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特集1 ケータイ・ネット文化と子どもの世界
−−大人にできること


総論 ケータイ・ネット文化と子育て
−−時代の波に流されない力を



               尾木 直樹(教育評論家・法政大学教授


はじめに

 最近の事件の多くには、ケータイやインターネットが絡んでいます。

 6月に起きた秋葉原無差別殺傷事件では、容疑者が書き込んだケータイブログが注目を集めました。自分の心情をその瞬間、瞬間まるで実況中継のようにリアルタイムでブログに書き込み、その数は5月中旬以降事件当日までの約3週間でなんと3000件を超えるといいます。「誰かに止めてほしかった」などという供述は、ネット依存に陥っていた証拠かもしれません。

 また、長崎の小6女児殺害事件のようにホームページが直接殺害のきっかけになったり、静岡で母親をタリウムで毒殺しようとした事件では、少女がブログで自らの心情を吐露することによって自己合理化をはかったり、行動目標の設定の役割をになう結果に陥ることもあります。また、最近のいじめは、そのほとんどがケータイメールや「学校裏サイト」や「前略プロフィール(以下、プロフ)」、ブログなどの書き込みを通じて行われる「ネットいじめ」に変質しています。

 本稿では、インターネット、ケータイの普及が子ども、とりわけ思春期の若者の心の発達上、また、友人関係や家族関係の構築にどのような影響を及ぼしているのかを中心に述べていきたいと思います。


ケータイメールやネットによるいじめ地獄

 新聞沙汰にならないまでも、ケータイメールを利用したいじめや「学校裏サイト」、「プロフ」での悪口や嫌がらせ、友達間トラブルは日増しに増えています。こうした小さなネットトラブルが子どもたちの友達関係を壊すだけでなく、人間への不信や相手を傷つける事件や事故に発展しかねないほど、日常的な危険に満ちています。

 また、インターネットの世界では、子どもたちを援助交際やアダルト、テロ、オカルト、自殺サイトなどの有害サイトへ誘い込もうとあの手この手で迫ってきます。これまでも、インターネットがらみで発生した子どもにかかわる事件は珍しくありません。とりわけ「学校裏サイト」を使ったり「プロフ」を巧みに利用したりするいじめの例が後を絶ちません。2004年に佐世保で起きた「小6同級生殺害」については、チャット上のトラブルが直接の引き金と言われています。

 また、先のように明確な"犯罪"とまでは言い切れなくても、もう一つケータイによる重大な問題行動が多発している点を見落としてはなりません。

 それは、2006年にいじめ自殺や自殺予告の連鎖が起き社会問題化したケータイメールなどによるいじめです。

 この"いじめメール"は、学校の教師や親に見えづらいという特徴があります。それだけに、表面化した際には手遅れの心配が大きいのです。「うざい」「氏(死)ね」「バカ」「消えろ」などと誹謗・中傷する内容がほとんどだといいます。こんなメールが届くだけでも嫌なものですが、これらが1日に100回、200回とくり返し入るというのです。全国高等学校PTA連合会と京都大学大学院の調査(全国高校2年生6406人対象、2006年)では、メールの送信回数が1日41回以上の男子は5回以下の生徒の1・7倍も加害者が多いことが判明しています。

 ネット社会が人間関係を変質させ、いじめまでかつてないほどの広がりと陰湿化を見せてしまいました。


ケータイ、ネットで変質した思春

 インターネット、メールの現象面における危険性のうち、最も深刻なのは、メール依存の状態に陥ったり、インターネットを1日に3〜4時間も続けて、「ネットの世界」が自らの居場所となってしまったり、現実世界から隔絶されてしまったりすることです。そのことによって、子どもの健全な成長がゆがみ、思春期の発達不全が引き起こされるという問題です。

 メール依存の軽度の症状としては、ケータイを肌身離さず持ち歩き、入浴時も食事中もケータイ片手にメールを打ったり、学校で顔を合わせていても、メールでのやりとりの方が本音を出せると感じたり、送信してもすぐに返信がないと友情が薄れたのかと不安に襲われたりするなどがあげられます。

 これは、ケータイメールの受発信数やレスポンスの速さが友情や親密度のバロメーターとなってしまっている証拠です。特に女子においてはケータイメールが友達をグルーピングしていく不気味さがあります。子どもたちは返信が少しでも遅れると、仲間はずれになるのではないかという強迫観念にさいなまれるというのも当然でしょう。また、ケータイは、いつでもどこでも親しくつながることができるツールであると同時に、逆にいつでもどこでも簡単に人間関係を切り離すことができるツールでもあるのです。とりわけ思春期は、親や教師の権威を否定している時期だけに、同調圧力(ピア・プレッシャー)が加わり、友達に依存したくなるのが普通です。メールはいつでもどこでも交換できるだけに依存関係を深めやすいのです。

 ただし、メールはあくまでもバーチャルであり、画面の文字を通した伝達方法であることから、対面しアイコンタクトをとりながら心を交わせる、実体としてのコミュニケーションのあり方とは大きく異なっています。コミュニケーションスキルは少しも磨かれないのです。


メール依存による発達上の問題

 メール依存による発達上の問題として、大きく3つ上げられます。第一に注意力が散漫になること、第二にコミュニケーション不全に陥ること、第三に学力の低下です。

 絶えずメールの着信音に気をとられ心もそぞろになっているために、集中力が続かず、注意力散漫となります。また、電脳文字からのみ内容を認知するために、対面コミュニケーション力が育ちにくくなる危険性も考えられます。声のイントネーションや目の動き、仕草など非言語的表現を読み取る力が育たず、また逆に自らそれらにより表現する力も育成されない可能性が大きいのです。一方では、匿名性に頼り、遠慮なく感情を表出する粗雑で攻撃的な人格が形成されかねないのです。これでは、傷つけ合い合戦のコミュニケーション不全に陥りかねません。これらは総じて、生活習慣や集中力を崩すことにつながります。そのために学力の低下さえ引き起こしかねないのです。

 高校生では、1日4時間以上メールのやりとりをする者は、30・7%にも達しています(日本青少年研究所「高校生の学習意識と日常生活―日本・アメリカ・中国の3カ国比較」2004年実施。2005年3月発表)。アメリカの10・5%、中国の3・6%と比べると、その依存の深刻度が理解されます。これでは、自宅でほとんど勉強しない高校生が45・0%(同調査)にも及ぶのもうなずけます。これまた、アメリカ15・4%、中国8・1%と比べると目を覆いたくなるひどさです。

 これまでなら、家族と気楽に交わしていたどうでもいい内容の短い会話が、今では液晶ディスプレイ上を飛び交っています。また、小・中・高校を問わず、子どもの方から家族で食卓を囲むのを望まないといいます。「一人のほうが気楽。好きな音楽を聴きながらだとおいしい。親がいるとウザイ」ということらしいのですが、もはや"家族の食卓"は崩壊したといっても過言ではありません。


思春期のブログやホームページづくりの危険性

 思春期とは、自分を見つめるもう一人の自分が意識に上ってくる時期です。この「第二の自分」は、自分の心の内面、影でもあります。中・高生、すなわち思春期の子どもは、「第二の自分」と向き合いながら、「人生とは何か」「どう生きるべきか」をいつも考え続けている存在なのです。考える力があり、デリケートな子どもほど、表面上は「よい子」を演じてあいさつもよくできるものです。

 その一方で、何をイライラしているのだろうと思えるときがあるのも思春期の特徴です。イライラが高じて、妹や弟に当たり散らしたり、自分の部屋の壁をたたいたり、一見凶暴ですらあります。こんな瞬間の彼(彼女)たちの心理は、何かイラつく対象があってのことではありません。自分自身にムカついているケースも多いのです。何かを決断できない自分のいい加減さに腹を立てていたり、時間がないのに集中できない自分を責めていたりするのです。精神的に親離れ、大人の権威離れを始め、これまでおとなしく従ってきた親をも客観化できるということは、同様に、自分の姿まで見え始めることを意味しています。この様子が大人から見ればいかにも反抗しているように見えるため、「反抗期」などと称されるのです。

 ところが、ブログやホームページ、あるいはプロフ、または学校裏サイトで、これらの心の葛藤をアバターに語らせたり書き込んだり、性を偽ったり、年齢を詐称する「なりすまし」行為によって吐露したりすると、とんでもない危険が待ち構えているのです。

 第一に、誰に見られることもない安心感の下で、ノートなどに日記をつづる「心」とはまるで別物になっている点です。日記をつづることで自分と向き合い、ダーティな自分の姿を吐露していく作業です。書くことを通じて自分を許そうとしている自分の姿に気づいてさらに落ち込む、などという葛藤は珍しくありません。しかし、ブログやホームページなどに書く「日記」は第三者に読まれる"公共性""公開性"を意識しているために、その記述やイラストからは心の「ありのまま」の自分が薄れ、無意識的にではあっても当然思春期特有の誇張や演出効果をねらった内容になりがちなのです。しかも、一つの「作り話」として画面上で繰り返し確認できたり、アクセス件数の競い合いが生まれたりすることから、この演出はエスカレートしていくことになるのです。

 第二に、最大の危険は、このブログやホームページを見た人、読んだ友人や第三者がアクセスしてくること、つまり、反応があるということです。しかし、書き込まれた文章や絵文字、情報にしても、誰がどんな意図で送ってきたのか、匿名性の高い書き込みからは判断のしようがありません。また、相手の「表情」や「口調」などを文字から読み取ることは難しく、その意味合いの差異や温度差の読み違いについても危険性を覚悟しなければなりません。さらに他者の侵入によって、心の葛藤が自分との相互作用として行われにくくなり、錯乱状態で進行することにもなりかねません。また、自分の本当のダーティな側面を直視することもなく隠し通したり、ちゃかしたりすることも容易です。これでは、一種の人格障害に陥っても不思議ではありません。人格の一時的な乖離現象が生じるかもしれないのです。

 こうして、ブログやホームページなどでは、「第二の自分」と誠実に向き合う心のていねいな作業ができないばかりか、とんでもない「心の混乱」状態が生まれるのです。

 こう考えると、思春期、それもとくに前期に「偽りの自分」を公開するブログやホームページを子どもまかせで開設させない。このことを徹底させるべきではないでしょうか。


子どもの発達論からとらえる

 ケータイやインターネットの利便性ばかりに目を奪われていると、子どもの人格を歪め、思春期の自己相対化(客体化)、内面化という最も重要な成長の節目を保障できないという思わぬ落とし穴が待ち構えています。

 先述の通り、特に思春期や青年期の人としての発達において、現実世界での人間関係は非常に重要です。アクチュアルな人間関係がうまく構築できなければ、それがたとえバーチャルな世界であっても確かなコミュニケーションはできるはずがないのです。

 子どもとケータイの関係をめぐって、今まさに禁止論などさまざまな議論がなされていますが、ケータイやインターネットの危険性やリスクについて、ここで述べたような子どもの人格的発達、特に思春期の発達論の視点から、もっともっと議論を深める必要がありそうです。

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