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ひろば153号

早川幸生の 京都歴史教材 たまて箱 53

 竹 
しなやかな素材でくらしや行事・夢を支え続けて
              早川 幸生



――地名・町名と行事と竹――

 山科の山階南小学校に勤務している時のことでした。宅地造成のために、校区に残る山科本願寺の土塁が大幅に削られるという事態を迎えました。埋蔵文化財研究所による発掘も始まり、地域の歴史や文化遺産に対する関心が急上昇しました。

 寺内町の地割と現在の町内の境界線が一致していることも分かり、子ども達の歴史学習や地域学習、そして総合学習でフィールドワークや町名調べが盛んに取り組まれました。

 子ども達がすぐに気付いたことがありました。それは「竹鼻」「竹ノ街道町」「竹田町」「狐薮町」等、竹に因んだ名前の町名が多いことでした。江戸・明治・大正・昭和初期の山科の産業を調べてみました。すると、現在も京野菜に名を連ねる「山科ナスビ」と「竹」および「竹筍」作りが盛んであったことがわかりました。現在より竹林が多く、京都や伏見に竹が盛んに運ばれた街道があったこともおしはかることができました。

 そして、農協にお勤めのおじいちゃんから、滋賀県と京都府の県境に、明治時代に建てられた筍の碑があることを、一人の生徒が聞いてきてくれました。写真の資料が、明治四十年に山科藤尾筍組合が建てた、旧追分宿の奈良街道と旧東海道の分岐点に立つ碑です。そして、写真を撮りに行った際に、碑の東側が筍の入札場(集荷場)であったことも近所の方に教えていただきました。

 もう一つ気になる町名がありました。山科本願寺寺内町に因む町名が多い中で、寺内町とあまり関係のなさそうな町名でした。それは「左義長町(さぎながちょう)」。四文字目の町を取ると「左義長(さぎちょう)」になります。滋賀県の近江八幡出身の両親をもつ児童がヒントを与えてくれました。 「八幡(はちまん)のおじいちゃんとこのお祭と同じ名前や」その子の両親から資料をもらったり、民俗探訪事典や「京都歳時記」で調べてみました。一月十五日のところにのっていました。

「左義長(さぎちょう・とんど)

 元日からの大正月に対して、十五日を小正月と呼ぶ。この日、三本の松と青竹を組み立て、中に注連縄(しめなわ)や門松などの正月飾りを入れて燃やす左義長(とんど)の行事が神社や各家で行われる。古くは正月遊技に用いる毬(ぎ)杖(ちょう)という長柄の槌を青竹と組んで焼いたので、三(さ)毬(ぎ)杖(じょう)とも書く。「徒然草」には「さぎちゃうは、正月の打ちたる毬杖を、真言院より神泉園へ出して焼きあぐるなり」とみえる。この火で書き初めを燃やすことを古書揚げといい、その燃えさしが高く舞い上がれば書道が上達するという。また、この火で焼いた餅を食べると病気にかからないともいう」と記されていました。とんど、とんど焼き、どんど等と呼ばれる行事の総称のようです。資料の絵は、日本歳時記にのせられたさし絵です。(略)

 もう一度、江戸時代の山科と竹のつながりを調べました。山科郷の各村には、本年貢(米)のほかに禁裏御料として独自の負担があったようです。僕の住む大宅の「沢井家文書」と呼ばれる慶応三年(一八六七)十一月に書かれた「山城国宇治山科郷大宅村差出明細帳」から紹介します。まず、やはり竹と筍です。竹は御所の左義長(毎年正月十五日に、青竹に吉書・扇子・短冊などを結びつけ、燃やす)のためのもので、大宅村では竹足三六本、小竹二四四本、のぼり竹一本、計二八一本を毎年正月十二日に御所に献上しました。この他、大嘗会の時にも御用竹を献上しています。筍については「山本家文書」(山科郷諸役控帳)によれば、毎年収穫時になると、四月一日は上花山、二日は北花山、三日は厨子奥というように、毎日順番で各村より献上されました。このように、人々の手で育て作られた産物が宮中行事を支えてきたのです。そしてそれが民間に広まり、現在まで残ったのです。

  その他、竹を使った行事で有名なのは、六月二十日鞍馬寺で行われる「鞍馬の竹伐り会式」です。平安中期に中興の峯延上人が山中で修行中、大蛇に襲われたが法力で調伏したという故事に因んでいます。法螺貝を合図に、弁慶かむりした法師八人が、竹を適当な長さにならした後、本堂前で近江座と丹波座の二組に分かれ、大蛇に見立てた太さ一〇aほどの青竹を気合いもろとも、山刀でたたき切る行事です。管長の桧扇を合図に、素早く伐った方が勝ちとなり、豊作になるというものです。江戸時代に今日のような儀式の形に定着し、豊作凶作を占う側面が加わったと考えられています。


――商品としての竹――

  江戸時代、税として上納された竹はいったん二条城の竹蔵に収蔵されました。そしてそれらは、御所や二条城の修理をはじめとして道筋や川筋の普請など幕府や町奉行の用事に使われました。と同時に民間の竹の需要も高まったことは言うまでもありません。竹は広く商品として取引されるようになりました。

 京都市内(旧の洛中・御土居の内側)には京竹屋仲間が作られ、近郊産地から洛中への竹の売買をほとんど独占していました。しかし、近郊産地の村々でも、上納した後の余剰の竹を扱う竹屋が生まれ、近くの竹屋が集まり竹仲間が結成されました。資料に登場するものとして、鳴滝組、太秦組、嵯峨組、桂組、鴨川組等が知られています。

 当時の竹の大量消費としては、各地の酒造りの産地でした。酒造りの各種道具、特に酒樽や桶等のたがとして大量の竹が必要でした。地元京都の伏見をはじめ、兵庫の灘や伊丹にも売られました。西山、乙訓、桂などの竹は、桂川の浜から淀へ集められ、ここで束ねられ大筏として大量に大阪方面に淀川を下って行ったのです。


――竹と道具――

 世界の竹の分布は、中国南部から東南アジアにかけての熱帯・亜熱帯・暖温帯が中心です。その他、インドやアフリカの中南部と中南米にも自生しています。そういう意味では日本は、分布上からも竹文化の中でも、北限に位置していると言われています。

 竹は短期間に成長し、それもまっすぐに伸び弾力性に富むなど素材として多くのすぐれた利点をもっています。そのため、農具・漁具・工具をはじめ住宅建築や調度品、台所用具など、毎日の生活用具の中に多くの竹製品を見ることができました。

 日本の歴史の中で、漁具等の素材として竹が登場するのは弥生時代の後期とされています。それは、竹を割り竹ヒゴを作るために必要である鉄製の刃物の登場と期を一にしています。日本で鉄器が普及する弥生時代後期以降、漁具や籠の素材として竹が多く登場し、鉄という良き伴侶を得た竹は、私たちの日常生活の中に広く、深く浸透していくのです。

 その後、平安時代から日本の文化や芸術の中心であった京都では、竹工芸が発展してきました。竹が工芸品の中で、高く大きな位置を占めるようになるのは、茶の湯や生花が始まる室町時代から、特に千利休が茶道を確立してからのことで、当時の人々は、その良さを高く評価しふだんの生活の中に取り入れ、さらに広がりました。

 江戸時代に入ると、扇や茶道具、御簾(みす)などは京都の特産品として盛んに生産されるようになりました。これは材料として、良質の竹を産出する、山科、醍醐、嵯峨、乙訓という良質の竹の産地があったことも大きな理由です。各小学校にある郷土資料の中にも、竹製の漁具や、野菜や茶を入れる籠類や桶類を多く見ることができます。


――注目された日本の竹(1)竹のフィラメント――

  一八七九年の秋、後に発明王と呼ばれるトーマス・エジソンは木綿糸を炭化させたフィラメントで白熱電球を発明しました。当時は都会でもアーク灯、それ以外では石油ランプやローソクを使っていました。白熱電球の発明自体画期的でしたが、木綿糸を炭化させた最初の白熱球は四十時間ほどしかもちませんでした。しかしエジソンは、もっともっと長持ちする電球でないと、誰もが気軽に使うことができないと考えました。さらに実験を続けたのです。そのため最適の材料を求めて、世界各国へ関係者や探検家が派遣されました。その結果、実験に試した材料は植物だけでも六千種以上だったと言われています。

 探検家ウィリアム・ムーアは、エジソンの依頼を受けて中国を訪れました。アジアや中南米に生えている竹が有望なことがわかったからです。竹は繊維が太く丈夫で、長持ちするフィラメントを作るのに向いている。ムーアは中国の次に日本へ「究極の竹」を探しにやってきました。ムーアからエジソンのもとへ、京都からは、嵯峨野々宮あたりの真竹や、京都府八幡の男山周辺の真竹が送られました。その結果「これこそ最高の竹」とされたのが八幡男山の竹でした。

 この竹をフィラメントに使った電球は、約千時間も輝き続けたそうです。その後、エジソンが人工カーボンの実用化に成功し(一八九四)、竹のフィラメントはその役目を終わりましたが、京都の竹は十年余の間、世界中を明るく照らすのに役だっていたのです。


――注目された日本の竹(2)高跳び竹のポール――

 昭和十一年(一九三六)八月五日、ナチス政権下のドイツで、ベルリンオリンピック大会の棒高跳びの決勝が行われました。死闘五時間の後、メドウス(米)が優勝しましたが、日本選手西田・大江が健闘し、アメリカトリオの完全優勝を阻み、西田・大江が二・三位を分け合いました。当時のルールでは、同記録であれば二人とも二位だったのですが、公式発表では二位西田、三位大江でした。が、表彰式では、西田がそっと大江を二位の台に押しやったと言われています。表彰式後、二人は話し合い、銀メダルと銅メダルを半分ずつつなぎ合わせました。当時の人々は、これを「友情のメダル」として称賛しました。ベルリンオリンピックといえば、韓国人の孫基禎がマラソンで優勝したことや水泳の前畑の優勝が新聞紙上やラジオをにぎわせたようですが、大江・西田両選手が出場した棒高跳びでは、二人の健闘とともに両選手が使用した日本の竹のポールの強靱なしなりと、その竹を巧みに使いこなした両選手に注目が集まったそうです。

 帰国後、現西舞鶴高卒の大江選手は、故郷の白糸浜神社に自分の使った竹のポールを奉納しました。(現在は舞鶴市政記念館に収蔵)その後、大江は昭和十四年に入隊、十六年十二月二十四日、フィリピンルソン島にて戦死、二十七年間の短い生涯を閉じました。

 昭和五十七年、西舞鶴高校に「努力と友情」の像が建てられました。除幕したのはメダルの友西田修平氏でした。助走直前の立像には、今もしっかりと竹のポールが握られています。

 ベルリンオリンピックの四年後に開催予定だった東京オリンピックは、戦争のため中止になりました。昭和十五年(一九四〇)敗戦の五年前の出来事でした。


(「ひろば 京都の教育」153号に記載の写真・図・資料については掲載を省略しています)

  
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