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特集1 新学習指導要領と学校教育
「生きる力」「基礎・基本」を問う

総論

学習指導要領改訂の本質をどう読むか
−「生きる力」と「基礎・基本」−

                  山崎 雄介(群馬大学)



1 改訂学習指導要領の二つの側面

 二〇〇八年一月の中央教育審議会「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について(答申)」(以下「〇八年答申」)をうけて、同二月には幼稚園〜中学校の改訂案が公表され、三月二八日に幼稚園教育要領、小・中学校それぞれの学習指導要領が告示されました。そこで、本稿では〇八年答申および小・中学校学習指導要領(以下新要領)について、基本的な方向性を批判的に分析します。

 新要領には、大きくいって二つの側面があります。第一の側面は、現行学習指導要領が告示(幼稚園〜中学校九八年一二月、高校および盲・聾・養護学校分九九年三月)されると同時に、「学力低下」を危惧する世論の批判にさらされてきたことをふまえ、文科省が行ってきた一連の「手直し」を集大成したという側面です。

 第二の側面は、内閣主導の近年の「教育改革」、とくに教育基本法、学校教育法などの法「改正」の内容を反映させたという側面です。大きくは、第一の側面が教科の時数・内容増など知育面、第二の側面が徳育・体育面に反映していますが、各教科で道徳教育の「内容」を教えるよう求めるなど、後者の側面が前者に浸透している局面もあります。

 さらに、新要領は、与党や保守団体からの「改正教基法等の趣旨が十分反映されていない」との圧力に屈し、改訂案から異例の変更(前述の第二の側面からの)を行っています。たとえば、小・中学校の「総則」の「道徳教育は……伝統と文化を継承し、発展させ、個性豊かな文化の創造を図る」という部分が、「文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し、個性豊かな」(傍点部が追加・変更点。以下同様)と変更されています。また、小学校音楽では、「君が代」について「いずれの学年においても指導」が、「いずれの学年においても歌えるよう指導」と変更されました(従来から指導書には「歌えるよう」とありましたが)。さらに中学校社会科では、「我が国の安全と防衛の問題について考えさせる」が、「安全と防衛及び国際貢献について」となりました。

 改訂案をうけてのパブリックコメントには、「愛国心」の強要や道徳教育「強化」への反対意見もあったにもかかわらず、政府・保守勢力の意向にあうもののみを恣意的にとりあげた不当な変更といわざるを得ません。


2 「生きる力」の問題点@――知育面――

 新要領の基本方向を定めた〇八年答申は、現行学習指導要領の理念とされている「生きる力」(九六年七月の中教審答申「二一世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」が初出)、すなわち「いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」「たくましく生きるための健康や体力」が、今日ますます重要性を高めている、としています。

 しかし、「生きる力」がことさらに呼号される社会背景、とくに近年の「格差社会」、非正規雇用者数の急増といった問題は、基本的には経済、政治など社会のあり方が人間らしい暮らしと相容れなくなりつつあることに起因するものです。したがってそれは、個人に「力」を求めることでは解決しません。答申は、こうした問題にメスを入れるどころか、グローバリゼーションのもとでの競争の激化を無批判に前提として、こうした「生きづらい」社会の中で「自己責任を果たし、他者と切磋琢磨しつつ一定の役割を果たす」ための能力・道徳性という性格を「生きる力」に付与しています。

 なお、九六年答申と〇八年答申とでは、同じ「生きる力」を掲げていても、その具体化の様相には相違があります。まず知育面では第一に、前者がIT技術の進化、知識・技能の変化の速さを根拠に、学力の「知識・技能の量」としての側面を著しく軽視していたのに対し、後者では、それの一定の重要性を認めている点があげられます。新要領では具体的にはこの点は、標準授業時数の増加(総時数が小学校低学年週二時間、それ以外週一時間増加)、「総合的な学習の時間」の時間数削減、中学校「選択教科」の標準時数からの除外(廃止ではなく、教科の授業時数の一部を充当して行うこともできるという扱い)などの手段による既存教科の時数増と、それに伴う内容増といった点に典型的にあらわれています。

 第二に、〇八年答申および新要領では、基礎的・基本的な知識・技能を「活用して課題を見いだし、解決するための思考力・判断力・表現力等」(答申)、いわゆる「活用力」が強調されています。具体的には、各教科での国語力育成(レポート作成、発表などを通じた)知識・技能の「活用」場面の拡充などが変更点です。

 なお〇八年答申は、この「生きる力」が、OECDにより二〇〇〇年から三年ごとに行われている国際教育調査PISAで測定されている「読解力」「科学的リテラシー」「数学的リテラシー」や、その上位概念である「キー・コンピテンシー」(ライチェン、サルガニク『キー・コンピテンシー 国際標準の学力をめざして』明石書店、二〇〇六年を参照)を先取りしていた、と述べています。しかし、これは手前味噌もいいところです。

 佐貫浩氏や佐藤隆氏が指摘するように(『人間と教育』五七号の両氏の論稿を参照)、とくに「キー・コンピテンシー」を提唱したOECD内の研究グループは、大枠では現在のグローバリゼーションを肯定しつつも、一方で格差の増大、環境問題などその「負の側面」にも目を向けています。それゆえにこそ、「社会的に異質な集団で交流すること」「自立的に活動すること」といった、社会への能動的なはたらきかけを「キー・コンピテンシー」に含めているのです。社会変化の「負の側面」に「自己責任」で対処し、為政者に与えられた「一定の役割を果たす」などという受動的な「生きる力」がこれを「先取り」したなどとはとうていいえません。


3 「基礎・基本」の扱い――特定の内容・方法のおしつけ――

 〇八年答申は、「基礎的・基本的な知識・技能」について、「社会において自立的に生きる基盤として実生活において不可欠であり常に活用できるようになっていることが望ましい知識・技能」「義務教育及びそれ以降の様々な専門分野の学習を深め、高度化していく上で共通の基盤として習得しておくことが望ましい知識・技能」などを「重点的指導事項例」として例示し、反復練習、体験的活動を通した理解を推進すべきだとしています。新要領では「重点的指導事項例」ははっきりとは明示されていませんが、さしあたり次のような点が問題となります。

 第一に、「社会において自立的に生きる」といっても、何をもって「自立」とするか――批判的な社会参加を求めるのか、社会変化への受動的対応に限定するのか――によってその内容は違ってきます。

 第二に、一定の内容を「重点」として析出することが可能であったとしても、その学習方法は多様でありえます。たとえば、その内容自体に多くの時数を割くのか、あるいはそこにいたる「伏線」を丁寧に扱うのか、といったことも問題になってきます。学習指導要領や指導資料で一定の内容を事細かに「処方」することが、かえって個々の現場・教師の創意工夫を阻害し、混乱をもたらすことは、九〇年代の「新学力観」ですでに経験ずみのはずです。「体験からの学び」を強調する〇八年答申や新要領の起草者たちは、こうした体験からいったい何を学んできたのでしょうか。


4 「生きる力」の問題点A――徳育面――

 一方、徳育面では、九〇年代後半以降、いくつかの少年事件などを口実に道徳教育の強化が叫ばれてきたことをうけて、(教育改革国民会議、教育再生会議の主張した)教科化こそ見送られたものの、いささか強迫的なまでの「充実策」が講じられています。具体的には、各学校での道徳教育のとりまとめを行う「道徳教育推進教師」を任命すること、「道徳」の内容項目を、各学年でそれぞれすべてとりあげること、全教科・領域で「道徳の時間などとの関連を考慮しながら……○○科の特質に応じて適切な指導をする」こと、などが求められています。

 従来から、道徳教育は、「道徳の時間」だけではなく、学校教育全体を通して行うことになっていました。しかし、そこで想定されていたのは、学級活動など日常的な学校生活を通じて社会生活のモラルを実践的に身につけることや、国語、社会などで人間理解、社会認識を育てることがおのずと道徳教育に通じるといったことです。

 そもそも、人々の交流の範囲が拡大し、人間の諸活動の環境への影響が重大かつ複雑になった現代社会においては、主観的によかれと思ってした行為が思わぬ副作用をもたらすことは日常茶飯事です。つまり、社会や自然への正確な認識を抜きにしては「道徳的に」ふるまうこと自体が不可能です。教科を道徳教育の「手段」にする新要領は、その意味できわめて「不道徳」なのです。


5  PDCAサイクルと学力テストによる教育課程管理

 〇二年三月の「学校設置基準」新設(幼稚園、高校については改訂)によって高校以下の学校の「自己評価」実施とその結果の公表が努力義務化されたのと前後して、各学校での教育課程編成へのPDCAサイクル(Plan計画‐Do実施‐Check評価・点検‐Action改善のための行動)の導入が進められてきました。

 さらに、〇六年教基法が国・地方の教育行政の能動的な役割を強調し(第十六・十七条)、学校「自己評価」が上位の法制に「昇格」(〇七年学校教育法第四十二条)するにおよび、答申案は、「教育課程行政におけるPDCAサイクルの確立」を提唱します。

 ここで問題なのは、行政のPDCAサイクルと学校のそれとが、「C=評価」、とくに、〇七年から実施されている「全国学力・学習状況調査」(以下「全国調査」)を通じて連結させられることです。答申はいいます。

 「全国学力・学習状況調査等を通じた教育成果についての様々な評価は……学校や設置者、都道府県教育委員会が改善計画等を作成……などといった形で、教師の指導方法の改善や教育条件の整備などによる教育活動の改善に活用され……ることに重要な意味がある」。つまり、〇八年答申は、全国調査を学校の教育活動に直接くみこめと公然と主張しているわけです。しかし、こうした主張は、実は過去の最高裁判決で批判されています。

 一九六一年の「全国一斉学力調査」(学テ)を阻止しようとした教員らが建造物侵入、公務執行妨害等の罪に問われた「旭川学テ事件」に対する最高裁判決(七六年)は、全体として文部省(当時)寄りの判決だとして教育法学界では批判的にとりあげられることも多いものですが、その判決にしてなお、教育行政が個々の学校の教育活動に直接的に介入することには否定的でした。

 たとえば、授業日程の変更を余儀なくさせ、また通常の教育評価と同様の「テスト」という形式をとっていることなどから、学テは「固有の教育活動」としての性格を有しており、行政がこれを行うことは「不当な支配」にあたるという被告(教員)側の主張(二審では支持されていた)を、「学テは『固有の教育活動』とまではいえない」という論理で覆しました。逆にいえば、行政が「固有の教育活動」にたちいることは不当だという前提は最高裁判決にも共有されていたわけです。

 また、学テが自治体間・学校間の競争を過熱させる危険性を指摘した被告側の主張に対し、最高裁判決は、そうした危険がある可能性を一般的には認めつつ、学テについては「個々の学校、生徒、市町村、都道府県についての調査結果は公表しないこととされる等一応の配慮が加えられていたこと」をもって文部省を免責したのです。ひるがえって今日の「全国調査」では、都道府県の平均通過率を文科省自身が公表しています。

 ところで、〇二年頃からすでに、県、政令市、特別区などで悉皆(しっかい)(当該学年の全員対象)学力テストを行い、その結果を学校単位で公表するということが一部自治体で進んでいます。しかし、こうした点数競争を通じた学力向上策は、すでにさまざまな歪みを生み出しています。東京都足立区、広島県三次市などでの不正(試験中の正解教示、答案の破棄・改ざんなど)はよく知られたところでしょう。

 また、「いじめ」の定義を拡張したことで全国的には件数が急増(した「平成一八年度児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」において、学力テストの成績公開を県レベルで進めている広島、鳥取、和歌山では、全国平均(全校種こみ)が千人あたり八・七件だったのに対しいずれも二件台と、きわめて低い数値を申告していました。「外面」を体裁よく整えることに行政が汲々としていることをうかがわせる事実です。ちなみに、和歌山県を除いた二県は、小学校でこそ「全国調査」で各教科・問題で一〇位以内の好成績でしたが、中学校になると二〇位台、平均なみになっています。競争圧力による「学力向上」策の効果が永続しないということが実証されつつあるといえるのではないでしょうか。

 以上のように、新要領とその実施にむけての文科省の体制は、子どもたちを賢く、すこやかに育てたいという保護者・教師の願いからはかけ離れたものです。まずはこの点を冷静に認識し、こうした流れを変えるためのとりくみを進めていきましょう。

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