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特集1「大学全入時代」と進路選択
            −−高校での進路指導と大学生

総論 「大学全入」時代と進路選択

              小野英喜(立命館大学)



1.大学全入時代とは

 大学の入学定員と受験者数が同じになり、大学を選ばなければ受験浪人がなくなる「2007年問題」は、学校教育に多くの課題を投げかけています。文部科学省の調査(1)では、1990年に177万人であった高卒者が、2007年には121万人になり、大学等への進学率は51.2%になりました。しかし,2004年にはすでに私立大学の三十%,短大の四十五%が定員割れしており、「2007年問題」は数年前から始まっています。

 これは、高校卒業者数の減少だけでなく、新自由主義の教育政策で規制緩和による大学の新設が際立ち、1992年から2006年までに七十大学が新設され,短大から大学への移行を合わせると百八十四大学もの増加にも原因があります。大学・短大は、市場原理に従って淘汰され、定員割れになると経営的に成立たず研究と教育の機関としての機能を失うため,学生確保の生き残りをかけてオープンキャンパスを開催し、高校生に大学の就職率や資格習得などを示して過剰な宣伝とサービス競争を繰り広げています。

 この結果、「難関」大学とか伝統校と言われる大学も含め受験生争奪競争が激化し、地方入試会場を全国に拡大,時流に乗った新学部・学科を増設、早期に入学生を確保する推薦入試の一層の拡大を競い合っています。入試の多様化は、「一科目入試」や高得点の科目の点数を倍増する「傾斜配点入試」、さらに入試問題のレベルを下げることにも及んでいます。

 指定校推薦,部活動推薦、AO入試(2)など推薦入試の枠の拡大は、私立大学の定数の半分以上に及び、国・公立大学でも定員の四十%が推薦で入学するなど、入試のハードルが以前に比べて低くなっています。その一方では、一部の大学の競争の激化は学校教育に大きな影響を与えています。なぜなら、日本では、学校教育が小学校から高校まで大学を頂点とする「競争・選抜・配分装置」の役割をもち、子どもとその親にとってこの配分装置に乗らないと将来展望から遠ざかるためです。しかも、いったん競争から外れると、そこに復帰するのは並大抵の努力ではできない仕組みになっています。

 「競争・選抜・配分装置」としての学校は、新自由主義の政策と連動して、教育特区による特色ある学校、公立中高一貫校の新設など小学校から高校まで再編成が進み、教育格差の拡大と競争の激化の渦に子どもを巻き込んでいます。「有名」私立大学が軒並み附属小学校を新設して、小学校入学前の子どもにも過酷な選抜競争に参加させています。このように大学全入時代になっても、受験競争は依然として激しい一面があります。


2.大学入試と学校教育

 高校からの就職は、企業と高校の進路指導担当者との間で試験期間を限定する協定があり、高校教育への影響を少なくしてきましたが、大学の推薦入試の拡大は、以前にも増して高校教育に大きな影響を与えています。それは、スポーツ推薦が1学期末に決定し、二学期には多様な推薦入試が行われ、半数の生徒の進路が決まり、高校生の学習への熱意も冷めて授業が成り立たない場合もでているからです。

 これは、高校生の学校や学習に対する意識が、「大学に合格すれば後は卒業するだけ」、「この科目は人生に役に立たない」、「高校は大学への一里塚」として、高校での学習が大学での研究や人生の基礎なることを自覚できていないからです。これを反映して、日本の「高校生の学校外での学習時間は、どのランクの高校でも79年から97年かけて大幅に低下している。」「高校生にとって『勉強』や『学校』が持つ意味の希薄化ともいうべき」(3)変化が起こっています。この傾向は、「大学全入」時代になってもよりいっそう強くなっています。中学生の98%が進学する日本の高校における学習は、日本の社会を担う国民の育成としても、教科教育の総体としての人格の発達につながるものですが、それが大学入試で屈折し、人間としての発達に大きな課題を残しています。

 その一方では、難関大学といわれる大学の過酷な入試競争は依然して続いており、高校は、その存在意義を「大学入試の実績」という価値観で判断して、以前にも増して厳しい受験体制の教育課程がつくられています。それは、2006年の「世界史の未履修問題」に象徴的に表れているように、入試に必要でない教科・科目は、必修科目であっても履修の機会すら奪っていることです。高校教育の意義や目標を疑う「効率よい入試対策の教育課程」とか「入試競争に勝ち抜くため、入試科目は一時間でも多く」という談話や「いいわけ」が、昨年この問題にあわせて報道されていました。

 学習指導要領で必履修科目になっている「世界史」が、全国の10%の高校で未履修であるという「世界史の未履修問題」は、教育課程の問題にとどまらず、国民としての教養や、大学等での専門的な学習の基礎として大きな課題を残しています。未履修問題はそれだけではなく、大学で「教育課程論」を受講している200名の学生について私が調査すると、世界史を全く履修していない学生は十一%でした。しかし履修内容を詳細に調べると「世界史は4月で終わり、その後は日本史だった」とか、「世界史の教科書は買わされたがその時間は日本史を習っていた」、「世界史の日本に関する部分ばかりやっていた」と答えた学生もあり、実質的には二十%を超える世界史未履修があったと思われます。さらに、驚くことは、自称「進学高校」の卒業生が、「芸術や家庭科は全く履修していない」、「体育は毎年1単位程度しかしていない」など、必履修科目の「未履修」は世界史だけではありません。

 このような高校教育のあり方が高校生の考えにも大きな影響を与えていることが、国際比較(4)でも顕著に表れています。韓国、アメリカ、ドイツ、タイなどの高校生は、学校で学ぶ意義を「進学のための知識の習得」だけでなく「一般的・基礎的知識」すなわち「社会で役立つ知識」や「専門的知識、職業的技能」に強い意義と役割を見出しています。しかし、日本の高校生は、「友情をはぐくむ」と「自由な時間を楽しむ」に最も多くの意義を見出し、高校の学習が今後に生きて働くことに気がついていない、あるいはそれを求めていないことが明らかになっています。

 憂慮することは、高校のLRH(ロング・ホームルーム)の時間も大学入試対策に使われていることです。高校のホームルーム活動は、教科の学習で獲得した学力を駆使して、行事や独自の取り組みを通して互いに考えを交流させ民主主義を実践的に学ぶ時間です。しかし、大学生に「高校3年生でLRHの時間に何をしたか」を複数回答で質問すると、「進路指導や健康教育、人権教育」と答えたのは五十%程度あるものの、「受験勉強」と「教科のテスト・模擬試験」が八十%に達しており、「自習の時間」と「何もしていない」時間だったが四十七%もあるなど、高校のホームルーム活動の内実が全く機能していないことを示しています。この調査が教員免許状取得を対象にした講義の受講者であることを考えると、私は、本来の意味でのホームルーム活動や生徒会活動を経験した指導者が育たないという危機感を覚えます。


3.基礎学力と大学教育

 「大学全入」問題は、現行の学習指導要領改訂による学習内容の三十%削減と相乗して、大学生の基礎学力不足を鮮明にしました。未履修や学力不足で講義が成り立たない大学は、高校での未履修科目の補習や基礎学力回復のための「リメディアル教育」を行っています。1990年代に「分数ができない大学生」に表れた広い範囲の基礎学力不足は、算数分野だけでなく文章を読み解く力の不足など大学教育を進める上で大きな障害になっています。

 それは、第一に、「学生がアメリカ軍によって広島と長崎に原爆が落とされたことを知らない」と広島県出身の学生が憤慨し、「水俣病をまったく知らない学生が余りにも多い」と嘆く熊本県出身の学生、「日本で沖縄だけが唯一地上戦があったことをほとんどの学友が知らない」と怒りを顕にする沖縄出身の学生など、ものごと認識するために必要な基礎知識を習得できていないことを示しています。これは、社会的・歴史的認識の不足、すなわち人間が互いに考えを伝え合う共通の言葉を持てないことを意味します。

 第二には、本を読んでも理解できない、課題を出しても自分の意見で文章が書けない、プレゼンテーションの力がなく人前で自分の意見を言えないなど、それを表現する言語力不足で、大学教育を進める上で大きな障害をもたらしています。これを裏書するように、大学生協連の2006年調査(5)によると、1日の読書時間「0分」が37%、特に医歯薬系の学生では41%に達しており、150分以上読書するのは1985年調査の半分の2.2%に後退しています。それは、「最近1ヶ月の勉学・研究書」の購入すら「0冊である」が47%に達しているなど、大学生の本離れ、読書離れが顕著になって学力の基礎が萎えていることを裏書するものです。

 これを克服する一つの手段として、中央教育審議会は「大学卒業資格試験の検討」をしていることも報道(6)されていますが、入り口の問題を放置して大学の出口を細くしても解決できません。大学教育は、義務教育を含めた12年間の学校教育の上に進められるものであり、差別と選別による12年間の学校教育を改めることなしに、大学教育の展望を見出すことは困難です。さらに、大学は、現在の「全入時代」を踏まえて、高校教育を変質させる入試を改めるとともに、大学教育自体も学生の実態に合わせた教育内容に変えていくが求められます。


4.子どもの進路選択を保障するために

 新自由主義の教育政策は、学力格差を拡大し、子どもの人間としての成長と発達を保障していません。すべての子どもの成長と発達を保障するためには、@小学校から習熟度別学習を強制するのではなく、基礎的な学力をすべての子どもの保障する教科の指導と、中学校と高校では診断的評価に基づく回復指導(7)とあわせて、発達段階にふさわしい学習を保障することです。さらに、Aホームルーム活動や児童会・生徒会活動を充実させ、子どもたちの学校生活と学習に対する要求を組織して、それに応える教師集団をつくり民主主義を具体的に学ばせることも大切です。(8)

 また、B進路選択と学習との関係では、生徒にどれだけ学習の意義を理解させるかという課題があります。中等教育は、学習と進路選択をどの高校・大学に入学するかという狭い指導ではなく、「人間になる」とはどういうことかを明らかにして生徒自身に考えさせ、自分の進路を切り開く契機をつくる内容にしなければなりません。

 その点では、入学当初に「高校で学ぶ意味」を考えさせている実践(9)があります。そこでは、高校で学ぶ意味を「@『ヒト』が『人間』になるために欠かせないことであり、個人の幸せと社会の発展のために優れた能力を見につけ自分の世界を広げること」、「A自立の基礎をつくること」、「B自分や社会や人間についての『無知』をなくして『本質』を知り、論理的な思考力を身につけること」の三点としています。このように「なぜ学ぶのか」だけでなく、「何を、どのようにして学ぶのか」を、生徒に示し、それを教科教育や特別活動で実践することが、生徒の進路を保障し、進路選択を確かなものにします。

 「高校生の学力がいくら高くても『やりたいこと』を見つけたり、それを実現するための進路展望を抱くことができるとは限らない。しかし、『対人能力』をうまく取り結ぶ能力が高い高校生は、自分自身の将来像をはっきりとイメージしてそれに向かって進む意識をも同時に身につけている傾向がある。」(10)と指摘されています。これは、高校生の進路指導の展望が見え、先に見た実践と共通するものです。

 「対人能力」は、教科教育と地域を含めた家庭環境と友達関係の中で育てられますが、とりわけ学校で軽視されている自主活動としてのホームルーム、生徒会、学校行事などの中で培うことができるように計画することが必要です。


(1)文部科学省・平成19年度学校基本調査速報・平成19年8月
(2)「admission・office入試」のことで、「意欲や適性を重視した、論文や中・高での研究成果と面接」による入試。
(3)本田由紀著「多元化する能力と日本社会」NTT出版 2005年 117ページ
(4)1998年の総務庁の「第6回世界青年意識調査」
(5)全国大学生活共同組合連合会 2006年10月の調査・朝日新聞2007年12月31日
(6)朝日新聞 2007年9月10日のニュース記事
(7)第37回京都教育センター研究集会(2006年度)第3分科会で報告された京都市立洛北中学校と京都府立朱雀高校の学力回復と学力保障の取り組みが参考になる。
(8)これを実践している小学校に、滋賀県近江八幡市立島小学校がある。
(9)京都府立朱雀高校発行・「三年間の学習プラン」2006年度版から (10)(3)と同じ、142ページ

 
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