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早川幸生の京都歴史教材 たまて箱
渡し舟(渡し場)−−人・物・情報を渡し続けて



                早川 幸生

 ひろば 京都の教育」160号では、本文の他に写真・絵図など15枚が掲載されていますが、本ホームページでは割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」160号をごらんください。


――「ワタシ」――

 伏見区の向島小学校で、六年生の総合学習の時間に地域の歴史調べに取り組みました。お巨ぐら椋池の移り変わりや、伏見城下の向島城について、また地域の町名等、自分でテーマを選び調べました。資料として古地図等も活用しました。地域の方や、保護者の方や保護者の方からいただいた物を始め、本のコピーや復刻された物など、また学校の郷土資料室に保管されていた物も含めると、安土・桃山時代から昭和の初期まで約一〇枚の古地図が集まりました。

 大小さまざまな地図を学年全員で見ていた時のことです。一人の児童が言いました。

「先生、ちょっと来て。この川の中のワタシて何」「あっ、ここにもある」「また、ある」

 復刻版の江戸時代の地図を覗いてみると、資料のように、桂川や淀川の川の中に「ワタシ」の文字を見つけました。

 「ああこれは、わたし。渡し舟のことやね」「向島の下嶋にも渡し場町と『いんげん隠元の渡し』があるやろ」「ああ、ワタシて渡し舟か」

 詳しく見ると、淀城下の桂川や、淀川の八幡(現・八幡市)に、また大池と呼ばれた巨椋池(沼)にも「池ノ東西ニ渡シ舟アリ」の文字が見つかりました。

 では、「渡し(渡し舟)」とは何でしょう。諺に「わたりに船(わたりに船を得る)」というものがあります。「どうこの川を渡ろうかと思案していたら、ちょうど目の前に船が漕ぎ寄せてきた」言いかえれば「何かをしようと思うとき都合よく望みどおりの条件が整うこと」という意味で使われている、昔の大切な交通手段であった舟運を思い起こさせる諺です。

 渡し舟のことを調べていて、いくつか初めて知ったことがあります。紹介します。

 一つは、河川水運では、上流に向かう上り船と、下流に向かう下り船が、比較的長距離の水運ですが、もう一つ河川を横断して一方の岸からもう一方の岸へ物や人を運ぶ必要がありました。これらは川幅だけの近距離のものですが、川を横断する「横渡船」と呼ばれました。今、我々が使う、川の渡し船のことなのです。

 もう一つは、その航路のことです。昔の図会からでは判らなかったことですが、両岸の渡し場を直線に結び直航したのではなく、図のように、最初は流れにさからい上流に向かった後、反転して流れにのって横断しつつ下り、目的地に到達したのです。なるほどですね。


――隠元(いんげん)の渡し――

 宇治市五ヶ庄と伏見向島を結ぶ最短コースの渡し舟であったと言われています。昭和二四年まで、今の隠元橋はなく、宇治橋と観月橋の間の、特に宇治川東部に田や畑、茶畑を持つ、宇治川左岸の向島の人々によく利用されていました。渡し場の目印となるモチノキの大木が、今も槙島堤の上に立ち続けています。

 この大木と、渡し舟の乗り場のある町内は「向島渡シ場町」と呼ばれ、今も写真のような、町名のプレートがかけられており、数百年間続いた渡し舟・渡し場があったことを伝えています。

  「隠元の渡し」の隠元とは、将軍徳川家綱に請われて来日した中国僧で、一六六一年に宇治五ヶ庄におうばく黄檗山万福寺を開きました。また、中国から持ってきた豆を全国にひろめたことでも有名です。その豆の名は、隠元豆です。

 隠元が来日した際上陸した浜、または万福寺建立の資材が陸揚げされた浜が、後に隠元浜と呼ばれ、対岸の向島渡シ場町の間を往復した渡し舟も「隠元渡シ」と呼ばれました。

  「隠元渡シ」の船頭は渡シ場町に住んでいたので、宇治川の右岸(宇治五ヶ庄側)から左岸(伏見向島)へ渡る際には、大きな声を張り上げて対岸の船頭さんを呼んだと言われています。

 向島小学校の郷土資料室に、茶業農家が茶摘みの際よく使った宇治川の渡し舟の櫂が保存されています。対岸に田畑を持つ農家は各自所有したと言います。交通量の増加に伴いはじめて架けられた橋は、渡し舟名に因んで隠元橋と名付けられ現在に到っています。


――横大路の渡し――

 序文で紹介した、京都の江戸時代の古地図にある「ワタシ」を調べてみました。桂川と鴨川の合流地点のすぐ下流、桂川に書かれた「ワタシ」とは、横大路の渡しに違いありません。横大路小学校のすぐ北東の桂川堤防沿いに、魚市場遺跡の碑が建てられていますが、またその一五メートルほど上流に、写真のような渡し舟の乗り場の石碑が見られます。

 植木と草むらで少々見えにくいのですが、一方に「舟のり(場)」また裏面に「柳谷(かんのん)」の字が読みとれます。

 桂川と鴨川の合流点であるこの地は、昔は草津ヶ浜または草津の湊と呼ばれ、西国と京都を結ぶ淀川・桂川の乗船地でした。これは上り下りの長距離でしたが、桂川に橋のない時代、川を横断する横渡しの必要がありました。

 たまて箱(四八)「堤防」で述べたように、「横大路」というのは、一ヶ所の地名ではありません。横大路とは文字通り、京都盆地の南部を東西に真横一文字に貫く古道名なのです。元来長岡京の東西街道の中心とされた「綾小路」を通り、西は西国街道へ。また東は巨椋池の北を通って六地蔵から宇治へ。現在の奈良街道(官道だった古北街道)へと続いています(今では外環状線と呼ばれています)。

 長岡京の都を流れていた桂川。その桂川で断ち切られた「横大路」。それを結んでいた横大路の渡し。その当時から重要な横渡船だったにちがいありませんね。


――宮の渡し――

 宇治川・桂川・木津川の三川が合流する所に「淀」の町があり、合流した流れは淀川となり大阪湾に向かっていきます。「淀(古くは輿等・与等)」は、三川の水がこの地で流れがとどこおり止まる「淀む」ことから生まれた地名だと考えられています。

  『日本三大実録』(平安時代の八七四年)に「与度渡口」と書かれてあり、淀が当時の交通の要所であったことがうかがえます。

 秀吉時代の淀城は、のうそ納所の北城堀・南城堀周辺にあったと考えられます。江戸時代になり、参勤交代の制度の確立と共に、西国大名行列の淀・伏見の舟運の発着所とともに、京都盆地中央部の水陸交通を掌握・管理できる重要なポイントとして、淀藩および淀城が位置づけられていました。

 江戸時代の川の流れと今の流れはたいへん違います。昔、淀小橋が架かり宇治川が流れていた跡が、今は道になっていたりという具合です。資料の都名所図会を見てください。桂川を挟んで大下津町・水垂町と淀小橋が描かれています。よく見ると淀川を渡った淀小橋の袂に、江戸期朝鮮通信使が川御座船の発着に使った「唐人雁木」と呼ばれた桟橋が描かれています。階段のように見える所です。

 今は、京阪電車淀駅の前に「予杼神社」はありますが、当時は川向こうに神社があり、橋(今は宮前橋があります)は架かっておらず、淀城下から神社の前を往復する「宮の渡し」が活躍していた様子がうかがえます。


――橋本の渡し――

 江戸時代の古地図で見つけたもう一つの「ワタシ」は男山八幡地区です。伏見区の子どもたちが遠足でよく行く、「八幡さん」と淀川を挟んだ川向こうの町や集落との横渡しです。

 早速、八幡市立の図書館を訪れました。「江戸時代いちばん盛んに使われ、有名だったのは橋本の渡しですね。昭和まで使われていましたよ」教えていただいた渡し場や建っている石碑の写真を撮りに、京阪橋本駅の前まで行きました。明治二年、渡し仲間が建てたものです。

 一方で、橋本宿のことを調べてみました。「『橋本』という地名は、昔、川向かいの山崎から架けられた大きな橋がありました。その大橋の橋詰であることから橋本と名付けられました。平安時代の『延喜式』や『文徳実録』に山崎の橋と紹介されています。今はなく、船渡しとなっています」と、江戸時代の本に書かれています。資料は淀川両覧に載った橋本の図です。

 一般的に東海道は、江戸日本橋から京都三条大橋までの五十三次の宿ですが、江戸幕府は伏見・淀・枚方・守口の京街道四宿を加えた五十七宿を東海道と見なしていました。

 また、西国の大名が参勤交代の際に京都に入るのを好まず、伏見宿から山科を通り大津宿へ向かうよう経路を取らせました。橋本は宿ではありませんでしたが、江戸中期から旅人相手の旅宿としてにぎわいました。そして男山八幡の門前の南に位置していることや、桜の名所としても有名でにぎわったことが知られ、現在も京阪橋本駅前に昔をしのばせる建物が並んでいておどろかされます。

 渡し舟は、山崎西国街道からいわ石しみず清水八幡宮へ参拝する人々で、一方、八幡からは橋詰の石碑に刻まれたように柳谷観音や愛宕神社、長岡天満宮へ参拝する人達に重宝がられたようです。 また、この渡しは、大山崎油座人神から石清水八幡宮へ灯油え荏ごま胡麻の運送主とした時期もあったため、「灯油渡し」とも呼ばれました。が、千年の歴史のある渡し舟も、交通手段の発達と道路網の整備により、昭和三十九年(一九六四)にその姿を消しました。


――東一口(いもあらい)の渡し舟――

 向島は巨椋池の北部に位置し、上島や下島という地名が干拓前の大池と呼ばれた昔の巨椋池をしのばせますが、池の南西部に位置した東西いもあらい一口村にも水郷であったことを伝える物が残されています。淀川渡船所碑です。

 東一口村が、京都府下でも珍しい淡水漁業で栄えたことで知られた村であったのに対し、隣の西一口村は、純粋な農業中心の村でした。淀と西一口村を結ぶ五〇人近くも乗れる大型の渡し舟が通っていたことがつい最近のように語られています。昭和二十八年に堤防が決壊した後廃止され、バスに代わったそうです。渡し賃は昭和二十三年で一人二円。二十五年には一人五円になりました。

 主なお客は、東一口にある安養寺への参拝者、西池への釣り人、ダイコンド(太閤通)のイモ堀の団体客と毎日の通勤、通学の人々でした。戦時中は戦争に行く出兵兵を送ったり、戦後の食糧難の時代は買い出しの人々を運んだことも伝えられています。

 向島小学校の郷土資料室には、和船のかい櫂が三本あります。巨椋池で漁に使われていた物と、前述の隠元の渡しなど茶園農家に伝わる宇治川の渡し舟に使われたといわれる物です。池や沼の船より渡し舟で使われた船の櫂の方が、数十センチメートル長く、また幅広く大きく丈夫な物です。川の流れにまけないよう、頑丈に作られているようです。浅い所では、竹や木の棒のさお棹も同時に使われたようです。

 東西一口のあるくみやま久御山町の町役場を訪問しました。巨椋池で使われた漁船が保存されていることを、府立資料館で教わったのです。写真がそうです。この漁船は、巨椋池の淡水漁だけでなく、夏の風物詩の蓮見や、時には臨時の渡し舟としても活躍したことが考えられます。特に洪水で堤などが切れた時などは大いに活躍したようです。三条大橋の座像のモデル、高山彦九郎の「天明京都日記」に触れられています。「堤切れの為、舟に乗る。舟に乗れる事三十丁斗り、向島に至る」と。


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