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早川幸生の

京都歴史教材 たまて箱 -昆布-

町衆の食と健康を支え続けて
                  早川 幸生

ひろば 京都の教育」157号では、本文の他に写真8枚が掲載されていますが、本ホームページでは割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」157号をごらんください。


−昆布屋−

 今に比べると、四〇〜五〇年前には昆布専門店が多くありました。例えば、僕の住んでいた町内の東端に一軒(問屋)。三条通りを挟んで、斜め向かい側に一軒(製造・小売)。西隣の町内でもあり、南北に通る古川町商店街の北端に一軒(製造・小売)。そして、三条通りから南の古川町の商店街の中にも一、二軒はあったように思います。現在もあるのは、前述の前から二軒だけです。

 特に思い出深いのは、町内東端の昆布問屋「加賀しん」こと中村さんでした。今ではアスファルト舗装された道ですが、昔は土の露地でした。お店の前が、紙芝居の自転車の止まる所だったのもあって、周辺には常にメンコやビー玉、コマを手にした子どもたちが二十人前後群れて遊んでいました。

 そんな店先に、年に何度かほろをかけた大型のトラックが止まりました。店の中から家族や従業員が総出で、昆布の荷下ろしが始まりました。肩に布や前掛けを敷き、大きな箱形に折り重ね束ねられた昆布の山が次々と店の中へ運ばれます。遊ぶ手を止めた子どもたちに、昆布の良い香りも運ばれるのでした。

 毎日のくらしの中では、祖母が「もぞく」と呼んでいた「とろろ昆布」、だし昆布そして毎年、春五月筍とみ実さんしょう山椒の頃、家で焚く塩昆布用の煮昆布が不可欠でした。そして、お使いのおつりで買えた酢昆布や昆布飴は今でも大好物です。鏡餅の昆布の切り端で作る正月三が日の結び昆布作りは、今も僕の仕事です。


−子どもと昆布・その一(昆布巻)−

 伏見の西南部に位置する久我・神川・羽束師地域では、桂川、羽束師川、小畑川の洪水とたたかった人々は、毎日の生活の中でも川の恵みを受けて暮らしていたようです。

 昭和五・六十年代までは、羽束師周辺でとれる川魚(主に鮒やもろこ)は、『古川じゃこ』と呼ばれ、「骨がやわらかくておいしい」と言われて、長岡や向日町、伏見そして京都の町の人々に、好んで食べられていました。

 運転免許試験場近くの、志水口のバス停を少し西に行くと『川魚 昆布巻 鮒豊』と書かれた看板の店がありました。郷土研究クラブの人たちは、店を訪問し話を聞かせてもらいました。昆布巻を焚く大きな釜もありました。

 店の二階には、大きな束の昆布が山のように積み上げられ、みんなびっくりしました。

(「鮒豊」さんのおばさんの話・・・・略)

 今まで昆布巻の中味は、ニシンだと思っていたみんなは、地域でとれた鮒を使った知恵に感心しました。おばさんから、滋賀県では、琵琶湖でとれたアユやモロコも昆布巻に使われていることも教えてもらいました。最近では、鮭や牛肉の巻かれている物もありますね。  


−子どもと昆布・その二(もぞく・とろろ昆布)−

 遠足の時、弁当の一番人気は今も昔も、おにぎりです。手に持って食べられる手軽さと何のおかずとも合う、伝統的昼食です。

 昼食時、まず児童全員が弁当を持参しているか有無を確かめるのですが、ふと気づいたことがあります。それはおにぎりに巻かれたり、ふりかけられたりする物です。圧倒的に多いのは海苔なのですが、玉子やふりかけに混じって、時々とろろ昆布がまぶされているのを見つけました。実は僕の大好物なのです。「とろろ昆布好きか」「うん大好き。おばあちゃんに教えてもうた」「おいしいな」

 それ以来、とろろ昆布をまぶしたおにぎりを見つけたら誰からの伝授か尋ねています。僕も父方の祖母と死別するまで、十二年間常に一緒だった祖母の影響を、食文化や京言葉でたくさん受けています。食文化の中の、とろろ昆布を中心とした昆布の使用は、祖父母の影響が大きいようです。特に明治・大正生まれの方々です。

 数ヶ校で聞き取った超カンタンとろろ昆布メニューは、大きく分けると五つでした。

(一)おにぎり全体にまぶす
(二)きざんだネギ等と一緒に器に入れ、少量のしょう油や塩を加え熱湯を注ぐと吸い物完成
(三)あつあつのご飯に、とろろ昆布をのせ、しょう油を少したらすと昆布かけご飯
(四)そばやうどんの麺類の入った器に、少量のせると高級麺類の出来上がり
(五)湯豆腐や、湯がいた野菜、漬け物にかけると一味違う高級感のある一皿に


−昆布ロード−

 昆布利用の歴史は古く『続日本紀』(七九七)陸奥国の蝦夷から奈良朝廷に七一五年以前から昆布の献納があったと記録されています。

 産地は今の北海道、アイヌモシリが中心で、「昆布」という言葉もアイヌ語の日高・胆振地方や幼児語の「コンプ」から来たという説もあります。現在日本語の中で使われている「トナカイ」「ラッコ」「オットセイ」もアイヌ語であることから、これも納得できる説ですね。

 江戸時代に出された『日本山海名物図会』(宝暦四年・一七五四年出版)で「昆布」の項を調べてみると

 昆布(和名ヒロメ、一名カイ海フ布) 「これは六月土用にして、常に採ることなし。産地は蝦夷松前・江差・箱館などにも採れり。小舟に乗り、鎌を持ち、水中に・・・(中略)昔は、越前敦賀に伝送して若州(今の福井県)に伝ふ。小浜の市人、これを制して若狭昆布と号す。若狭より京師(今の京都)に伝送して、京師またこれを制して京昆布と号す。味最もまされり」と。今も釜座通り竹屋町にある「松前屋」さんは、室町時代から御所御用を引き受けられてきたお店です。

 このように、北海道から北前船に積まれた昆布は、日本海を通って敦賀、小浜から京都に運ばれ、やがて大阪、江戸そして沖縄から中国へと拡がりをみせて行ったのです。明治維新の中心となった薩摩藩の財政の中心に、昆布を沖縄から中国に輸出し、その見返りに漢方薬や絹製品を輸入したことで財をなし、それでイギリス等から軍艦、大砲、銃等を購入したともいわれています。


−昆布が良いとされる訳−

 今では、子どもたちに昔ほど人気のない昆布ですが、給食では週一回は献立にヒジキが顔を出すことから、栄養面を中心にみんなで調べてみると、次のようなことが解ってきました。

(その一−カルシウムが豊富)

 カルシウムは、健康な人間の体重の約二%といわれています。その中の九九%が骨や歯の成分になり、残りの一%が血液や体液、筋肉に含まれているそうです。この九九対一のバランス、特に血液中のカルシウム濃度は、一定に保たれていて、この値は低くても高くても良くないそうです。

 この一%の血液中のカルシウム濃度も、年を取るとともに調整のバランスが崩れます。それによって生じるのが、骨が折れやすくなる骨粗しょう症と、血液の老化で知られる動脈硬化です。また、カルシウム不足から生じるイライラや、筋肉のけいれんも知られています。

 そして、このように大切なカルシウムですが、毎日約六〇〇ミリグラムが尿や便となって体外へ出ていきます。その補充としての食物が、昔から食べ続けられてきた昆布なのです。

 昆布は、カルシウムを多量に含んだ食材で牛乳の約八倍といわれています。

(その二−髪を美しくする)

 昆布は、昔から黒髪を美しくするとされてきました。平安時代、貴族社会では女性が幼児期になると、一度髪を全部剃り落とし、その後、昆布など海草類をしっかり食べて、長く美しい髪にしたと言われています。髪の毛の成長に、海草類のヨード、鉄、亜鉛などのミネラルが絶対に欠かすことができないことを知っていたからでしょう。

(その三−食物繊維が豊富)

 昆布にはアルギン酸エステルという植物繊維の一種を含んでいるだけでなく、昆布のヌルヌルには整腸作用もあり、大腸ガンの発生を予防していると言われています。便秘を防ぐことで、発ガン性成分の生成を防いで、腸内の内容物を早く体外に排出することができるのです。

(その四−高血圧を予防する)

 昆布が注目されることの一つに、カリウムが多く含まれていることが挙げられます。カリウムには食塩(塩化ナトリウム)を体の外に排出する働きもあるのです。塩分の取りすぎを防ぐことで高血圧を予防する効果を持っています。以上のことから、昆布は成人病を予防する多くの成分が含まれた長寿食と言われる由縁だと思われます。昆布の摂取量が一番多い都道府県は、昆布の産地北海道から一番遠い沖縄県。そして、全国一の長寿県も沖縄県であることも決して偶然ではないようですね。

(その五−優れている保存性)

 軽くて日持ちが良いことから、昆布は古くから保存食として利用されてきました。戦国時代の武将、加藤清正は熊本城を築いた時、非常用に、昆布やヒジキそしてアラメを外から見えないように工夫して、城の壁に塗り込んで、もしかの時の長い戦いに備えたという話も伝えられています。

(その六−縁起が良いとされていること)

 昔から昆布は、縁起物として人々に知られていました。特に武士の世の中では、栗と昆布は出陣の際、必ず用いられました。「勝ち栗」「よろこぶ」と縁起をかついだのです。その習慣がやがて民間にも普及し、結婚式や元服・成人式などの祝いの行事に取り入れられたようです。今も正月の鏡餅に昆布が飾られたり、祝いの場に昆布茶が出されるのも、この風習から来たことであるといわれています。


−−パキスタンへ行く昆布−−

 昆布のことを調べている中で、日本の昆布がヒマラヤ(パキスタン)へ送られ、使われていることを知りました。NPOの「ヒマラヤン・グリーン・クラブ」の活動の一つです。もともとは、インダス河上流のパキスタン北東辺境地域で「ヒマラヤの緑を取り戻そう」という運動を行って十年以上が経っています。

 大量の樹木が伐採された跡にポプラやヤナギ、シラカバ、カラマツ、リンゴ、アンズなどの木を植えてこられたそうです。そして、活動はひろがり、医療事業にも取り組み、海から遠く離れた地域に見られる、ヨード不足によって起こる甲状腺腫(首や頭部のこぶ)や様々な病気にヨード欠乏対策として、学校給食にヨードたっぷりの昆布を使うために送っているのです。大人にはヨード剤は使えますが、子どもたちには副作用の心配があるため、食材としてヨードたっぷりの昆布が、給食に現地の豆を使った昆布入りのスープに使われることになったのです。

 輸出用品として昆布が江戸時代から盛んに中国に運ばれたのも、甲状腺腫を治療する目的であったと言われています。

 健康食品として見直し始められた昆布。今一度その効用と使用法を見直す必要があるように思うのですが。いかがでしょう。

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