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発達障害のとらえ方と特別支援教育
到達点と課題−到達点と課題



                  越野 和之(奈良教育大学)


はじめに―「到達点と課題」を考える視点

 よく知られているように、二〇〇七年四月、特別支援教育の実施に関する学校教育法等の一部改正法が施行され、幼稚園から高等学校までのすべての通常の学校は、障害のある子どもが当該学校に在籍する場合、その子どもが障害児学級に在籍するか通常の学級に在籍するかの如何を問わず、障害に由来する「学習上および生活上の困難を克服するための教育」を実施することとなった。これをもって二〇〇七年度は「特別支援教育元年」と称されるのが一般的であり、今年二〇〇九年はそこから数えて三年目ということになる。

 しかし、もう少し長いスパンで振り返ってみると、特別支援教育には右記改正法以前に決して短くはない「前史」があることが見てとれる。本特集が焦点を当てる発達障害についてみれば、わが国教育行政が、「学習障害」の名前で、今日言われる「発達障害」にほぼ相当する範囲の子どもたちへの対応を検討し始めたのは、一九九〇年のことであり(通級学級に関する調査研究)、ここから数えるならば、今年二〇〇九年はちょうど二〇年目の節目にあたることになる。さらに、学習障害(以下LD)への対応スキームとして、「校内委員会と専門家チーム」という枠組みが提起され、その枠組みに基づくモデル事業が開始されたのは一九九九年、LDにADHDおよび高機能自閉症等を加えて「発達障害」と概括される子どもたちの学齢期における出現率を六・三%と見積もった調査結果が公表されたのが二〇〇三年である。こう考えるならば、今日における「発達障害のとらえ方と特別支援教育」の到達点は、「特別支援教育三年目」の到達点として評価されるだけでは十分でない。「学習障害」への対応をわが国教育行政が検討し始めて二〇年目、校内委員会と専門家チームという支援システムの枠組みが提起されて一一年目、「六・三%」(六八万人)の子どもに特別な支援の手を届けるべきことが明示されて七年目の水準として、その到達点が吟味される必要があろう。


1 発達障害概念の普及と「困っている子ども」という子ども観

 このような視点で過去を振り返ったとき、発達障害の子どもたちへの支援という領域における過去二〇年の最大の変化は、発達障害概念の普及という点に求められよう。一〇年ほど前、ある学習会の席上でLDの子どもを持つ保護者の方が「パイオニアがレーザーディスクの生産中止を決めました!」と報告されたことがあった。当時「LD」と言えばレーザーディスクを想起する人のほうが多かったということであり、「うちの子LDなんです」と言っても、その意味するところがなかなか伝わらないということへのもどかしさを示すことばだったのだと思う。

 この間、発達障害者支援法の制定・施行や特別支援教育の実施を契機として、子どもの教育や福祉に関わる分野では発達障害やその周辺のことばが広く知られるようになり、子どもが、学習上の困難や生活のさまざまな場面における特異な行動等を示した場合に、それを単純に子ども自身の努力不足や家庭のしつけの問題などに帰するのでなく、子ども自身が、認知や感情・行動コントロールなどに特異な困難を抱えている可能性を視野に入れて考える発想が広がった。このことは「『困った子』とみるのでなく『一番困っているのはその子自身』とみよう」と言ったことばでも表現されるが、学校教育内外における「指導上の困難」を、子どもや家庭の努力不足=自己責任に帰するのでなく、認知の偏り等に由来する困難ととらえ、それを踏まえた対応方策を吟味するという発想が広がったことは、発達障害概念の普及の実践的な含意として、二一世紀の最初の一〇年における大きな変化ととらえることができるだろう。


特別支援教育と発達障害への支援

 「特別支援教育」について、これを学校教育における発達障害への対応方策と理解する認識が依然として少なくないが、これは正確ではない。特別支援教育とは、わが国における障害のある子どもの学校教育制度の全般的な改革構想であり、従来の「特殊教育」制度を全般的に改めるための構想をさす。そこでは、「特殊教育」制度の制約として、対象とする障害の種別を限定的に規定した上で、その種類と程度を根拠として教育の形態を択一的に指定するという問題、障害に由来する困難への対応を含んだ特別な教育が、盲・聾・養護学校、特殊学級などの特別な場に閉じこめられているという問題などが指摘され、そうした制度上の制約を克服することが強く期待された。発達障害の子どもたちは、「特殊教育」制度のこの制約の下で、もっとも不利を被っている子どもとして、「特別支援教育」の大きな焦点になったとも言える。すなわち、「特殊教育」の制限列挙的な対象規定において発達障害は特別な支援の対象とされておらず、また、多くが通常の学級の中での特別な支援を求める存在としての発達障害児は、特別な場に閉じこめられた「特殊教育」制度の恩恵に浴することが少なかったからである。

 しかし「特殊教育から特別支援教育へ」の制度改革構想は、その具体化が図られた時期が小泉純一郎内閣による「構造改革」(=教育・福祉の予算削減と国レベルの行政責任の「地方分権」化)の時期とほぼ完全に重なったことなどに強く制約されて、期待された改革の課題に応えるものにはならなかった。二〇〇七年からの特別支援教育制度においては、特別支援学校、特別支援学級、通級指導教室はいずれも引き続き制限列挙的な対象規定に止められ、LDおよびADHDは「通級による指導」の対象に組み込まれたに過ぎない。「通級による指導」のための教員配置は、全国三万三千の小・中学校に対して三〇〇〇人前後、LD等を対象とした「通級による指導」の担当教員は、全国でわずか七〇〇人である。通常の学校における特別支援教育の実施は、本稿冒頭で述べたように高らかに歌われたものの、それを基礎づける条件整備法制は整備されなかった。

 文部科学省は、一九九九年に提起された校内委員会、二〇〇三年来の特別支援教育コーディネーターの整備状況等を指標にして「小中学校における基礎的な体制整備はほぼ完了した」という認識を示しているが、筆者らの調査によれば、校内委員会の設置、コーディネーターの指名等は進んでいるものの、その実態は「六・三%」のニーズに応えられる体制を持つに至ってはおらず、学校現場の苦闘にもかかわらず、障害のある子ども一人ひとりの教育上のニーズを把握して、学校全体で支援のあり方を検討する体制が整っているとは言い難い。


3 特別支援教育体制の下での発達障害認識の問題点

 以上のような状況の下で、通常学校における発達障害児への教育のとりくみは少なくない困難に直面していると見られる。その最大のものは、前項で述べた教育条件整備の貧困に直接起因する問題、すなわち、子どもが「困っている」ことはわかっても、そのニーズに応えるための体制がつくりきれないという困難であろう。こうした困難は、特別支援教育のための条件整備が不備であることに加え、たとえば専任教員の減と任期付雇用教職員の増加など、学校教育全体の教育条件が切り下げられてきていること、学力の向上と規範意識の形成といった課題が上意下達方式で学校に押しつけられ、その達成度を競わされるしくみが強められていることなどによって何重にも強められている。そして、こうした状況は、発達障害のある子どもに対する子ども理解にも、看過することのできない問題を惹起しているように思われる。

 その第一は、発達障害やその周辺の困難をもつ子どもたちの課題が「障害」というカテゴリで提起されたこと(そのこと自体は誤りではないが)、特別支援教育や発達障害に関する研修はさかんであるものの、目の前の子どもの事実に即して実態や課題を検討する機会は必ずしも多くないことなどに由来して、そうした子どもたちへの対応は〈専門家〉でないとわからないという態度、子どもの実態の見立てや、時には関わり方の方針までも、〈専門家〉の判断に依存するという傾向がないかどうか、ということである。

 目の前の子どもの示すさまざまな困難を、子どもの側に立って理解するための一つの仮説として、発達障害という視点は確かに有効である。しかし、たとえ障害の診断があったとしても、教科書的に示される「障害特性」のすべてが目の前の子どもにあてはまるとは限らない。同一の子どもであってさえ、生活の場面や発達の時期によって、「障害」の現れ方や抱える困難の実相は変化するものである。そして、そうした子どもの事実をとらえられるのは、毎日の教育的な働きかけの下で、その時々の子どもの姿をとらえることのできる教師をおいていないはずである。しかし、今日の学校現場の多忙化の下で、ていねいに子どもの事実をとらえ、吟味するための条件は奪われがちである。そこに「学力と規範意識」といった「課題」が上から与えられると、その「効率的」な実現にむけて手っ取り早い「方針」が欲しくなる。しかし、出来合いの「方針」というメガネで子どもを見ることは教育の自殺行為にほかならない。目の前の子どもの事実に即してていねいに考えるというスタンスが強まっているのか、弱められているのか、事実に即した吟味が必要であると思われる。


4 専門家のあり方をめぐって

 もう一つの問題点は、右に述べた〈専門家〉のあり方に関わる。通常の学校内で特別支援教育の〈専門家〉という立場に立たされているのは特別支援教育コーディネーターである。コーディネーターには、特別支援教育の推進役として、他の教員に率先して特別支援教育や発達障害に関わる研修を受け、そこで学んだことに即して校内体制をつくり、校内研修をリードし、校内委員会等での子どもの実態把握や外部の専門家との連携を図ることなどが求められてきた。しかしここでも、さまざまな困難を抱える大勢の子どもたちを目の前にして、短期間の間に体制を整えることが求められたこと、個々の子どもについても各種個別計画などを短期間の間に作成することが求められることなどから、限られた知識・方法の範囲で、ともかく「方針」を、という傾向が強められているように思われる。

 こうした問題の一つとして、ここでは子どもの実態把握のために用いられる各種心理検査の問題について述べよう。この間の「発達障害」に関する官製研修等では、子どもの実態把握のためのツールとして、WISC、K−ABCなどの心理検査の活用が強く推奨されてきた。そうした中で、かつて子どもの発達の事実を示さない非教育的な指標として批判されたIQ等の数値が再び教育現場において流通するようにもなってきている。そこにはらまれる最大の問題は、子どもの発達の軽視ということである。

 子どもたちは、たとえばWISCの結果によって示される「個人内差」などの特性を持ちながらも、ある発達段階にいて、その段階に固有の様式をもって、外界との関係を取り結ぼうとしている存在である。その際の「外界との関係の取り結び方」や、その発展性を左右するものとして、「障害特性」や「個人内差」が機能するのであり、発達段階が推移すれば、「障害特性」や「個人内差」もその意味や姿を変える。したがって、その子どもの当面の課題を吟味する上では、発達的な視点が欠かせないのだが、今日流通している子ども把握のための方法論は、それのみを一面的に活用するならば、かえってその子どもの発達の状況を見えづらくする危険性をもはらんでいるように思われるのである。

 もちろん筆者はWISC等の心理検査のもつ意味を否定しようとするものではない。それらの検査によってしか見えてこないものもあるし、検査の結果は、子どもの発達を総合的に吟味するとりくみの中に適切に位置づけられるならば、大きな有効性を発揮する。しかし、そうした総合的な吟味のための条件を欠いたところで、特定の方式だけが唯一絶対のものとして用いられるならば、それは本来の役割を果たすことができず、反対物に転化する。しかし、「効率的」な実態把握と「方針」の作成を〈専門家〉に強く求める今日の傾向は、〈専門家〉がその専門性を子どもの事実に即して発揮し、発揮する中で専門性自体をさらに発展させる条件を奪っているように思われるのである。


おわりに

 冒頭に「発達障害と特別支援教育」を見る際の、いくつかの歴史的な指標をあげた。しかし障害児教育全体についてみれば、もう一つの指標に触れる必要がある。すなわち、今年二〇〇九年は、一九七九年の養護学校義務制から数えて三〇周年の節目にあたる。養護学校義務制を一つの結節点とする障害児の教育権保障運動において、全国のとりくみを大きく励ました京都府立与謝の海養護学校は、その学校設立の理念の一つとして「学校に子どもを合わせるのでなく、子どもにあった学校を」と謳った。この視点に立つならば、特別支援教育の課題は、「子どもにあった学校」の理念を、障害児学校・学級のみならず、通常の学校、通常の学級においても実現していくことにほかならない。特別支援教育の当面する課題をこのようにとらえつつ、今日の学校と教育をめぐる状況が、どのような到達点と課題を提起しているのか、事実を持ち寄り、多くの知恵と力をあわせて考えあってゆきたいものである。

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