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季刊「ひろば・京都の教育」第152号


地域住民との協同による戦争遺跡の保存運動

〜旧海軍福知山航空基地〜

           梶原 秀明(福知山市立日新中学校



1.はじめに

 私の勤務する日新中学校のある福知山市は由良川中流域に位置し、古来より交通の要所としてさかえた地域である。古墳約1000・山城約70の存在が確認され、近世の城は福知山城があり、歴史的な遺跡が豊富にある。近代に入ってからは旧陸軍20連隊(現陸上自衛隊)の駐屯地が設置され、日露戦争時にはロシア人捕虜が一時期収容された場所でもある。また、「わが南京プラトーン」の著者の東さんが入営し、「南京一番乗り」を果たしたのもこの部隊である。私がこの地に中学校の社会科教師として赴任した20数年前から、この地に戦争末期に飛行場が作られていたことを平和運動に携わっていた方々から聞いていたが全貌は明らかにされていなかった。今回のレポートでは福知山の石原飛行場について私たちの調査によって明らかになった概要と数少ないその遺跡の保存運動に地域の方々と協力してどう取り組んでいったかを報告したい。


2.「中丹地域の歴史と文化を掘り起こす会」の発足と石原飛行場

 福知山市と隣り合わせにある綾部市の「振り袖の少女像」を作る会のことをご存じの方も多いと思うが、この活動で中心的な役割を果たしてこられた吉田武彦先生は福知山市在住(現在私と同じ職場)である。彼の呼びかけで綾部・福知山の歴教協メンバーを中心に04年に「中丹地域の歴史と文化を掘り起こす会」を立ち上げ、綾部・舞鶴・福知山の戦争遺跡を中心に三ヶ月に一度くらいのペースでフィールドワークを開催しはじめた。その中で、旧海軍福知山航空基地(通称 石原飛行場)にかかわる多くの証言や資料が集まり会のメンバーも関心を深めていく。私は現在この施設のあった地域の中学校に勤務している。市民的な関心も高まり、毎回地元紙が報道し、フィールドワークには常時20〜30名前後の参加がある。石原飛行場関連のフィールドワークだけでこれまで7回実施した。わたしたちは終戦直後に作成された施設の概要を記した地図(占領軍が命じてつくらせた物だと思う)をもとにその痕跡をたどる作業と、住民の聞き取りを進めている。


3.石原飛行場(旧海軍福知山航空基地)について

 海軍福知山航空基地の建設は44年の10月に始まる。計画は同年4月に現地に説明されていた。45年6月には飛行機が離発着できた。施設は主に以下のものがある。

@ 滑走路

福知山盆地の最も広い前田〜石原地域に建設、全長1700メートル、幅50メートル。現在、広域農道となっている。周辺に誘導路11000メートル。東側に長さ600メートルの補助滑走路(未完成)

A 関連施設

・ 周辺の山に無数の横穴 燃料倉庫など 今も痕跡残る
・ 掩体壕  飛行機を隠すための壕 土作りの粗末なもの痕跡はない
・ 搭乗員避難壕  長さ10メートル 幅 1.5メートル
・ 指揮所    滑走路南側に残る頑丈なコンクリート造り 竹薮の中に今もそのまま残る
・ 高射砲  周辺の山頂 三カ所 今も痕跡残る

B 川西航空機工場

  飛行場周辺と数q離れた正明寺地域に工場があった。飛行場周辺には大きな組み立て工場があり、今もその鉄筋は近くの工場で使われている。正明寺地域には半地下工場(部品製作)と岩盤をくりぬいて隧道を掘りその中に組み立て工場がつくられていた。そこで紫電改を見たという証言もある。その後、採石場として岩山が削られ隧道は残っていない。

C 将校・下士官・特攻隊員宿舎

  滑走路南側。現在ホームセンターやスーパーが建ち並ぶ。 

D 予科練生宿舎

  滑走路周辺の学校体育館、民家の離れなどを利用。

E 朝鮮人宿舎

  滑走路周辺の集落近くの神社、寺、バラックなど
 正明寺の地下工場周辺の集落の離れ。
 戦争以前からの渡航者と強制連行で連れてこられた人たちの二グループあったらしい。

  施設の工事に2000名程の労働者・軍人・予科練生が集まっていたのではないかと言われる。

 終戦後、田畑の復旧工事が始まる。その苦労を現地の人たちは耕地復旧碑に記した(1948年4月1日付 福知山市長名で)。


4.掩体壕の保存運動について

a 掩体壕がとりこわされる!

 05年11月、石原飛行場のコンクリート製の通称 掩体壕(搭乗員待機所)が圃場整備事業に伴って取り壊されるという情報を市会議員から伝え聞く。平和委員会と「掘り起こす会」で打ち合わせの会議をもち、「掩体壕を保存する会」事務局を構成。事務局メンバーで掩体壕の地主さん(田中修さん)を訪ね意向を伺う。修さんは「残したかったけど、整備事業組合の話し合いの中で取り壊さざる得なくなったので、取り壊しを了解した。」と語った。さらに、地元(土地区)で整備事業組合の副委員長をしている田中正美さん(平和運動に理解があり、様々な運動を通してメンバーとは以前からの知り合い)に経過を伺うとともに今後の運動の方向性を相談する。「長い話し合いの経過の中で取り壊しを決めたので現状保存は無理。しかし、移転をして保存する方向なら可能ではないか。」とのこと。

b 地域住民との協同で保存運動を

  この後、移転保存の方向で運動を進めていく。その後、市教委生涯学習課へ保存するよう申し入れ。こちらは全体保存を主張。何回かの折衝で「部分保存」の方向で双方が合意。地主の修さんに経過を報告し、部分保存の方向で話を進めていくことを了解していただく。6月の事務局会議で署名運動の方針を固める。地元の意向を尊重する意味からも、呼びかけ人に地元の有力者に賛同してもらうよう依頼する。修さんや正美さんの話の中で保存に好意的な意見を持つ方々を訪問。その結果、地主の田中修さん、整備組合の副委員長の田中正美さんはもちろん地元土地区の自治会長さん、該当小学校区の公民館長の大槻恒彦さん、福知山の郷土史を研究している史談会の会長で元私学の校長、地元出身の元校長など8人の方に呼びかけ人になっていただいた。同時にマスコミにも取材を依頼しテレビ局も興味を示した。7月から8月にかけて会のメンバーと平和委員会の協力も得て地元、土・石原地域を一軒一軒、署名依頼にまわった(最終900筆余)。署名運動のなかで少なからぬ方から「一度決まったことをひっくり返すのか?」と問われ、丁寧に経過を説明して理解していただくこともあった。また、当時の新たな証言を得ることもできた。9割方賛同いただいたが、地元の有力者が賛同人に名を連ねていたことと、私が地元の中学校の教師であることは思ったより大きな効果を見せた。

c 保存に向けて市と交渉

  集めた署名を8月はじめ市に提出、8月末に人権推進室に再度申し入れ。そこで、次回は教委・整備事業組合・推進室の三課と話し合うことが確認される。その後11月まで主旨の理解、保存方法などを巡り三課と交渉を繰り返し、11月に入り口80pほどを残し、日新コミセンに保存することで合意する。市の地元の意向で行うという建前をとりたいという意向を受け、呼びかけ人にもなっていただいた公民館長の大槻恒彦さんに市の方に保存の要請をしていただくよう依頼。快く引き受けていただく。本年1月工事にかかる。地元マスコミも保存問題を大きく取り扱った。テレビ局も夕方のニュースで取り扱った。

d 設置のあり方をめぐって

  3月には大槻恒彦さんを講師に依頼し、コミセン周辺にある貯蔵庫として使われていた隧道跡のフィールドワークを「掘り起こす会」主催で開催、マスコミも数社取材に来ていた。残されたのは展示のやり方である。フィールドワークを行った翌日人権推進室と話し合いを持ったが、人権推進室は、金がない、安全性の問題、を理由に山側に斜めに立てかけることを主張。保存する会の事務局メンバーと公民館の大槻恒彦さんはこの案に反対し、多少金がかかろうと直立させないともとの様子が分かりにくいと主張した。とりあえず、直立させるにはどのくらいの予算が必要なのか試算してから次の話し合いを持とうということでその場を終えた。

e 遺跡の設置へ

新年度に入り、市役所からは何の連絡もなかった。こちらも忙しさにまぎれて連絡をとらずにいた。そんな7月のある日、新聞に「掩体壕の一部を移設」の記事がのった。読んでみると大槻恒彦さんが中心となって設置をしたとのこと。さっそく恒彦さんに電話をしてお礼を言い、今後また協力しあいながら運動を進めていくことを約束した。7月31日(火)市教委がここに掲示板を設置。これを機会に新聞社が数社取材に来る。大槻恒彦さんも一緒に取材に応じ、地元の公民館の冊子にこの掩体壕の遺跡を表紙に載せ、それに関わる記事を載せて発行するつもりだと語った。


5.今後の展望

 これまで蓄積してきた内容を整理し、新たな証言を得、広く市民的にアピールする意味でも、できれば市の主催でシンポジュームを開きたいと思っている。コミセンの取り組みにも噛んでいく中で、さらに運動の輪を広げていきたい。運動の広がりの中で往時を撮影した写真も発見されている。また、市の観光事業のメインに福知山城とならんで「海軍福知山航空基地」をすえさせ、もう一つの戦争遺跡「司令所」の保存運動に早くから取り組みたい。

(写真4枚は省略)
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