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特集2 今日の不登校・ひきこもり問題
−教育・福祉の連携と自立支援

総論

若者とひきこもり
−ひきこもりを捉える視座と支援の方向性−

                  山本 耕平(立命館大学)



 生存・発達上の困難と時代の困難が重なるなかで、葛藤し自己の生き方を求めながらも、着地点を見出すことが困難な若者のなかで、自室や自宅にひきこもる若者がいます。斉藤環の指摘以降、その若者たちは、「社会的ひきこもり」と称されてきました。(1)  私は、この社会的ひきこもりを「青年期に生じる同一性獲得不全に伴う発達危機の一形態であり、その危機は、人生を規定する経済や文化・価値等の社会的背景、思春期以降の青年の発達や生活を規定する社会システム(学校・家族・地域)の変容との関わりで生じる。社会との交流を絶ち、一定の期間の自宅・自室へのひきこもりであるが、統合失調を伴わないも の」として定義し考えています。


1 ひきこもりの背景 −−高度経済成長期以降の若者排除

 斎藤は、ひきこもり問題を持つ家族は、ひ きこもりを否認し支援の求めが遅れ、家族の焦燥が本人を攻撃するシステムを持つと述べ ています。この斎藤の視点は、精神疾患を持つ当事者の家族が共通に強いられている支援抑制システムとして捉えるべきものであり、ひきこもり 固有のシステムとしては更に、検討すべき課題を多く残 しているのではないでしょうか。

 ひきこもり問題を考える上で重要なのは、現代の社会が青年の発達をどのように歪め、ひきこもりとして現れているかを考えることです。とりわけ、このシステムを、ひきこもりの青年たちが生まれ増加してきた一九六〇年以降の社会システムとの関わりで検討する必要があります。高度経済成長による社会構造の変化が、青年期の発達上の危機を生じさせ、長期にわたる時には、生活障害を持つに至ってしまう状況がひきこもりです。一九七〇年代は、一九七二年に出された列島改造論下での都市化と核家族化が進行する一方で、一九七四年にはGNPが戦後最初のマイナス成長を見せたことに象徴されるように、高度成長が低成長へと転じました。社会構造の不安定化指標の一つとして考えることができる年代別完全失業率は、一九七〇年から一九七九年の推移では、十五歳〜十九歳が二・〇%から四二%と増加しています。 同様に、二十歳〜二十四歳は二・〇%から三・三%に、 二十五歳〜二十九歳は一・二%から二・六%と増加しています(図1参照)。

 また、一九七〇年に八千三百五十七人であった中学校不登校生徒(五十日以上の欠席者)数は、一九七九年度 には一万二千二人と約一・五倍となつています。この不登校の増加と完全失業率の増加を直接的に関連づけるこ とはできないでしょう。しかし、少なくとも一九七〇年 代の青年達は豊かに見えながら、内実は暮らしづらい社会での生活を余儀なくされてきたのではないでしょうか。 一九八〇年版「厚生白書」は、一九六〇年代後半から 一九七〇年代にかけての疾病構造の特徴の一つとして、 公害健康被害者の発生と大量飲酒者や神経症の増加を指摘しています。一九七〇年代の青年達は、学歴主義・会社主義の下で競争を余儀なくされ、個人主義が強まり他者とのコミュニケーションを充分に確立できず、自己評価に対する不安を拡大させていきました。一九八〇年か ら一九八九年の完全失業率の推移を見ると、十五歳〜十九歳が四・一%から七・〇%に、二十歳〜二十四歳が三・三%から三・八%に、二十五歳〜二十九歳が二・六%か ら二・八%に増加しています。特に、十五歳〜十九歳までの完全失業率の増加が顕著です。また、一九八〇年に 一万三千五百三十六人であった中学生の不登校数が、一九八九年には四万八十七人と約三倍にが顕著です(図1参照)。この若年者の完全失業率の増加と、中学校不登校生徒の増加が生ずる土台は、共通ではないでしょうか。

 この世代の若者たちは、自己の社会的価値が決定される学歴社会に否応なく参加せざるをえず、適応競争のなかで苦闘しました。義務教育・幼児教育にまで競争が波及し、偏差値が自己目的化し、学校が子どもたちの居場所や生活共同体ではなくなり、競争といじめの場所として二極分化した生活のなかで生きづらさを経験したのです。また、一九九〇年代は、後の国民生活白書(二〇〇三年)が、「失業率が過去最高水準の五%台半ばで推移する中で、とりわけ二十五歳未満の若年の失業率は一〇% に近づいており、今後の日本経済を担う若年の就業問題は、極めて重要な課題となっています。従来日本では、日本的雇用慣行の下、学校を卒業するとともに正社員と して企業に就職し、同一企業内で技能を蓄積し、退職を 迎えるという働き方が典型的な就業形態と認識されてきた。しかし、若年においては、失業者やパート・アルバイトなどのフリーターが増加しており、若年を取巻く就業環境は、従来の枠組みとは異なったものに変化してきている」(2)と指摘したように、青年期の発達課題である就労を通した成人期への移行が不安定さを増していった時期でした(表1参照)。


2 高度経済成長期から一九九〇年代ヘ −−成人期移行障害とひきこもり

 一九七〇年代には、男性の対人恐怖症の重症例とし て、自我漏洩症候群(自己臭恐怖症、醜貌恐怖症)が特徴的に表れてきます。この社会的背景の一つとして、資本主義的競争下における個人主義の激化をあげることができます。それとともに、この時代の青年期の発達を探る時に、「精神医学的な精神病理の問題ではなく、むしろ現代社会に生きるすべての人々の共通した社会的性格」(3) にさえなったモラトリアムへの着眼が必要となります。 一九七〇年代初頭の大学紛争当時、大人になることを拒否する青年達の存在に、小此木啓吾は「モラトリアム人間」という呼び名をつけました。(4)小此木は、旧来の社会秩序の下で『自己定義=自己選択=アイデンティティ』 と一対をなす概念のなかで捉えられたモラトリアムは、 社会秩序に根をおろした確固たるオトナ社会の存在を前提として、初めて本来の目的を達することができた。しかし、モラトリアムに質的な変化がもたらされ、社会的現実から一歩距離を置いて自我を養い、将来の大成を準備することが希薄となったと、「新しいモラトリアム」という考えを提示しました。この時代は、若者の全般的なモラトリアム化と共に校内暴力が盛んになり、精神科臨床では境界例の事例が多く出始めました。

 また、一九八〇年代の若者を考える時、「暴走族」や 「ヤンキー」と言われる若者たちの存在と、一九八〇年代 後半から一九九〇年代にかけ徐々に増加してきた摂食障害とひきこもりが重要なヒントを与えます。「暴走族」や 「ヤンキー」と言われる若者たちは、自らの存在を誇示する為に、独特のファッションで身を包みました。家族と共にいることを望まず、自らの手で巧妙に工夫した車を心理的安全の「基盤」とし、コンビニをダイニングとして生活することを求めました。他方では、自己の存在が認められず愛情飢餓状態となり、それを病理的に表現 し、女性性の確立の時期に成熟することを拒否した摂食障害の若者たちも生まれました。(5)このように、一九八〇年代を生きた若者達が共通して訴えていることは、 「孤独感のない孤独」ではないでしょうか。 さらに、一九九〇年代に入り、自室あるいは自宅に数年間、なかには十年以上ひきこもるが、精神症状を持たない若者たちの存在が指摘されてきたのです。春日武彦が、「居心地が良いからひきこもるのではなく、追い詰められた挙げ句にひきこもらざるを得なかったといったシチュエーションを受け入れなければ彼らを理解すること は難しい」(6)と指摘するように、このひきこもる若者たちがおかれているのは究極的な孤独であり、「やり場のないなかで選択した孤独」ではないでしょうか。

 こうした若者の孤独は、自己と家族を置き去りにし会社と称されるコミュニティ(会社社会)に没入せざるをえなかった親を子から奪い、情緒的に関わりたいと願う子どもを受け止める力を親から確実に弱めた高度経済成長のなかで生じてきたのです。また、競争主義は、若者たちから「仲間」を奪いました。コンビニでたむろする若者たちや、街中を暴走する若者たちは、自己を社会的に価値ある存在として見出すことができず、ただ、慰め あうことのできる「ダチ」として行動を共にし、それなりの充実を感じているのかもしれません。しかし、次代 の社会を共に築きあげる若者集団としての「仲間」の存在は希薄になっていきました。小川太郎は、一九六〇年代初頭に「学校のなかに侵入してくる資本主義的な原則、大学・高校への入学の烈しい競争事態の中で、子どもたちの間、教師たちの間に深い溝をつくり、こうして階級的支配に奉仕しているが、このような人間疎外の現実は、子ども・親・教師の共通の悩みとなっている」(7)と指摘しました。これは、かつての未解放部落児童が抱えていた生活課題が、より広範な子ども達の課題となっていくことを示唆したものです。ひきこもり問題の背景には、ここで小川が示唆したような「仲間」の存在の希薄化や人間疎外の深刻化が存在すると考えています。


3 ひきこもり支援の視座 −−エンパワーメントの指標

 ひきこもりは、人格発達の各時期に獲得される心理・社会・性的発達の一要素である対人関係力のつまずきとして、思春期・青年期に生じるものであると考えます。若者が、安心して仲間集団や他者集団との関係を持つことができる対人関係能力の基盤は、乳児期には母親的人間との関係で、幼児期には両親的人間や基本となる家族 との関係で、学童期には学校内の対人関係で形成されていきます。

 一方、ひきこもる若者達は、人との関係が苦手で、避 けたり拒否したりすることがあります。社会参加の困難さから、自室あるいは自宅に長期にひきこもり、社会から孤立するのです。やや回復し自宅からコンビニへの活動を獲得しても、意欲的に社会的な活動を送ることが困難なことがあります。さらに、就労への参加も人と関わる力の深刻な課題が要因となり困難さを持つことがあります。自我同一性を獲得することに困難さを持つ若者たちは、社会構成員としての自らの価値を見失い、自己への尊厳を低めてしまうことも少なくなく、時として仲間や社会への攻撃性が強まり反社会的行動をとることもあります。

 いま、ひきこもり支援を考える時、若者たち自身の個人的な課題や家族の課題に要因を転化したりする自己責任論や家族責任論を的確に批判しながら、個人や家族への支援も検討していく必要があります。若者たちのなかには発達障害や人格発達上の課題を持つ当事者もいます。また、若者のひきこもり行動をより強める働きを行 い、ひきこもりが長期化する要因となっている家族の ケースもあります。

 しかし、家族も当事者と同じく資本主義社会の諸矛盾のなかで力強く生きる力を奪い取られた存在であり、家族と当事者、さらに彼らが所属する集団・社会(地域) を、エンパワーメントの対象として捉えていく必要があります。その実践が、エンパワーメントを目指したものであるか否かの指標は、「当事者の自由裁量を保障しきれている実践であるか否か」「当事者と支援者が相互に実践展開のプランを立てることができているか否か」「実践が自治的に展開されているか否か」「個々の安全が保障さ れているか否か」「差別や権利剥奪との対峙が可能となる実践が用意されているか否か」等々の視点から分析し、見極めていく必要があります。


(1)斉藤環は、一九九八年十一月に『社会的ひきこもり−終わらない思春期』(PHP出版)を出版した。この書が出版されて以降、なんらかの精神疾患の症状としてのひきこもりと、精神疾患を持たないひきこもりを区別する為に「社会的」という表現が用いられるようになった。現在、ひきこもり研究を進めるなかで、私は「社会的」という言葉で包括することが妥当であるのか疑問を持っている。例えば、当事者に発達障害 や人格障害、さらに何らかの内科疾患がある時に生じるひきこもりを「社会的」と表硯することが妥当であろうか。
(2)内閣府「国民生活白書平成15年版」二〇〇三
(3)小此木啓吾「ひきこもりの社会心理的背景」狩野力八郎・近藤直司編『青年のひきこもり−心理社会的背景・病理・治療援助」岩崎学術出版二〇〇二 一三−二六ページ
(4)小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中央公論社一九七八
(5)春日武彦『17歳という病その鬱屈と精神病理』文蛮春秋二〇〇二
(6)春日武彦前掲書二〇〇二
(7)小川太郎『同和教育の探求第3巻−同和教育の理論−』部落問題研究所一九七五


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