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季刊「ひろば・京都の教育」第159号


京都歴史教材 たまて箱59

並木・街路樹

−人々を風雨から守り、緑陰とやすらぎを与え続けて−

                    早川 幸生




――街路樹はすべて銀杏?――

 東山区の旧国道一号線(旧東海道・三条通)に面した生家の前には、京阪大津線と旧国道一号線を挟んだ東西に伸びる歩道があり、約一〇メートル間隔でイチョウの木が植えられていました。街路樹の下の土の部分に穴をあけ、ビー玉遊びをしたり、何本かに一本あるギンナン拾いは、秋の楽しみでした。春の芽吹き、夏の緑陰、秋の黄葉と冬の落葉等、季節の移り変わりを子どもなりに感じることができました。

 特に、秋は男の子にとっては楽しみでした。写真のように京の三大祭のひとつ「時代祭」の行列が通ります。我家も二階の窓をはずし、街路樹の下にゴザや床机を置いて、友だちやお客さんを待ったものです。秋の落葉直前のイチョウの木の剪定も楽しみでした。従来は落葉直前の時期だったのが、一時期、祭の行列前に剪定されたことがありました。作業が終了した各樹木の根本には、剪定された枝が大きな束にくくられて、翌日の回収を待っていました。夜の「火の用心・防火の夜廻り」のために集まった男の子は、剪定された束の中から何本かのイチョウの枝を抜き取ったのです。          ※ 写真1(略)

 目的は、チャンバラ用の物と、枝の二股を利用してのパチンコ用の物でした。イチョウの木の皮は、小刀で切れ目を入れるとくるりと皮がむけ、真っ白いつるんとした木肌が現れました。そして、甘い独特のにおいがするのでした。チャンバラ用の枝やパチンコ(二股の間にゴムを結び、小石などを挟んで飛ばす)用の枝の、手に持つ部分に樹皮を残し、各自が模様を入れたり、名前を小刀で刻んで楽しんだものです。

 毎日の生活・行動範囲が、生まれた町内だけだった小学校低学年の頃は、京都の街路樹はすべてイチョウだと信じていました。暑さや乾燥・病害虫にも強く、生長も早く寿命も長いため、京都でも一番多く街路樹として使われているそうです。


――街路樹・並木の歴史――

 我家から歩いて五分のところ、旧奈良街道沿いに、現存する京都市内唯一の一里塚が残されています。「おおやけ大宅一里塚」と呼ばれ、奈良街道の東西両側に一本ずつとエノキが植えられていたと言われていますが、現在では街道の西側の大エノキ一本が、当時を偲ばせています。一説によると、天正二年(一五七五)織田信長は、道奉行に命じて、東海道と東山道に街道を通る人々のために松と柳を植えさせたといわれています。中でも歩いた距離や目的地がわかるように、休憩地を兼ねた「一里塚」を作らせました。今から四百年以上前のことです。                            ※ 写真2(略)

 江戸時代になると、徳川家二代将軍家忠が慶長九年(一六〇四)に、五街道をはじめ全国大小の道路を整備し、道の両側に松や杉を植えたそうです。これにならって、各諸藩でも並木を植えたとのことです。

 舟運が盛んになり、運河などの開削が進むと、主な川筋に沿って柳や桜などの並木が植えられたようです。桂川、鴨川、高瀬川等にその名残が見られたり、感じられたりします。     ※ 写真3(略)

 明治になると、東京遷都により活気の低下した京都復興のため、多大の予算を伴った制作が企画・実行されました。有名なものに、琵琶湖疎水の建設がありますが、その完成とともに疎水沿いに、柳や桜・楓が植えられました。山科疎水、岡崎・蹴上の桜や柳、第二疎水や哲学の道の桜名所や散策路は当時の事業の遺産です。


――高瀬川沿いの柳と桜――  ※ 図4・5(略)

 掲載した図会は、江戸期安永九年(一七八〇)出版の都名所図会の「いけ生す洲」と、天明七年(一七八七)出版の拾遺名所図会の「高瀬川」の図です。生洲とは、「漁獲した魚を水中に生かしたままたくわえておく所」です。現在も、町名に東生洲町・西生洲町があります。図に見える川は高瀬川で、高瀬川に面しているのは、現在の西生洲町です。図会の中の説明書きには「生洲というは、高瀬川筋三条の北にあり。川辺に桜をしつらい、もろもろの魚、鳥を料理て客をもてなし、酒肴を商う。(以下省略)」と記されています。そして、右手に見えるのは芽吹いた柳。季節は春でしょうか。立誠小の児童と地域調べをした時の発見でした。

 「高瀬川」の図は、別称・高瀬川舟ひ曳きの図と呼ばれ、当時の舟運の様子を伝える貴重で有名なものです。川上に向かって、川の東側を舟曳き人足の人たちが引き綱を肩にかけています。そしてまた、川沿いには柳の木が見えます。もう一枚の写真は、クラスの古書籍屋さんの児童が持ってきてくれたものです。『明治の京都』という本に載っていた資料です。明治の終わりから大正時代には、高瀬川筋には柳が植えられていたのがわかります。       ※ 写真6(略)

 でも、昭和三年に出版された『京ところどころ』という本の中に「木屋町筋の柳が切り払われた当時、私はどれだけ名残惜しく思ったことだろう」と書かれ、昭和の初めに高瀬川沿いの柳の木が一度は無くなったことが解ります。でも現在では、桜と柳の木が交互に植えられていますが、いつ、どこの柳が植えられているのでしょう。不思議に思い高瀬川に沿って歩いていると、三条小橋上るニノ舟入跡に説明板を見つけました。紹介します。

 「この柳は、東京銀座から里帰りしたシダレ柳です。『昔恋しい銀座の柳』と唄われる『東京行進曲』に出てくる東京銀座中央通のヤナギは、道路整備のためその姿を消しました。しかし、昔をなつかしんだ地元有志の方々が、その頃の風情をもう一度甦らせようと、残された柳から二世をふやし、ヤナギ並木を復活させました。『銀座』という名称は、京都の伏見が発祥の地と言われています。また、この『銀座のヤナギ』の親は、『六角の柳(京都の頂法寺)』とも言われており、京都とは縁の深いものです。『銀座のヤナギ』を復活させた有志の方々から『京都の文化』を頂いたご恩返しにとご寄付いただき、平成八年六月にヤナギの似合う高瀬川沿いの木屋町に植樹いたしました」以上。一枚の説明に記された色々な史実に、本当に驚かされ、一の舟入から三条小橋まで改めて歩き直してみました。写真が里帰りの柳です。  ※ 写真7(略)

 平安京の南北のメインストリートであった朱雀大路には楊柳が植えられたと記されています。楊柳とは、大きな柳であっただろうと考えられています。柳の並木が美しい場所は三条から四条の白川沿いや、川端通、堀川、天神川通と、伏見濠川沿いなどのやはり川べりです。


――御蔭(みかげ)通・えんじゅ――

 左京の修学院小学校の校区は広く、地域の神社もはち八だい大神社・さぎの鷺もり森神社などがあり、それぞれに歴史のある祭礼を実施されていました。 それ以外に下鴨神社と御蔭神社に関わる御蔭祭にも参列されたり、大切な役割を分担されているとの話を聞いていました。   ※図8(略)

 御蔭祭は、御輿ではなく、神馬の背に神の御蓙(錦蓋)を乗せ行列するなど、日本の最古級の神行列と言われています。五月十五日の葵祭の三日前に、下鴨神社から下鴨神社の奥宮・上高野比叡山麓の御蔭祭まで、葵祭の神霊(荒魂)を迎える神事とされています

 行列のコースは、下鴨神社・糺の森から御蔭橋を渡り、旧若狭街道(地元では、新田街道)を向かったと言われています。現在では、その御蔭橋の東へ伸びる道を御蔭通と呼んでいます。御蔭通の街路樹は、京都では珍しいエンジュであることを地域の方から教えてもらいました。早速、御蔭通まで出かけました。       ※写真9(略)

 御蔭通のエンジュは、昭和十二年に植えられました。現在では写真のような街路樹になっています。御蔭通の木の一本に説明がありました。

 「エンジュ。マメ科。幹は真直ぐに伸び、樹高一〇〜二〇メートルになる落葉高木。中国原産で渡来はかなり古いと思われる。中国・周の時代には宮殿の庭に植え、朝廷の最高位にあたる三公はこれに向かって座したことから、各家でも子が成長して高位につけることを願って屋敷内に植えたという。日本でも『延寿』に通じる縁起の良い木とされ古くから植えられている」


――淀堤千両松――

 伏見の向島小学校の地域学習や総合学習で宇治川のことを調べてみると、江戸時代の宇治川両岸一覧や淀川両岸一覧に出会い、児童とともに、約一五〇年前の地域の生き生きとした様子に見入ったものです。その時、児童から「宇治川はどこから淀川て名前が変わるの」という質問が出ましたが、すぐには解決しませんでした。

そんな時、観月橋の南詰の橋詰町に写真のような石碑のあることを知り、さっそく見に出かけました。昭和六年に内務省が建てたものです。碑には「淀川・従是下至海」と刻まれ、表側の面には「淀川維持区域標」とあります。    ※写真10(略)

 子どもたちに「観月橋から下流、海まで淀川という」碑である説明をすることができました。そして、淀川の舟運は、当時の重要な交通手段として歴史の舞台に登場します。

 豊臣秀吉は、天正十六年(一五八八)から翌年にかけて、今ののうそ納所に淀君のために「淀城」を築きました。と同時に、桂川の左岸堤を鳥羽街道として、京都と淀・納所を結ぶとともに、伏見城や城下町の建設に関連して、伏見と淀の間に淀堤(太閤堤)を築き街道とするなど交通網を整備しました。

 また、文禄五年(一五九六)には、毛利家などの西国大名に命じて淀川堤を築かせて、左岸堤を京街道(大坂街道)として京都伏見・淀から大阪へ通じる陸路を整備しました。

 資料の図は、江戸期安政三年(一八五六)に出版された淀川両岸一覧の「淀堤。千両松」の図会です。淀川堤を遡る、上りの舟を岸辺から舟曳き人足の人々が綱でひいています。その後には、千両松と呼ばれる見事な松が並んでいます。当時は日中、両岸の景色を見ながら、半日の舟旅を楽しむのがはやったようです。

 将軍や朝鮮通信使の通行の折には、街道沿いの村々から人足を出すよう求められ、川の整備や舟曳き等負担はたいへんだったことが伝えられています。そんな時、陸路を行く人には日陰や休憩場を、船上の人には美しい景色をプレゼントしたことでしょう。

 残念なことに、大正期から陸上交通が盛んになり淀川の舟運は衰え、現在では淀付近で当時の千両松を偲ばせる松はもう見られませんが、横大路に「千両松町」という町名が残り、街道筋の松の並木を伝えています。    ※ 図11(略)

 現在京都では、松並木は岡崎公園や加茂街道、金閣寺などの社寺の境内や参道に見られますが、最近のマツクイムシ被害や道路の改修により失われつつあります。 参道にある並木としては天歴九年(九五五)に北野天満宮に松が、また応永二年(一三九五)に南禅寺にも松が植えられたといわれています。

 古今集に「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」と詠まれていて、当時の都の景色は、とても美しく街路樹が植えられていたことが想像されます。

 あなたのお気に入りの街路樹は何ですか。

 あなたの思い出の並木はどこですか。

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