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季刊「ひろば・京都の教育」第152号


早川幸生の京都歴史教材たまて箱(52)

鐘(人々に時とおもいを響かせて)

           早川 幸生

 ひろば 京都の教育」152号では、本文の他に写真が掲載されていますが、本ホームページでは割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」152号をごらんください。


――お寺の鐘がゴーン――

 いつの時代もそうですが、子ども達が集まると遊びや追いかけ合いが始まります。僕の頃もそうでした。友だちとしゃべっていたりいすに座っている人を見つけては後ろから 「お寺の鐘がゴーン」 と言って、頭をたたいて逃げるのでした。その後はいつもお決まりのコース。クラス中での追いかけ合いっこが始まるのでした。

 今はどうでしょう。どこの学校でも、地域でも、こんな遊びは見たことがありません。生活の変化でしょうか。今から五十年前頃の京都では、お寺の鐘の音をよく耳にしました。特に夕方はよく耳にした記憶があります。高い建物や、コンクリートの建物が多くなかったからでしょうか。夕方鳴り響く鐘の音におわれるように慌てて、家に帰ったものです。

 高校時代、山科に引っ越してみると、すぐ家の北側が、お寺でした。今までと違って、すぐそばで聞く一日二回の鐘の音は、新鮮で迫力のあるものでした。が、一人一人撞き方に特徴があり、「あっ、今日はおばあちゃんかな」と窓からのぞくと、和服姿の老僧の奥様の姿が見えるというくらい、強さや音色が違ったものでした。

 そして、元々農家が多かった村人にとって、家から離れた山田での農作業等の際、正に時を告げる鐘は生活の指針だったそうです。昼を告げる正午と夕方の鐘は、農作業の区切りや帰宅を促す、かけがえのない手段だったことでしょう。

「夕焼けこやけで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る。お手てつないで皆かえろう。カラスといっしょにかえりましょう」

 童謡そのままの生活と風景が、ほんの四十年くらい前まで見られたものでした。


――みおつくしの鐘――

 東山区知恩院の大釣鐘は、毎年大晦日の「行く年来る年」のテレビの画面に、必ず登場します。二十人近くの僧が枝綱を持ち、中心に位置する撞木を一人の僧が鐘つき堂の木の土台を、背を地面に向けて思いっきり蹴って、まるで水平にとぶロケットのように飛び出して打つ姿は印象的です。そして撞木の二度当たりを防ぐためにも二十人近い枝綱を持った僧が、はね返った撞木がもう一度当たるのを、息を合わせて止めるのです。それは見事なチームワークです。

 そんな鐘つきをたった一人でやってのける僧を間近に見たことが何回かありました。それは、今から五十年ほど前、母達(今の少年補導やPTAか)と週一回くらい、「みおつくしの鐘」を鳴らしに、知恩院の鐘つき堂まで来ていたのです。 「なんで鐘鳴らしに行くの」 「もう夜遅いし、早よ家に帰りましょと、知恩院さんの鐘鳴らして教えてあげてんの」 とのことでした。

 そのまま五十年が経ちました。「鐘」のシリーズで「みおつくしの鐘」のことを書こうと考えていたので、資料を揃えてみました。が、肝心の「みおつくし」の意味を知らないことに気がつきました。広辞苑で調べてみると、「みお・つ・くし(澪の串)の意。みお澪とはみ水お緒の意で、河・海の中で、船の通行に適する底深い水路を言い、みおつくし澪標とは、通行する船に澪を知らせるために立てた杭。歌で多く『身をつくし』にかけていう」と書かれており、図も載せられていました。

 きっと母も、本当の意味は知らなかったと思います。でも、きっと「非行防止」とか当時「不良にならへんように」という趣旨くらいの理解だったことでしょう。週一回、週末の夜、十時だったと思います。毎週、真っ暗な黒門から境内に入り、鐘をついてもらう僧を大庫裡に迎えに行って、二十人くらいで鐘つき堂に向かったのでした。今考えると、母の自分の息子に対する願いや思いが、多分にあったように思えてなりません。

 知恩院鐘(一六三六年)、方広寺鐘(一六一四年)そして奈良東大寺鐘(七五二年)の三鐘は、重量約二五〜三六トンで、三大ぼんしょう梵鐘と呼ばれています。京都・奈良に存在しています。

 中国で楽器として生まれ、朝鮮半島や日本に伝わり朝鮮鐘や日本の梵鐘となりました。日本に伝えられたのは七世紀ころで、京都妙心寺にある鐘が六九四年に福岡県糟屋郡で鋳造されたことが、鐘の内側にしるされており、今ある銘の入った鐘の中で一番古い物とされています。


――歴史学習に登場する鐘――

 それは、東山区にある国立博物館の北側に位置する方広寺の釣り鐘です。この鐘は歴史学習では「国家安康の鐘」と呼ばれています。その由縁は、秀吉が母を弔うために、奈良の東大寺にならって建てたもので、そのためのクギやカスガイ等が大量に必要とのことが「刀狩り」の一つの名目になったとも言われています。

 方広寺は、高さ一九メートルもある木製大仏と巨大な大仏殿を中心にした大寺院でしたが、地震や火事でなくなってしまいました。(京都大仏とも呼ばれています)  秀吉の死後、家康のすすめもあって、秀頼は一六一四年に再興し、金銅製の大仏も作りました。ところが、寺の鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」という八文字に家康が言いがかりをつけました。「家康」の文字を二つに切り、豊臣の世にもどそうとする意味ではないか。「けしからん」と次々と難題をもちかけ、大阪冬の陣・夏の陣のきっかけとなって豊臣氏は滅亡したのです。再建された大仏殿などは一六六二年、地震でこわれ金銅製の大仏は鋳直されて寛永通宝となり、江戸時代に長い間流通しました。

 また高瀬川は、方広寺建設のため、舟運で建材や石垣の大岩を運ぶように開削された人工河川で、最初は七条通周辺までしか通っていませんでした。京都の中心、二条通の今の「一の舟入」まで高瀬川を北へ伸ばしたのは、当時の豪商であった角倉了以が、秀吉の子、秀頼から高瀬川の開削権を譲り受け開いたのです。


――消えたつり鐘――

 山科の山階小学校で、歴史学習や地域学習また総合学習として、山科本願寺や土塁そして山科本願寺の開祖である蓮如について調べていた時のことです。当時の学校長が 「学生の頃、山科へフィールドワークに来た時、山科には高い建物が無くて、山科駅のプラットホームから蓮如さんの銅像が見えたのを覚えている。とにかく大きくて目立っていたからなあ。肩から上、頭がグンと屋根の上に出て、すぐに別院の場所がわかったから」 との話に驚きました。そんな大きな蓮如さんの銅像が建っていた場所捜しが始まりました。

 山階校の北、蓮如の墓所の北東にその場所はありました。資料の写真(略)が、そこに現在も残る高さ約五メートルの石の台座です。九十人近い一行がワイワイガヤガヤしているので、すぐ西隣りの方が家から出て来られました。見学の主旨を告げると 「ちょっと待っててや。エエモン見せたげる」 「先生、これを子どもさんに見せてあげて下さい。蓮如さんの戦前の写真です。そら、もう大きゅうて、大きゅうて」

 家から持って来て下さったのが資料の写真でした。話では聞いていたものの、十メートルを越すその大きさを目の前にし、びっくりしました。

  「なくなった時は、そら、さみしゅうてさみしゅうて。蓮如さんも、てっぽ玉になって戦争に行かはったて、みんなゆうてましたわ」 「他の村では、村のお寺の鐘まで供出したて言うてました。毎日のお寺の鐘が聞けんのも、さみしいもんやゆうてましたな」

 不思議そうな顔をして聞いていた子ども達から、質問が出ました。 「てっぽ玉になって戦争に行かはったて何」 「それはな、太平洋戦争になって戦火が激しくなってくると、飛行機や大砲、軍艦を造るために、家庭にある釜やお寺のつり鐘や銅像まで供出することが、軍から求められたことがあったんやて。大事な宝物や文化財もな」 「へえ、何か信じられへんけど、ひどい話やな」 

 思わぬところで平和学習に発展した社会見学でした。


――迎え鐘・送り鐘――

 「冥土に届く迎鐘」とは、松原通東大路西入ル六原ちん珍のうじ皇寺の鐘です。このお寺は、「一年を三日で暮らす寺」と呼ばれ、八月の八日から十日までの三日間「六道さん詣り」の人波で大混雑するのです。お盆の精霊迎え(亡くなった人の霊を家に迎える)の行事です。

 参詣の人は、こうや高野まき槙を買い、戒名や法名の書かれたすい水とうば塔婆をお地蔵さんの前におさめます。そして、買った槙の葉で「水向け」をするのです。そして必ず、鐘楼の鐘を鳴らします。

 鐘楼の鐘は、ふつう撞木を打ちつけて鳴らすものですが、珍皇寺の鐘は鐘楼の壁から出ている引き綱を引いて鳴らします。手前に迎え入れるように鳴らすため「珍皇寺の迎え鐘」と言われています。この鐘は十万億土のはてまでひびき渡り、冥土の精霊を招きよせると言われています。綱を引く多くの人が、故人の名を呼びながら引くのはこのためです。

 また、このような言い伝えがあります。この寺を開いた僧慶俊が、鐘を作りましたが、遣唐使に従って唐(中国)に行くことになったので、その鐘を土中に埋め、三年間は掘り出さないように言いつけ唐に渡りました。ところが、待ちきれなくなった僧たちは、二年目に掘り出し、鐘楼にかけ打ち鳴らしました。唐でその鐘の音を聞いた慶俊は、「三年間土中に埋めておけば、人が撞かなくてもひとりでに鳴るはずの霊鐘だったのに、惜しいことをした」と言ってなげいたというものです。

 はるか唐までとどく鐘なら、冥土へもとどくという信仰はこのように生まれたようです。

 迎え鐘に対し、「送り鐘」と呼ばれているのは、寺町通三条上ルの矢田地蔵さん(矢田寺)の本堂のひさしに掲げられた銅鐘です。死者の霊を迷わず冥土へ送るために、家族・知人が亡くなった時や、お盆の精霊を送る時に撞く鐘として信仰されています。矢田地蔵の送り鐘は、一年を通じて多くの参拝者に撞かれています。矢田寺の旧鐘は応安五年(一三七二)の在銘であったそうですが、戦争中の金属回収によって供出され、現在のは昭和四十八年の鋳造です。


――異国の鐘――

 右京区花園の妙心寺の中にある春光院に、鐘の表に1577の西暦とIHS(イエズス会の紋章)が刻まれた鐘があります。この鐘も太平洋戦争の時に軍から供出を求められました。

 当時は朝鮮伝来の鐘と考えられていましたが、その時の住職は、刻まれていた銘から初期のキリスト教布教のため来日した鐘と考え、地中に埋め、供出から守ったという話が伝えられています。そしてこの鐘が、京都の四条姥柳町に建てられた日本最初の南蛮寺の釣り鐘(重要文化財・桃山時代)と考えられています。勇気ある判断と行動のおかげですね。

 もう一つは、左京一乗寺にある北山別院の、写真の釣り鐘です。修学院小学校の児童が「チューリップの鐘」と呼んでいた鐘を見に行くと、韓国の風水を表す印がついていました。当時、京大の客員研究員だった韓国人の保護者の方に見ていただくと、 「先生、これは中国の鐘です。でも何故中国の鐘があるのでしょう」 と話されました。明治三十四年の説明文には、大阪の御花講が清より購入した旨が書かれていました。鐘一つ一つが、それぞれの歴史を秘めているのを実感しました。捜せばまだまだありそうですね。

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