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京都歴史教材 たまて箱 56

"古墳" 古代のロマンと技術を伝え続けて



         早川 幸生
「ひろば 京都の教育」156号では、本文の他に写真9枚が掲載されていますが、本ホームページでは割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」155号をごらんください。


―長岡京「元稲荷古墳」と古墳づくり―

 伏見区にある羽束師小学校は、学校建設時の発掘調査で、長岡京の「左京三条三坊」に位置している。長岡京の遺跡の上に建つ小学校であることがわかりました。

 六年生は社会科の歴史学習で、地域の教材を生かし、見学や体験学習も取り入れた学習を大切にするよう計画されました。特に「幻の京」と言われていた長岡京は、幻ではなく完成した都であったこと。工事は桂川の舟運が使われ、材料は今までの都であった「難波京」等の建築資材の木材や瓦が持ち込まれた、リサイクル都市であったことも知りました。

 以上のことは、毎年六年生が、長岡京時代の人々の体験学習として、学校から長岡京の大極殿まで歩き見学した後、必ず訪れる「向日市文化資料館」で学習したのでした。その時、学芸員の方に、向日丘陵(資料館のすぐ西側の山手)に点々と、五つの立派な古墳のあることも教えてもらいました。現在向日市文化資料館入口前に置いてある平らな石は、その一つの「元稲荷古墳石室の天井石」です。      ※ 写真@(略)

 また、学校名の「ハズカシ」地域には、「土師氏」という技術を持った豪族が住んでいたことも知りました。その技術とは、古墳作り、またそれに使う円筒埴輪など土器作りの技術に従事した人々であったことでした。「土師氏」と「羽束師」、その音、漢字がよく似ています。校名の由来も知ることができました。

 向日丘陵の古墳について、少しふれます。「元稲荷古墳」は、向日丘陵の先端部(西)に位置しており、古墳時代前期に築かれた向日丘陵では一番古い、全長九四bの前方後円墳です。その北方一〇〇bにあった「北山古墳」は、明治から昭和の地域開発で現在はありません。「五塚原古墳」は、全長九一bの前方後円墳です。古墳時代前期のものと言われています。古墳の上を歩いて見ることもできる古墳です。もう一つ北の「伝高畠陵古墳」は、長岡京を築いた桓武天皇の皇后の墓として、宮内庁管理とされています。直径約六五bの円墳です。「妙見山古墳」は、全長一一四bの大きな古墳でしたが、土取り工事等で消滅しています。「寺戸大塚古墳」は九八bの前方後円墳ですが、北側の後円部だけが残されています。「物集女車塚古墳」は、物集女街道沿いともいわれるくらい、向日丘陵から尾根伝いに作られた全長四五bの、古墳時代後期の前方後円墳です。京都府の指定文化財(史跡)になっています。

 それ以後、六年生は、古墳時代には、校庭で仁徳天皇陵古墳の十分の一の古墳作りを、長岡京時代には、学校から長岡京の大極殿跡まで歩き、向日市文化資料館を訪れる見学学習を、そして秋の遠足には、奈良県飛鳥の石舞台古墳をはじめオリエンテーリング(後にはサイクリング車を借りて)で町内を巡り秋の一日を楽しんだものです。  ※写真B(略)

 卒業アルバムに残る古墳作りの写真と、卒業作文を紹介したいと思います。 ※写真A(略)


バケツをかついだ古ふん作り
 小倉 和也

 六年生の一学期に、社会の勉強で、仁徳天皇陵古ふんの十分の一の古ふんを作りました。

 初め、古ふんの高さが三〇bだったので十分の一にして、高さは三bで、縦が四八,六b、横が三〇,五bにしました。次に、後円の部分に校庭のタイヤを集めて石室の場所にしました。タイヤを集めた後に、こんどは古ふんの形をラインでひきました。ぼくは、「でかいなっ」と思わず言ってしまうほど大きかったです。こんどは、後円の部分に三bの高さの土をつむことでした。バケツを持って、土を入れに砂場へ行きました。バケツの中に土を入れてもらい持って行こうとしましたが、土が多くて重かったので少しへらしてもらいました。

 土をバケツで運んで持って行きました。この時、土の高さは六〇pくらいでした。「まだ六〇pか」と言いながら、また土を入れに行きました。次に行ってみると、まだ六〇pでした。  ――中略――

 最終的には一五〇pしか積むことができなくて、終わってしまいました。本物の二十分の一の大きさしか、積めませんでした。

 ぼくは、古ふん作りをして、大昔の人々はこんな仕事を四年間も給料もなしで、人のために働かなければいけなかったので、たいへんだっただろうなと思いました。

 古ふん作りをして、昔の人の苦労がわかったのでよかったです。


 古墳は、紀元三世紀頃から出現しました。農業の発達に必要だった、灌漑技術やその他の土木工事技術の発達とその技術集団を支配した権力者の出現に伴ってでした。その形から、円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳・上円下方墳などに分けられています。その後、五世紀に最盛期を迎えた古墳も、七世紀になると小規模化し、伝来した仏教の火葬の習慣も広まり、八世紀には造営されなくなりました。

 向日丘陵では、江戸時代末よりタケノコ栽培が盛んになったそうです。それに伴う竹林の開墾が広がるにつれて、大正時代になり古墳の副葬品や石室の発見につながったようです。


−太秦の「蛇塚古墳」−

 右京区梅ヶ畑にある高雄小学校では、秋の遠足で、学校から全校生徒が縦割りの小集団を作り、徒歩で嵐山の亀山公園まで、仲良く歩くのでした。

 コースは、高雄小を出発した後、国道一六二号線に沿って坂を下り、平岡八幡宮前から山に入り長刀坂を下り後宇多天皇陵前に出るのでした。そこは北嵯峨と呼ばれ田園が竹林に囲まれた風景の見られる所でした。

 田園の中に、松の木の生えた小高い丘のようなものも見られ、地名も「七ッ塚」と呼ばれる所もありました。後宇多天皇陵近くの、歴史的風土特別地区の竹林内には、小規模ながら、多数の円墳が見られる古墳時代の名残の見られる地域でした。

 地域の郷土史家によると、この地域の塚や古墳は、太秦・広隆寺や、蚕の社等で考えられている朝鮮半島からの渡来人「秦氏」の族長等技能集団の指導者の墓であろうと、考えられています。

 子ども達はその後、直指庵から道端のコスモスの花を見ながら南へ進み、五山の送り火で有名な曼陀羅山を右手に、落柿舎、野宮神社、天龍寺と進み、竹林の中を亀山公園の展望台へのぼります。紅葉に囲まれた眼下の保津川のトロッコや保津川下りを望み、遠足の終了です。保津川は、渡月橋上流で「大堰川」と名を変えます。この辺りも、治水や灌漑、土木工事に活躍した、技能集団秦一族の地元とされ、平安京の造成の基礎となったと言われています。

 また、六年生は、社会科の歴史学習の始まりとして、春の遠足や社会見学で、フィールドワークとして、嵯峨野・太秦が選ばれました。古墳時代から江戸・明治時代まで学べる一級品の教材の宝庫でした。蛇塚をはじめ、広隆寺と弥勒菩薩、蚕の社、三本足鳥居で有名な木島神社、角倉了以が開削した西高瀬川、そして映画発祥の地としての太秦映画村など数えあげればきりがないほどです。

 特に見てほしい一番の見学地は「蛇塚」です。蛇塚の大きさは、長さ八十bもある横穴式の前方後円墳で、もちろん京都市最大の規模を誇っています。現在は封土もなく巨大な石が積み重なった石室が露出していますが、玄室は長さ七b、幅三,八b、高さ五bあり、奈良県明日香村にある有名な石舞台古墳と比べると、長さは少し短いものの、幅と高さでは石舞台古墳をしのぐ、最大級規模を有する古墳なのです。     ※写真CD(略)

 太秦の住宅地の中、石室だけが残り周りをグルリとフェンスに囲まれた「蛇塚」に国指定の「史跡蛇塚」の石碑とともに、説明板がたてられています。紹介したいと思います。  「史跡 蛇塚古墳(右京区太秦面影町)

 この巨石の石組みは、古墳時代後期末の七世紀頃に築造された京都府下最大の横穴式石室である。本来は七五bを測る前方後円墳であった。早くから墳丘封土が失われ、後円部中央の石室だけが露出して・・・(中略)

 この太秦を含む嵯峨野一帯は、渡来系の秦一族により開発されたものと考えられており、京都盆地でも有数の古墳分布地区である。蛇塚古墳は、その規模や墳丘の形態などからみて、首長クラスの墓と考えられる。(後略)」 と記されています。        ※写真EF(略)

 蛇塚古墳の前に立った子どもたちは、露出した石室の石組みに一様に驚いていました。が、あまりに住宅にぐるりと囲まれているため、全体の古墳の規模や姿がどうイメージされているのか、少々心配が残るのでした。また、駅やターミナルからの案内等、捜さずに行ける工夫が要るように思われます。学校から見学に行った児童が、後日家族で行った際、なかなか見つけられなかった話をたくさん聞きました。

 蛇塚保存と活用の、行政の姿勢が問われています。石舞台古墳とは一味違う、蛇塚古墳をぜひ一度ご覧下さい。秋がお勧めです。

 発見および開発当時、多数の蛇が生息したため、「蛇塚」と呼ばれたそうですが、今はいません。ご心配なく。


−山科の稲荷塚−

 山科の山階南小学校と勧修小学校の境界に「折上」神社があります。名前から、繊維関係や織物関係の業界の守り神として位置づけられ、祀られている京都ならではの神社です。あまり広くない境内に「稲荷塚」という京都市史跡に指定された稲荷神社の小高い塚と小さな社があります。その説明板には、
「伏見稲荷の大神が稲荷山に降臨された次に降りられた霊場で、今から一五〇〇年前におまつりされていたことが調査で明らかになっています。当時の形と・・・(省略)」
と記されています。が、すぐ横に「中臣群集墳跡」の石碑が建てられています。  写真GH(略)

 山科盆地のほぼ中央部にある栗栖野丘陵には、中臣遺跡があり、古代豪族の中臣氏(後の藤原氏)と関係が深く、この稲荷塚以外に数基の同規模の円墳があったことが判っています。子ども達と塚の周囲を測定してみると約六十bあまり。直径二十b弱、高さ約五bの円墳であることが判りました。平安京以前の昔を伝える教材として、市周辺に散在する古墳は貴重ですね。

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