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特集1 教育再生会議で学校・教育は良くなるのか
−現場からの提言−


各論 懲罰と「徳育」で子どもの心を支配させてはならない


       
松岡 寛(京都市教職員組合教文部長)


 本稿では「教育再生会議」の第1次報告・第2次報告(以下「報告」と記す、)につい て、いわゆる「いじめ」問題への対応について、及び「徳育」の問題にしぼって、今後危 惧される問題について述べたい。

「いじめ」問題にかかわって

  「再生会議」1次報告は、「2.学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする」 との項目で、「いじめている子供」に「厳しく対処」「毅然たる指導」「校則違反として厳 しく対処する」「警察との連携も視野に入れながら」「個別指導や別室での教育なども行う」 「社会奉仕等の体験を採り入れる」「出席停止制度を活用する」などの対策を列挙してい る。一見して気づくことは、子どもたちを「いじめる子」と「いじめられる子」とに、き わめて皮相的に分類した上で、「いじめる子」は悪い子であって、懲罰をもって厳しく指 導すれば悔い改めるだろう、という、あまりに薄っぺらな子ども観・人間観に満ちている、 ということである。

  少し古い調査だが、1994年12月から翌年1月にかけて、当時の文部省の協力者会 議が、全国の小・中・高校の子ども・保護者・教職員の合計約2万人を対象に行った、「児童生徒のいじめ等に関するアンケート調査」の結果分析に次のような記述が見られる。 「今いじめている者で、『最近いじめられた』と『今いじめられている』と答えた者を あわせると、4割〜6割5分に上っている。このことから、いじめる側、いじめられる 側の立場が比較的容易に入れ替わることがうかがわれる。」

 私たち教職員の実感とも一致するところである。10数年前にすでに文科省も明らかにし ている知見が、「再生会議」に全く反映されていない。否、意図的に伏せているとしか思 えない。

 また、「問題行動」を起こした子どものうち、少なくない子どもたちが、ADHDやア スペルガー症候群などの発達障害を持っている、との調査がある。このことに関しては「報 告」も、「問題行動の背景に十分注意する必要がある」と但し書きをつけている。しかし 発達障害があってまわりの子どもに暴力を振るってしまう子どもに対して、「いじめられ る子」の親が「その子を出席停止にしてください」と要求してきたとしたら、学校はどう 対処するのか。こういった懲罰が用意されているだけでも、子ども・親・教師の間に深刻 な分断と不信をもたらすことを、指摘せざるを得ない。

 さらに、1次報告「6.教育委員会のあり方そのものを抜本的に問い直す」の項で、「教 育委員会は、いじめを放置、助長したり、いじめに荷担したりした教員に対して…減給な どの目に見える措置を講じ…」と記していることも見逃せない。京都市教委も「処分に関 する指針」に「いじめを把握しているにもかかわらず、これを放置した教職員は、最も重 い処分を免職とし、最も軽い処分を戒告とする」との規定を付加している。京都市の学校 現場においては、多くの教職員によって、子どもの思い、本当の悩みや問題行動に至った 原因によりそって、子ども自身の気づきや反省を引き出す指導が積み重ねられてきており、 「報告」についても批判的な見方が主流である。しかし目先の子どもの困難さに振り回さ れ、管理職・教育行政からの「教員評価」や「指導力不足」による攻撃にさらされ、さら には処分で脅されている下では、一見「即効性」のある「毅然たる指導」に頼ってしまう 危険があることは否定できない。


「徳育」にかかわって

 2次報告は「2.心と身体〜調和の取れた人間形成を目指す」の項で「徳育、を教科化 し、現在の『道徳の時間』よりも指導内容、教材を充実させる」「点数での評価はしない」 「多様な教科書と副教材を機能に応じて使う」などと述べている。これには学校現場はも とより、マスコミからも「教科にすれば文部科学省による統制が強まり、微妙な価値観を 含む道徳教育が硬直し、画一化する懸念がある」(日本経済新聞)、「これまでの道徳教育 で成果が挙がらない理由について分析がないまま、『徳育』へ転換するのは説得力がない」 (信濃毎日新聞)など、多くの疑問の声が上がっている。

 従来の「道徳」より大きく踏み込んでいるのは、「教科書」と記述している点である。「道 徳」では、各市町村などで独自の副教材が作成され学校で使用されており、文科省が作成 した「心のノート」も画一的な使用が義務づけられている訳ではない。しかし、「多様」 とあっても「教科書」となれば、使用義務が何らかの形で生じてくる。ここにも統制が強 まる危険がある。

  「報告」は「ふるさと、世界の偉人伝や古典などを通じ…」と内容にも踏み込んでいる。 教育関連三法の参議院の審議の中で伊吹文科相は、「ワシントンや二宮尊徳はこういう行 動をしたとかを教える」と例示し、共産党の井上参議から「ワシントンや二宮尊徳は戦前 の3年生の修身の教科書に両方載っている」と指摘されている。過去の偉人伝であっても、 取り上げ方によっては特定の価値観を子どもに押しつけるおそれがあることは、この点か らも明らかである。

 先日の京都市教組の教研集会でレポート報告したAさん(市内小学校教員)は、発達障 害の子どもを2年間担任し不登校を克服させていった実践報告の中で、「学校というとこ ろは何か聖人君子のような理想の人間像みたいなものがあり、できるだけどの子もそれに 近づけようとしている…理想像に近づけようとすれば子ども一人ひとりは見えてこない」 「今時の子どもたちは周りの評価を過度に意識する。他者の評価に支配されず、自分が本 当に感じたり思ったりしたことを受容し、それを主張したり、それに従って生きるという、 きわめて人間的な願いを取り戻させることをまず考えるべきではないか」と記している。 重要な指摘である。

  「報告」や安倍首相が再三述べる「規範意識」は、この「理想像」と同義語であること は言うまでもない。「毅然たる指導」と「徳育」による価値観の注入は、周囲の評価、と りわけ教師の評価を過度に意識しそれに合わせた行動をとることを、子どもに求めていく ことにつながる。三浦朱門氏がかつて教委課程審議会の会長を務めていた時に「非才、無 才はただ実直な精神だけを養ってくれればいい」と述べたことが想起される。

 今後、「再生会議」の報告が、さまざまな形で具体化され、学校に押しつけられてくる ことが予想される。すべての子どもの幸福追求の権利を保障した日本国憲法を生かす教育、 真にすべての子どもを主人公にした教育実践、子ども・父母参加の開かれた学校づくりを すすめていくことが、今ほど私たち教職員に求められている時はない。

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