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特集1 格差社会と教育の貧困--子どものために求められる援助


総論 貧困・格差社会の記憶のために

                  中山 一樹(立命館大学)


1 転換期

 2008年から2009年の年越しは、日比谷公園の「年越し派遣村」の報道映像で、「豊かな社会」と思われていた日本が貧困を露わにした社会であることを、わたしたちに後年まで記憶させるものであった。とくに重要なのは、ホームレスの労働者が、数日間ではあれ厚労省講堂に緊急避難した映像である。派遣切り等によって明日の生活に困窮をきたすホームレス、働いてもなお困難な生活をしいられるワーキングプア、こうした人々の生存のあり方にたいして、それが社会的支援や救済の対象であり、その背景には国家による雇用政策の破綻があったことを映像メディアをとおして広く共有したことである。

 日本社会には貧困があり、その打開のために国家をはじめとする公共的支援の必要に正当性が与えられた。それが人々に支持される方に向かいはじめている。仕事をみつけ、働いて社会参加することは個人の自己責任で解決できるものではなく、雇用政策などの公共的政策の課題であるという認識の方へ転換されることは大きな転換である。90年代末からのこの10年、働くことによる社会参加は当事者の自己努力であり、それをはたせないのは当事者個人の自己責任であるという思潮がこの社会を覆ってきた。

 たった3年前、郵政選挙において国民によって選出されたこの国の総理大臣は、大意つぎのような所見をしめしていた。「わたしは格差が出ることは悪いこととは思っていない。ようやく今、光が見えてきた。光が見え出すと影のことを言う(人がいる)。影に対し、どうやって手当てをしていくかが大事だ」「貧困層をなくす対策と同時に、成功をねたむ風潮や能力のある人を引っ張る風潮は厳に慎んでいかないと、社会の発展はない」(2006年2月1日の第164国会参院予算委員会における小泉純一郎総理答弁)。

 さらに、同政権の竹中平蔵総務相は「貧困は一定程度広がったら施策で対応しないといけませんが、社会的に解決しないといけない大問題としての貧困はこの国にはないと思います」(『朝日新聞』2006年6月16日付)と閣僚としての見解をのべた。これらの政治的表明(ことば)をわたしたちは鮮明に記憶しておきたい。人々がこの世に生存するには社会的条件が必要であるように、教え=学ぶ関係をかたち作るのにもまた社会的条件が必要である。


2 学ぶことの困難さへのまなざし

 貧困な社会のひとつとして学ぶことの困難が広く知られるようになったのは、「義務教育への就学にともなう困難」として提起されていたのである。「就学援助4年で4割増 学用品や給食費の就学援助、4年で4割増 東京・大阪、4人に1人」という報道(『朝日新聞』2006年1月3日付)であった。周知のとおり就学援助制度は、学校教育法の「市町村は必要な援助を与えなければならない」とする規定に基づく自治体ごとの措置制度である。しかし就学義務を負う保護者への支援制度は、そのときどきの教育トピックスのようには広くは知られていない。なぜならば、この義務教育の機会均等を実現するための制度は、生活保護法の「要保護」及び「要保護に準ずる程度に困窮している者」への対応であって、それは日本社会では例外的な対応であるとみなす見解が支配的であったからである。

 一例をしめすと、これから教え=学ぶ関係の一方の当事者である教職志望の学生たちは、就学援助制度はもとより貧困によって生じる学習条件の差異というものがこの社会に存在することをかならずしも認識していないという事実である。彼女/彼らが知っている教育とは、「よい教育」「優秀な成績」といった自己努力によって蓄積される、あくまでも個人の能力(メリトクラシー)を主軸になりたつ教育なのである。それは学生たちのこれまでの学習世界が、保護者たちによる家族主義的な安定的条件を前提としており、同じような条件をもつ者同士のつながりのなかで学習し生活するために、安定的な勉学条件を獲得できない同世代というものを発見せずに成長せざるをえなかったからである。

 もちろん教育の現場の事実や実践は、子どもたちの間にはつねに就学条件や持続的な勉学条件のちがいが存在しており、公共的な教育の課題は、教育の機会均等原則によって学習条件の差異を補償されるべき課題として提起してきた。就学援助の報道は、学ぶ条件の格差が拡大傾向していることからさらに踏み込んであらためて保護者の貧困にともなう学習条件における貧困の課題があることを知らしめたのである。


3 生活の困難の実情

 子育ては世帯単位の営みである。そこで現代の養育期にある子どもをもつ世帯の教育費用がどの程度であるのか確認したい。

(1)金澤誠一による試算をみてみよう(注1)。家族による教育支出が最低限度どの程度必要かを試算した結果である。男子中学2年生と女子小学3年生をもつ40代の夫婦の場合、この家族(世帯)の消費支出は月額366,236円で、そのうち教育支出は31,605円(8.6%)であるという。それに所得税、住民税、社会保険料など非消費支出を加えるとこの家族の最低生計費は税込みで482,227円(年額5.786724)となる。この試算は、実際の生活からこの程度の支出は必要であろうという視点から算出されたものではない。

(2)実際の貧困基準はどのようになっているのか。日本の生活保護基準は、一般世帯の消費支出の中央値の60%とされるが、2005年の生活保護世帯の最低生活費全国平均値は、4人世帯で315万円である。この層の世帯は全国で207万世帯(総世帯数は3,148世帯。2007年)とみなされている。これは金澤が試算した必要となされる生計費をはるかに下回る金額である。そのなかでの教育費は月額21,781円である。

(3)勤労世帯でありながら貧困線上にあるワーキングプア層ついてはどうか。後藤によるワーキングプア推計によれば(注2)、勤労世帯の貧困基準は生活保護基準である「最低生活費」の1.4倍と計算すると、4人世帯で441万円、給与所得控除を加えた場合には4人世帯で461万円となる。このように、4人家族で世帯年収400万円台半ばが、働きながら子どもを育てる場合の貧困線であることがわかる。このなかで教育費の占める率はどの程度なのか。後藤によれば、長子が中小学生の場合には、年収300-400万円層では月額13,445円、400-500万円層では14,432円。長子が高校生である場合には、300-400万円層では月額59,794円、400-500万円層では41,223円であるとされている。

(4)就学援助の基準。これは自治体ごとの判断によるが、これらの基準値からすると、準要保護世帯はおおよそ400万円前後とみられる。

(5)最後に注目したいのは、子どもの教育にかかわって貧困と格差の相関を明瞭にしめす資料である。図は文科省による「世帯の年間収入段階別,項目別経費の金額段階別構成比 」である。2006年度調査からこの調査には「世帯の年間収入段階別」の項目がつけくわえられた。グラフは、個別家族が負担する教育支出の年額を縦軸に、保護者の年収を横軸にとり、それらの相関のなかで、子どもがどの学校に通う比率が多いかをしめしている。学校種別は、公立・私立別、小中高別になっている。  調査者による説明は「学校種別に世帯の年間収入と学習費総額の状況をみると…いずれの学校種においても年間収入が増加するほど学習費総額が多くなる傾向がみられる」(注3)ということである。とくに「補助学習費」においてはその格差が顕著である。

(*図1 「世帯の年間収入別,学校種別学習費総額」は省略)

 ここで提言したいことは、学校関係者はもとより、自校の子どもや保護者たちの生活の実情や、教育実践のなかで垣間見る事実を、上記のデータと付き合わせることで、今日の教育を成り立たせる条件や教育関係の質の変化について検討をすすめることである。

注1 金澤誠一「構造改革下での生活崩壊と最低生計費」(『賃金と社会保障』2006年7月下旬号、旬報社)

注2 後藤道夫「貧困急増の実態とその背景」(『貧困研究』1号、2008年11月、明石書店)

注3 http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/006/07120312/003.htm)


【参考文献】

○浅井春夫ほか『子どもの貧困』(明石書店、2008年)
○阿部彩『子どもの貧困』(岩波書店、2008年)
○OECD『生きるための知識と技能・2006年調査国際報告』(ぎょうせい、2007年。とくに第5章「学習の背景」を参照)
○貧困世帯の再生産の実態については、道中隆「保護受給層の貧困の様相」(『生活経済政策』127号、2007年秋号)を参照。この研究をもとにした記事が『週刊東洋経済』2008年5月17日号に掲載されている。

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