って熊野詣と呼ばれる一大信仰の旅ブームとなりました。その風潮は全国に及び、武士をはじめ一般庶民にいたるまでその影響は浸透し、人々は浄土への往生を求めてひらすら熊野を目指したのでした。熊野は、阿弥陀仏のいる現世浄土世界として、また黒潮信仰の海の彼方から漂着する補陀洛渡海信仰でいう、常世との境の国でもあると考えられていました。

 熊野三山への参詣は平安時代から始まり、室町時代まで盛んに行われ、途切れることなく参詣者が列をなして歩いたことから、誰言うとなく「蟻の熊野詣」と言われたのでした。


――洛中熊野三山――

 京都市内にも「洛中熊野三山」と呼ばれる所があることを知り、改めて訪れてみました。


洛中熊野三山・その一(熊野神社・左京区) ――JFAのシンボル八咫(やた)がらす烏と少年勤皇隊――

 社伝によると、平安時代の弘仁二年(八一一)に修験道の始祖えんのおづぬ(の)役小角十世の日圓が、国家護持のために紀州熊野大神を勧請したことが始まりで、白川熊野社または熊野権現社といわれたそうです。現在の本殿の礎石はすべて白川石が使われていることでも有名です。

 寛治四年(一〇九〇)白河上皇の勅願によって創立された聖護院の守護神とされ、別当職を置いて管理されたと伝えられています。

 信仰の旅・熊野詣は、修験(山にこもって修行することを目的)の旅で、先に立って案内する先達を修験者が勤めました。聖護院は現在も修験道の本山とされ信仰を集めています。京都では、真冬にほら貝を吹きならし、寒行するやまぶし山伏の姿として目に映りますね。

 明治維新当時千八百坪であった境内は、市電の開通や道路拡張により、現在は約六百坪と言われています。社殿の東側に、京名物「聖護院八ッ橋」発祥の碑も見受けられます。

 熊野神社を訪れると目に留まるのは、黒い鳥のモチーフです。門扉・提灯・お札・お守り袋等々といった具合です。写真資料のようなポスターも見られます。調べてみるとこの鳥は「八咫(やた)烏(がらす)」といい、日本サッカー協会のシンボルマークになっています。神話の中で神武東征の際、熊野から大和への道案内として登場する三本足の烏です。別名「太陽の使者」ともいわれ勝利に導く幸運の象徴とされています。

 また、明治時代、日本にはじめて近代サッカーを紹介した中村覚之助氏の功績を偲び、出身地が和歌山県那智勝浦町であったことに因んでいるという説もあります。今年はアフリカ大陸で初の開催、南アフリカ共和国でのワールドカップです。国際親善の好試合と大会の成功を期待しています。

 春の祭りを先導する熊野少年勤皇隊は、昭和三年(一九二八)に始められたもので、明治維新に西園寺公望の要請に応じ官軍に加わった現・京北山国の八三名が組織した山国隊の流れを汲んでいます。錦の御旗を先頭に、フランス軍の鼓笛隊の影響を受けた行進曲を演奏し全国を歩んだことで知られています。

 時代祭の先頭を進む鼓笛隊も山国隊が担当したそうですが、今は壬生隊が担当し、市内に残る各神社の少年鼓笛隊も壬生隊が指導されたそうです。今は少子化に伴い隊員の編成にご苦労されているとのこと。市内に残る希少な鼓笛隊の継続を願って止みません。


洛中熊野三山・その2(熊野にゃく若おうじ王子神社・左京区)――水と滝――

 片道三〇〇キロメートル、一ヶ月余りの熊野参詣は、上皇・法皇をはじめ一般庶民に至るまで、費用、日数ともにその負担は莫大なものであったにちがいありません。

 そこで、身近な都の中にも熊野への信仰のよりどころとして神社が建立されました。これを勧請といい、神仏の分身や分霊を別の所に移して祭ることです。熊野詣に三四回行ったといわれる後白河法皇が永暦元年(一一六〇)に禅林寺(永観堂)の守護神として建てたと伝わっています。

 若王子とは熊野の新しい宮という意味で、権現とは、仏や菩薩が人々を救うため、仮の姿として現れた日本古来の神々を意味することばです。明治の初年の神仏分離政策により独立し、現在に至っているとのことです。

 五〇年ぶりに訪れた熊野若王子神社は、まだほとんどの小学校にプールのなかった時代、南禅寺のプールとともに、より冷たく清涼感のあるプールとして遠出した、若王子プールのすぐ東側に位置しています。当時、琵琶湖疏水の水道橋から流れ落ちる水音を聴きながらの水遊びでした。緑に囲まれた別世界でした。

 神社の方に滝があると聞いて、社殿の背後にある滝へ行きました。直下型日本一の一三〇メートルの那智の滝には及びませんが、東山から勢いよく流れ落ちる白糸のような滝は、後白河法皇をはじめ、熊野御幸の際、この滝の水を浴びてから出発し、一番目の目標地の新熊野神社に向かったそうです。


洛中熊野三山・その3(新(いま)熊野神社・東山区) ――梛(なぎ)と大楠――

 新熊野神社は、上皇や法皇の熊野詣の際、第一回目の休憩地とされた所です。若王子神社と同じく一一六〇年に、後白河上皇が平清盛に命じ創建したと言われています。

 命じられた清盛は、紀州熊野の材木や土砂を運搬し社殿や境内を築いたそうです。特に熊野の神木とされる梛(なぎ)が植えられ古くから「梛の宮」とも呼ばれてきました。梛は、葉が縦脈で切れにくく折れにくいため縁結びの樹と言われたり、実が二つ並んで仲良く実ることから夫婦円満の目出度い樹ともされています。また「ナギ払う」という言葉があることから、災いや病気、敵を払うまた倒す力があると信じられました。熊野詣など旅行の際の、道中安全、後には車馬安全(交通安全)のお守りとしました。また、朝凪(なぎ)・夕凪(なぎ)のナギから安全・無事を守り、平和や幸福を招く木ともされ、各熊野神社の境内に植えられています。

 もう一つ、新熊野神社で目をひくのは、境内から枝を伸ばし東大路を半ば覆い隠さんばかりの大楠です。社伝によると、創建当時、今から約八五〇年前に移植し、国家鎮護と万民福祉を誓願し後白河上皇が自ら植えた「後白河上皇お手植えの大楠(くすのき)さん」と呼ばれ、参拝する人や地域住民に親しまれています。京都の天然記念物に指定されています。

 また、この境内には「能楽大成、機縁の地」と記された立て札や碑が建てられ目を引きます。 立て札によると

 「能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中三年(一三七四)の頃、父の観世清次とともに大和の猿楽結崎座を率い勧進興行を行った所で、世に『今熊野勧進猿楽』と呼ばれ、見物していた室町幕府三代将軍義満が、その至芸に感激、二人を同朋衆に加え、父子をそれぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた機縁の地である。(後略)」と記されています。

 勤務した向島小学校の所在地が、伏見向島世阿弥町だったことを思い起こす一時でした。


――熊野古道――

 南紀熊野への参詣道は主に三本の道がありました。大阪から紀州和歌山を経て新宮へ出る大辺路(おおへじ)、紀州路を田辺から山道に入り近露を経て本宮に向かう中辺路(なかへじ)、そして高野山から果無山脈を越えて本宮に行き、本宮から熊野川を船または徒歩で新宮に行く小辺路(こへじ)でした。室町・安土桃山時代になると熊野三山への参詣・巡礼を含む西国巡礼ルートになりました。巡礼の旅の元祖と呼ばれる由縁です。温泉巡り、物見遊山に発展する信仰の旅の始まりでした。

 そして、平成十六年(二〇〇四)七月に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。世界遺産に登録された「道」は「熊野参詣道(高野山町石道と大峯奥駈(おくがけ)道)」とスペイン・フランス間に今も残り、老若男女が今も盛んに歩く「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の二例だけです。二例ともに巡礼の道です。

 熊野詣をより決定的にかつ盛んに行ったのは、京都にいた法皇・上皇でした。熊野御幸と呼ばれ平安時代の延喜七年(九〇七)から弘安四年(一二八一)の亀山上皇まで、一〇〇回以上であったと言われました。

 以上のことから、熊野参詣道の起点は、全国から不特定多数の人々が熊野三山を目指したので断定することはできないものの、人口の多い当時の都・京都から数多くの人々が出発したことから一つの広域路として、この京都が参詣道の起点と考えることもできるのではないでしょうか。

 京都からの熊野古道のルートは、主に下鳥羽から船で淀川を下り、大阪からは陸路紀伊路をすすみ、その中でも田辺から山道・中辺路を登り、本宮大社を目指しました。全行程は七二里、片道約三〇〇キロメートルで、約一ヶ月かけて往復したといわれています。

 今も、正月明けに「新春・熊野三山参拝」が洛中熊野三山から実施されており、当時の人々の追体験もできそうで興味があります。

 京都の洛中熊野三山も、春は新緑、夏は納涼、秋は紅葉と四季問わずの名所揃いです。ぜひ一度おでかけを。

        
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