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季刊「ひろば・京都の教育」第159号


平和教育の実践

退職教職員の立場から 「平和教育」への熱い思い T


       足立恭子(立命館大学国際平和ミュージアム・ガイド 戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会)




1はじめに  「間違った教育を受けた」という怒り

 私は1935年の生まれで、41年から始まった国民学校に入学した世代です。

 12月8日は全員が講堂に集合し、校長先生から真珠湾攻撃の話を聞きました。

 1〜2年生の間は緊迫感はそれほどありませんでしたが、3年生の頃から学校生活は一段と厳しくなりました。神がかり的な修身や国史、軍国調の国語の時間。41年から始まった第五期国定教科書は、大日本帝国の皇国史観の極限状況を子どもに教える内容でした。これに合わせて体錬の時間が増え、寒い時でも校庭で上半身裸の体操が常時となり、ある時、裸になるのが嫌で下着を着て出た女性徒たちが男の先生に殴り倒されました。私も登校の朝、奉安殿に最敬礼するのを忘れていて、見張りの6年生の男子に右頬を殴打されたことがあります。学校では何かというと暴力でした。

 学校は鎌倉で、鎌倉幕府の史跡がたくさんあったので、八幡宮・大塔の宮・建長寺などへ必勝祈願でたびたび行進して行きましたが、3〜4年の子どもでも中途落伍は認められず、またここで鎌倉時代の元寇の役の訓話で、「日本は神国だからかならず神風が吹いて敵国を滅ぼす」と繰り返し教えられたことは、60年を過ぎた今も忘れられません。  やがて京浜地方一帯の空襲が激しくなり、父の郷里の福知山に疎開。言葉の違いや開墾などの作業ができず、いじめられ続けて8月15日を迎えました。

 敗戦の日よりも強烈な記憶は、家の近くに福知山二十連隊の広い練兵場があり、兵士が全員フィリピンの戦場へ出て行った後は一面さつま芋畑になっていましたが、8月の末頃、付近の住民が根こそぎ奪って行ったことです。私たち子どもも争って筋のような芋も蔓も取りに行きました。戦時中の配給体制が崩れた戦後の方が、食糧不足は深刻でした。

 敗戦の翌年の6年生の時の教科書はザラ半紙を四つ折にしたもので、すぐに破れ、何を勉強したか記憶がありません。一方で忘れられないのは、この頃戦地から復員してきた男たちが、夏の盂蘭盆や隣組の集まりで、「チャンコロの首をいくつ斬った」「朝鮮の女は金を少しやれば何でもいうことを聞く」などとおもしろ可笑しく話していたのを皆が笑って聞いていた光景です。私もその一人でした。

 1947年、新制中学校に入学。すきま風の入るボロボロの校舎で新しい憲法を学び、前文と九条を暗記して「日本はもう戦争はしないのだ」と実感しましたが、母の代わりに配給物を取りに行った店先では近所の主婦たちが「憲法なんて役に立たんものより食べ物が先や」と言っていました。

 何もかも破壊し尽した戦争への怒りはありましたが、その反省や憲法よりも毎日生きて行くことに人々は必死だったのです。  3年の時、復員してきた社会担当の若い先生が「君たちは小学校時代、嘘の歴史ばかり習ったろう。モンゴルの来襲の時吹いたのは台風だ。神風など吹くわけがない。」と言っのが強烈な印象で、この先生の授業はクラス全員が真剣に聞いたものです。食べ物にも餓えていたけれど、学ぶことにも餓えていた時代でした。中学生ながら皆、政治や社会の情勢に機敏に反応し、新聞もよく読みました。

 しかし49年、米ソの冷戦が強まり、アメリカの占領政策が転換してレッドパージが始まり、朝鮮戦争が勃発した年に入学した高校では、クラスでも朝鮮戦争が話題になり生徒たちは「なぜ戦争が起きるのか」と教師に意見を求めましたが、担任は何も答えませんでした。

 後年、私自身が教師になった頃の同窓会で、当時の担任に戦時中の教育の誤りを何と思っているのかと聞くと、「あの時は教師も神風が吹くと真剣に思っていた。戦後の教科書の墨塗りも上から命令されたから。嘘を教えた覚えはない。」と突っぱねられました。

 時代と共に平然と変質していく学校や教師の姿は、北桑田高校の田中仁先生が「戦時中・戦後の学校日誌の掘り起こし」の中で明らかにしておられますが、私には「国の命令とは言え間違った教育をしたのに、謝罪もしなかった。」という怒りが離れませんでした。

 家永教科書裁判が大きな社会問題になり始めた60年代の後半には、学校現場にも戦前からの教師がまだ大勢いました。組合教研などでこの問題を取り上げても、教え子を戦場に送った体験を持つ教師でも、「戦時中は思想や言論の自由はまったくなかった。仕方がなかった。」で終わってしまい、自己の戦争体験を思い出話のように語るだけで、なぜそうなったのか、ごく少数の人々を除いて日本中が狂気に侵されていった原因を知ろうとしない。家永教科書検定違憲訴訟を契機に、過去に対する教育の反省と、そこから教訓を得ようとする態度を持った教師が、私の周辺では残念ながらほとんどいませんでした。


2 十分にできなかった平和教育――現職中の悔恨と反省から

 私は30歳を過ぎた頃から日本歴史を学びました。近現代史だけでなく、文部省による68年の小学校学習指導要領改定告示の頃から、6年生の社会科教科書で、原始・古代に関わる内容で考古学的資料による歴史の記述が削除され始めていたからです。子ども時代に叩き込まれた神話や皇国史観を思い出しました。それと、当時、担任したクラスには毎年必ず在日韓国人の子どもがいました。6年生を担任した時、近現代史の部分はもちろん、日本史の全編を通して、どう対応していいのかわからなかったのです。

 蜷川府政下で、今とは比較にならないほど教師の自主研究は自由でしたから、夏休みを利用して各地の学習会や研究会に出かけ、家永先生の講義は、まさに「目から鱗」でした。

 当時の平和教育と言えば8月6日か9日の登校日に行なう「原爆の話」だけでしたが、それでも60〜70年代の頃は、6年生の社会「太平洋戦争下の人々のくらし」の項で、私自身の子ども時代の戦争体験を話すと子どもたちは強い関心を示し、父母や祖父母からも多くの体験を聞いてきてくれました。中には、宇治の花やしきに女中奉公をしていて、山本宣治の葬儀に長女の治子さんを背負って参列したというお祖母さんの話を伝えてくれた生徒もいました。お祖父さんやお祖母さんが宇治の火薬製造所で働いていたという話も何人かの子どもたちがしました。宇治火薬製造所のことを知ったのは、この時が初めてです。当時は「戦争遺跡」という言葉も知りませんでしたが、夏休みには子どもたちを連れて巨椋の干拓地や城陽の古墳めぐりなどのフィールドワークをしていたのに、火薬製造所の見学をしなかったのは後悔が残っています。

 しかし、日本の加害責任の課題には踏み込めませんでした。教員生活を終わる2年前に担任した6年生のクラスにいた在日韓国人のA君の両親から、植民地化された祖国を出て日本へ出稼ぎに来た戦争当時の苦しさを聞き、両親の諒解を得てこれを教材化した時は、クラスの中に一定の変化が現れましたが、この後が続かず、15年戦争における日本の侵略・加害の問題はぼやかしてしまいました。こんな時にこそ戦場の体験者を教室に呼ぶべきだったと(保護者や地域の中にも大勢おられたのに)反省しています。

 加害責任を否定・削除した教科書検定が国際問題化したのが82年。この頃から始まった「平和のための京都の戦争展」では、「侵略・加害」がテーマの一つとなり、私は毎年同僚や生徒と参加しました。連日満員の会場で、戦争の実体験や戦時中のくらしの様を熱心に語る先輩の教師たちの話を、食い入るように聞いている若い同僚や子どもたちを見て、自分も今度こそは教室で実践しようと思いながら、その後20年間議員の任務を負い、ついに現場へは戻れませんでした。

 間違った教育を再び許してはならない、誤りは認めなければならない、教師は無知であってはならないを、自分のライフワークにしようと、68歳で仕事から解放されてから始めました。国際平和ミュージアムのガイド、宇治市の社会人講師に登録して、「学校で戦争体験を語る」、京都の戦争展の実行委員の一人として。すでに74歳という老年。若い時を無駄に過ごしたという後悔は取り返しがつきませんが、平和教育のために微力でも何かをしたいと思っています。具体的な実践例は次の機会に掲載します。

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