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特集1

現代社会と子どもの「荒れ」−教育的指導・ケアとゼロトレランス−

総論 平和的に生きることをはげます教育へ−子どもの暴力とゼロトレランス、その負の連鎖を超えて−

                               照本 祥敬(中京大学)


1 生きづらさの根源にあるもの

 生活のあらゆる局面に市場競争原理を持ち込み、「自己責任」を押しつける新自由主義の政治と経済が、現代的「貧困」を加速させています。「格差社会」「働く貧困層」「自治体の財政破綻」「相次ぐ自殺と孤独死」・・・国と大企業が結託した「構造改革」がもたらした深刻な問題状況の一端です。この政治と経済のありようが、ときに生存権までも脅かすような経済的困窮を強いると同時に、人間的な生活の実現にむけて他者や社会とかかわり、つながっていく基盤を破壊しています。人間らしく生きていくために不可欠な社会的セーフティネットを、わたしたちからことごとく奪っているのです。

政策的に作られた「貧しさ」であるにもかかわらず、わたしたちはこれを「個人の問題」として引き受けさせられています。どのような暮らしや生き方を「選択」するかのかは、あくまでも個人の「自己責任」だというわけです。この点に、現代の貧困問題の最大の特徴があると同時に、生きづらさの根源が刻み込まれているように思います。

 競争原理の絶対化は、必然的に、抑圧と差別、そして排除を生み出します。子どもたちの世界にある「いじめ」や迫害・暴力も、この競争と抑圧の構図のもとで再生産されているのです。


2 「子どもと暴力」をめぐる様相とその発生基盤

 埼玉のある公立中学校に勤める教師は、ここ数年でこれまでとは様相の異なる「荒れ」が出現しているといいます。器物破損、授業妨害、生徒間および対教師暴力等の発生の多さは相変わらずですが、従来は、これらの問題行動の集積結果として学校破壊の状況がつくられていました。しかし、今日では、ストレートに秩序破壊を目的としたトラブルや問題も頻発しているというのです。たとえば、騒乱による定期試験の妨害や校内のいたるところでの放火などです。「学校を壊さなければ『呼吸ができない』『生きていけない』という子どもたちの大量の出現」がこうした状況の背景にあるのではないか、とこの教師は考えます。そうであれば、さまざまなトラブルや暴力の根底にあるのは、学校秩序そのものの破壊願望だということになります。

 親密(濃密)な「友だち関係」の領域における暴力の発現や、ある具体的な状況が形づくられたなかでの「おとなしい」「フツーの子」の暴発は、いまも続いています。いわゆる「キレる子ども」という、メディア好みのイメージ枠に収まるトラブルや事件です。これらは、尾木直樹さんがいう「関係不全」に起因した暴力とみることもできるでしょう。しかし、この教師によれば、「関係不全」の問題もふくめ、その根底にあるのは学校秩序にたいする憎悪だといえます。

 わたしも、そのように考えます。「関係不全」をきっかけにした一つひとつのトラブルの集積が「秩序破壊」に結果しているのではなく、逆に、すでに「秩序破壊」の文脈が構成されていて、この文脈の中で「関係不全」に直接・間接に起因するトラブルや暴力が連鎖的に発生しているのだと考えます。子どもたちが破壊願望を抱くまでに憎悪せざるをえない「学校秩序」とはいかなるものなのでしょうか。


3 「学力」と「道徳」による統治

 新自由主義の「教育改革」は、世界的にも類をみないほどの「教育の家族依存状況」をつくり出しました。教育部門への公費支出の低さは、諸外国と比較して群を抜いています。「ゆとり教育」「生きる力」の育成を表看板に掲げた教育の市場化は、家族の「自己責任」において、市場の教育サービスから「学力」を調達するよう強いてきました。結果、「学力」をめぐる階層間格差が可視できるほどに拡大したわけです。

 新学習指導要領は、この格差をさらに拡大させていこうとします。「学力」を「生きる力」の中核に据え直したうえで、「基礎・基本の習得」「活用」「学習意欲」の三段階の区分を設け、一人ひとりの「学力」に準じた教育内容上の差別を制度化しようというのです。その入り口が「全国学力調査」です。個人が市場から調達する「学力」を国家が管理する、という図式ですが、この図式のもとで、習熟度別の標準化を通じた教育差別を推進していきます。新学習指導要領のもう一つの特徴は、「道徳」の拡張です。特別活動の領域のみならず、教科についても「道徳」を意識的に指導するよう強調しています。奉仕活動をふくむ種々の体験活動や言語活動を通じて、「愛国心」+「公共の精神」の涵養や「規範意識」の醸成をおこなうというのです。

 「学力」の調達度合いに応じて学習する内容が異なる、という仕組みは、学習活動を徹底して個人化・個別化し、子どもたちの階層間格差を浮かび上がらせます。と同時に、これをさらに拡大するプリズムの役割を果たします。また、奉仕活動や体験活動に重点を置く「道徳」は、この差別的現実を甘受し、これへの適応を準備・訓練させる仕掛けにほかなりません。こうして、「学力」と「道徳」を両輪とする学校秩序ができあがっていくわけですが、その内実は、競争と差別を正当化し、抑圧と排除のメカニズムを強化するものだといえます。それゆえに、とりわけ「学力」階層の低位に放置されている子どもたちにとって、憎悪と破壊の対象とならざるをえない、そうしなければ「呼吸ができない」「生きていけない」秩序となるのです。


4 ゼロトレランスという新たな暴力

 「学力」と「道徳」の学校秩序の強化に深く関与してくるのが、「ゼロトレランス」の考え方による「生徒指導体制の見直し」です。すでに、「毅然とした粘り強い指導」「ぶれない指導」といった掛け声が学校現場に広がりつつありますが、その火付け役となったのは、国立教育政策研究所が一昨年の五月に出した報告書「生徒指導体制の在り方についての調査研究―規範意識の醸成を目指して」です。その基調は安倍政権下で発足した「教育再生会議」が強調する厳罰主義ですが、大きな特徴として、米国の学校現場に導入されたゼロトレランス的手法を採り入れようとしている点です。

 ゼロトレランスを直訳すれば、寛容ゼロとなります。この用語が一般に知られるようになったのは、都市部の治安回復策としてのそれです。警察組織が中心になり、犯罪に対して不寛容の姿勢での監視と取締まりを強化するわけですが、その眼目は、犯罪行為そのものに対する以上に、「その兆候あり」とみなされる範囲への監視と取締まりを徹底する点にあります。この「範囲」に入れられるのは、貧困層やエスニック・マイノリティ、それに既存の秩序に「反抗的」と映るような若者たちです。一九九〇年代後半、クリントン政権は、このゼロトレランス的治安回復の手法を学校現場に導入しました。その目玉はプログレッシブ・ディシプリン、直訳すれば、段階的懲戒です。中身は、服装や言葉遣いから暴力行為、ドラッグや凶器の校内持ち込みまで学校生活の細部に及ぶ規則と、規則違反した場合の段階的な罰則のリストです。あらかじめその内容を生徒および保護者に承知させておいたうえで、違反者に対しては不寛容の姿勢で積極的に懲罰をおこなうというものです。

 この発想と手法を日本の学校に持ち込もうというのが、「生徒指導体制の見直し」の考え方です。管理職を中心に学校生活の細部にわたる規則と段階的な罰則を記した「指導基準」を作成し、これに則った「不寛容」な「指導」を教職員全員がおこなう、そうすることにより、「規範」の醸成や「安全」な秩序の構築を図るというのです。しかし、その実質は、「懲戒」と癒着した「指導」を肥大させ、これに従わない者は懲罰の対象とするというものです。実際、報告書は、「指導」への従順さを基準に、普通に「効果」が期待できる層、規則違反の背景や原因に「特別な事情」を抱えた「教育相談」の対象となる層、「教育上の指導だけで課題が解決するとは限らず、福祉・医療・警察等の関係機関との連携が必要となる」層の三段階に区分しています。「指導基準」が、「教育課程からの排除のマニュアル」になるわけです。こうして「指導」は権力化され、その結果、すでに米国で証明済みですが、学校・教師による子ども・保護者へのパワーハラスメントという、新たな暴力の構図がつくられていきます。


5 平和的に生きるための文化と秩序をこそ

 すこし冷静に考えればわかることですが、排他的競争を是とする秩序が規範を育て、安全を約束してくれるはずがありません。ゼロトレランス的「指導」は、この「秩序」に苦しめられ、傷つけられている子どもたちの学校と教師への憎悪と敵意を強化するだけです。「指導」に「反抗的」な層の排除によって担保される「規範」や「安全」は、これらを根底から破壊しようとする新たな暴力を呼び込みます。排除の論理によって暴力の負の連鎖を断ち切ることはできないのです。

 そうであれば、だれもが「壊したくない」と思えるような共生の世界を出現させる以外にありません。他者や自分自身にたいして平和的に生きることをはげましてくれる、共生の文化と秩序を築いていく以外にありません。

 平和的共生の文化と秩序をどのように立ち上げていくのか、最後に、その基本的な視点について述べます。なによりもまず、自他の生きづらい現実とむきあいつつ、この現実をつくりかえていく〈経験〉を共有することがもとめられます。この〈経験〉は、それぞれの苦悩、願いや要求を互いに聴き取り、これに応答しあう共感的・共生的な関係と、こうした関係が生まれる基盤である共同の学習や活動を追求していくなかに深められ、蓄積されていきます。このようにして深められ、積みかさねられる経験が、他者や社会への、そして自分自身への基本的信頼を取り戻していく原動力になります。人間らしく、平和的に生きることをはげましてくれます。わたしたちがめざすのは、さまざまな領域や次元での共同の可能性を追求しつつ、この〈経験〉をゆたかに保障する教育実践、文化活動実践を発展させていくことなのだと考えます。

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