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早川幸生の

京都歴史教材 たまて箱(54)−−絵馬
−人々の願いと感謝をたずさえて−

                  早川 幸生

「ひろば 京都の教育154号」には、絵馬等の写真が多数掲載されてますが、本ホームページでは省略をしています。くわしくは「京都の教育154号」をごらんください。−−HP運営事務局


絵馬との出会い(1)−−大絵馬

 左京区上高野にある三宅八幡宮の秋祭に、子供相撲が行われます。参加する児童の応援と露店のパトロールを兼ね、子供相撲が始まるまで境 内を散歩した時のことでした。社務所の前に、絵馬堂を見つけ堂内軒下を覗いて見ました。鳩の絵馬に混 じって何かの行列が描かれている絵馬が数枚ありました。大きい物 では縦1.5メートル、横2 メートルもあり、年代も江戸期 安政年間から明治の文字の読める物もありました。もっと近づき目をこらすと、どの絵馬にも 多数の子どもが描かれ、中にはその行列が蛇行し200人以上描かれている物も見られました。

 社務所を訪れ、絵馬のことを 尋ねると、ああ、あれは全部おかげ詣の絵馬ですわ。ここは、昔から子どもの疳(かん)の虫封じで有名でしたさかい。治った子の親が納めた物です。」 とのことでした。もう少し詳し く知りたくて調べてみると、次 のような解説を見つけました。 「三宅八幡は、子どもの疳の病と腫物に霊験があるとして古くから広い信仰を集めてきた。この神社では、願いを叶えてもらった御礼に鳩を描いた絵馬を奉納する習慣があり、今も絵馬堂には鳩の図の絵馬が多く見られるが、こうしたものに混じって童児が行列をして三宅八幡社に参詣する図を描いた絵馬も多く残されている。かつてこの三宅八幡神社には子供講があったといわれ、行列参詣の絵馬は、子供講のおかげ詣の行列の光景を描いたもので、国中の一人ひとりの童児のかたわらには名前が記されているものがある。」 と記されていました。

 「虫封じ」については、もともとは「田の虫」を封 じ(退治)ることが始まりで、それが子どもの疳の虫封じに転化していったという説もあります。出町から山端、三宅八幡を結ぶ旧大原街道沿いに点在する、鳩もちや、でっちようかんは、三宅八幡へ「虫封じ」 やおかげ詣りに行った参拝者のために作られ売られた、江戸・明治・大正・昭和・平成と続く、参詣土産なのですね。

 三宅八幡の大絵馬に出会って20年が経とうとしています。読者の皆さんに絵馬のことをお伝えしようと、久しぶりに三宅八幡を訪れました。古い絵馬堂はそのままありましたが、絵馬は一枚も掲げられていません。社務所を訪ねると「京都市の有形民俗文化財になったので、保存会の人たちの尽力で、絵馬館ができ4月初旬に開館予定」との嬉しいお話でした。禰宜(ねぎ)さんの特別の計らいで、開館準備真っ最中の新絵馬館に入れていただきました。

 禰宜さんが説明を詳しくして下さったのは、 「児童おかげ詣図」という絵馬で、明治26年(1893)に奉納された 大絵馬 (80×145センチメート ル)でした。よく見ると一人ひとり の子どもの肩口などに名前が記されていました。

 注意深く見て行くと、京都の子ども達であることが分かってきました。「寺町村瀬」と記されています。 「寺町ムラセ」といえば、京都のお年寄りの方は「わらんじのムラセ」というくらい有名な肉屋さんです。皿からはみ出すくらいのわらじのような大きなビーフカツ、トンカツで有名なレストランでした。父や叔父と何回か行った村瀬でしょうか。また 「田井」という苗字の子もいます。今 も東山安井に昔から続く「田井のパン」があり、高校の同窓生が跡を継いでいます。親戚でしょうか。

  「ひろば」154号が発刊される頃には、絵馬館もオープンしている予定です。ぜひご覧ください。


絵馬との出会い(2)−−小絵馬その@

 蛸薬師絵馬に出会ったのは、木屋町蛸薬師にある立誠小学校でした。京の童唄にある「丸竹夷二押御池姉三六角蛸錦四」までが校区でした。北は丸太町から南は四条通です。家庭訪問の時、A君のおばあちゃんの案内で蛸薬師さんに詣りました。境内は蛸づくしです。特に手がきの小絵馬は、一枚一枚色も絵柄も違う優れもので、絵馬掛にかけられた様は、目を引きました。蛸薬師の縁起として、 「昔、寺内に親孝行の僧がいて、病気の母が蛸を食べたがるので、苦心して蛸を買い求めた。帰って籠を開いて見ると薬師経一巻にかわっていた。僧はこれを見て悟り、 朝晩薬師経を唱えて世話をしたので、母の病気も全快した。 これを見た町の人々が、この寺を蛸薬師 と呼んだ。蛸薬師は何病にも霊験があるが、とくに婦人病、小児病にあらたかといわれ、信心する人は蛸を禁食し、蛸の絵馬をあげて祈願する。」というものが伝わって います。

 京都のみならず全国に、蛸薬師や 蛸地蔵があります。これらはみな、病気治療、特に婦人病、小児病にあらたかとされるとともに、蛸の特徴である吸盤から、腫物の吸い出しに効能があると考えられたようです。

 また、見方を変えると、いかに日本人が食材として蛸を用いてきたのかが判ります。今でも、煮物、焼き 物、刺身、酢の物、蛸焼きやおでんの具材として活躍しています。それを断ってまで願った人々の願いや悩 みが伝わってきますね。


絵馬との出会い(2)−−小絵馬そのA

 左京一乗寺、宮本武蔵と吉岡一門の決闘で有名な一乗寺下り松を坂上って行くと、詩仙堂があります。そこを通り過ぎると一乗寺地域の氏神である八大神社があります。修学院小学校の子ども達も祭礼に参加 し、サンヨーや子ども御輿、子ども剣鉾に出る神社です。

 春の祭礼の、剣鉾差しの練習を見に行った時のことです。社務所の横 に絵馬掛がありました。見ると、どの絵馬も4・5人の婦人が着物に羽織姿でひざまづき、社殿前で合掌しています。そして「御礼」の文字と女性の連名書きがありました。珍しそうに見ている僕の姿を見つけて、八大神社の宮座の要職を務めておら れたPTA会長のOさんが声をかけて下さいました。 「先生それね、女人講の御礼の絵馬ですわ」 「えっ、にょにんこう…」

  「女人講は、ちょっとしたここらへんの自慢です。この一乗寺にお嫁に来た人達の同期の会です。嫁入りの 多い時は1年で、少ない時は2・3年で講を作ります。月に一回、時間の取れる時は昼食を伴いながら、また忙しい時は半日とかで集まります。年一回は日帰りや泊まりがけで旅行にも行きます。要するに、立場の弱い嫁さんの扶助組織です。半日から一日、互いの家の事、しゆうとや姑さんの事、だんなや子育ての悩 みや相談など、ゆっくりしやべってるみたいです。お金を積み立てて、困った時や急な要り用に使ってるそうです。家ばっかりでは、しんどい。たまには外に出て、同じ立場の者が誰にも遠慮無くしゃべる。そんな会やそうです。女人講の日はいそいそと行きます。60すんだ母親もうちの嫁も同 じです。女人講の日は、極力家族全 員で協力して、女の人が講に行くことを保障するのがならわしです。行った日は、ストレス発散できたのが良く判ります。同じ女人講の家族は親戚以上に仲 が良いところがあり、気兼ねなく支えあってええもんです。昔の人の知恵ですね。これからも続いてほしいです」

 女の人や、弱い立場の人を具体的に支えてきた人々の本当のやさしさを感じたひとときでした。


大絵馬いろいろ−−

 京都には、大絵馬の大作を所蔵する神社が多く、中でも北野神社、八坂神社、今宮神社、安井金比羅宮、 御香宮、稲荷神社などはその代表とされています。また、寺院では清水寺も多数の重安な大絵馬を所蔵することで有名です。特に渡海船額図四面(末吉般図三面、角倉船図一面)は、数少ない重要文  化財に指定されており、京都を代表する絵馬とされています。

 これらの寺社を訪れ、目を引いた絵馬を紹介します。

(算額)−−京都で一番古い絵馬堂とされているのは、豊臣秀吉が建てたと伝えられる北野神社のものです。堂内には重要文化財級だと言われる長谷川等伯筆土佐坊、弁慶図等に混じって、写真(略)の「算額」が掲げられています。算額とは数学の絵馬で、17世紀ごろから一般化したといわれ、最初は算術の上達を神願したり、感謝したりするために奉納したと考えられますが、寛政年間(18世紀終わり頃)になると、自分の算術の修得度を世界に示すために、難問を額にして奉納するようになりました。さらに他の学習者がその誤りを指摘したり、問いに対する解答を記述した算額が奉納されるようになりました。北野神社のほか、八坂神社、清水寺、宮津市切戸の智恩寺にも所蔵されています。いずれも和算の歴史を知る上に貴重な資料とされていますが、光や風雨による劣化や剥離が激しく保護や修理、レプリカの作製等が急がれます。

(武術図絵馬)−−どの絵馬堂や絵馬館を訪れても、武術に関する物も目にします。安井金刀比羅宮の関口新心琉柔術図絵馬や八坂神社の砲術図絵馬、藤森神社の駈け馬図等がそうです。

 また、写真(略)のような弓や木刀の模型が掲げられている物もよく目にします。一門の大会記念であったり師範の長寿を祝った物も見ました。火縄銃の的を貼り付けた絵馬もありました。よく見ると、的にみごと的中した玉の跡がはっきり見え、腕の上達を祈り、感謝した当時の人々の気持ちが良く伝わる絵馬です。


小絵馬いろいろ−−

 小絵馬については蛸薬師と八大神社の女人講でふれたように、大絵馬 に比べるとずっと多くの町や村の人々が手にし、願いを込め奉納しています。今も見られる正月初詣の十二支の絵馬や、北野神社の合格祈願 の絵馬がそうですね。小絵馬の大まかな分類を紹介します。

(ア)子育て絵馬−−関西地方に多く見られる絵馬は、乳しぼりの絵馬と呼ばれ婦人が乳の出るように祈るもので、京都日野法界寺の乳薬師や乳の弁財天が有名です。それ以外には「風呂入り」「月代(さかやき)」の絵馬と呼ばれるもので、昔の子どもに多かった風呂嫌いや、月代剃り今でいう散髪嫌いを治すことを祈願し奉納したのです。

(イ)病気平癒絵馬−−医学や科学の発達が不充分だった時代には、病気にかからないように、また早く治るように参拝し、祈願奉納したもので、婦人病や眼病、皮膚病等いろいろな病気平癒を祈願し、また治ったことを感謝したものです。

 写真(略)の逆さになつた松は「逆まつげ」に、目が八つ描かれたものは眼病に効く「八目鰻」をもじったもの、白鯰は皮膚病に効くとして奉納されたものです。

(ウ)断ちもの縁切り絵馬−−京都の菊野大明神の男女の縁切りをはじめ、病気との絶縁、兵役逃れ、禁酒、禁煙、禁賭、盗み癖封じ等いろいろ。絵にそれぞれ工夫があり面白い。

 もう一つ絵馬の持ち味として、絵で描かれているので判り易いことです。文字の苦手な人々、老人や子どもまで親しむことができたのです。


絵馬の歴史と変遷−−

 日本では古くから、神は馬に乗って人の世界に降りてくるという考えがあり、みこしの出現までは、多く は白馬の背に乗って降臨するのが一般的で、今でも下鴨神社で5月に実施される御陰祭にその様子を見るこ とができます。馬が神聖な乗り物とするなら、神霊を和らげまたその神威にあずかるために、あるいは祈願のため馬を献上する風習が生まれたようです。石清水八幡の神馬堂に飼われた白馬も、生馬献上の古い風習 を伝えるものです。各神社に見られる神馬堂と木の馬等もそうです。「続日本記」に日蝕や雨乞い日乞い長雨を止める祈願に生馬を献上した記録があります。その後、生馬にかわ り、木や土で作られた馬形が献上されました。その後板で作った馬(板立馬)が登場し、さらに簡略化した ものが絵馬と考えられています。

 絵馬のもう一つの魅力は、当時の人が目にした歴史上の事実を描いていることです。興福寺伝の「唐子踊」 の絵馬も江戸期朝鮮通信使一行の稚児双舞の一場面に違いありません。

 どこかの神社や寺院に行かれた ら、ぜひ絵馬堂があればご覧下さ い。新しい出会いを楽しみに。

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