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平和教育【13】

政府にだまされる日本人を
再びつくってはならない


                
藤原 ひろこ
(名もなく貧しく心美しい年よりたちの語らいの会)


名もなく貧しく心美しく

 人生七〇年も八〇年も暮らしてきますと、「以前は教師だった」「元は社長の椅子に座っていた」「組合幹部」「専業主婦」などなど。昔の身分や肩書きは、もう一切いりません。人間は皆、対等平等。上も下もありません。

 会長(八七才)、事務局長(八〇才)。実行委員三〇人。その平均年令七五才。これが「名もなく 貧しく 心美しい 年よりたちの語らいの会」の構成です。「名もなく」ですから、"先生"と言われる人と、言う人を作らない。お互いにためらう事なくさんづけで呼び合います。

 小泉純一郎さんや安倍晋三さんより「貧しく」、みんなその日暮らしの年金生活者。しかし、言う事と、する事にウソや矛盾はなく、「心美しい」です。ただし、顔には責任を持ちません。

 年よりは、ひとりぼっちではありません。「年よりたち」と複数なのです。「語らいの会」とは――。どうも年よりの話は、「長い!ダサイ!ええかげんにせい!」と若者に嫌われがちです。「お話、おもしろかったわ。また来てね」と、子どもたちに喜んでもらうには、どう語ればよいのか――。これは大きな課題であり、目標でもあります。私たちは、残り少なくなってきた戦争体験者。過去の戦争を「アジア解放の戦争だった」などと、DVDまで使った戦争賛美の教育を学校に持ち込む今日の動きを、決して許してはなりません。

 「あの戦争で私は・・・」「その時日本人は・・・」と真実を訴え続ける役目を果たしてこそ長生きの甲斐があるでしょう。そのためには曇りのない眼を見開き、正確な分析のもとに「なぜ戦争がおこったのか」「誰がしかけたのか」を語る必要があります。

 「語らいの会」では、再び国民が、日本政府にだまされないための学習と実践に力をつくしたいと念じております。

 「名もなく 貧しく 心美しい 年よりたちの語らいの会」は、男女を問わず、国籍を問わず、在日朝鮮人の方々ともご一緒です。

 みんなで「遠慮は無用。配慮は必要」と曲がる腰を伸ばし伸ばしがんばっています。私は、嘗て京都教育センターが打ち出した教育の三原則「科学的認識、集団主義、全面発たち」の教育は、年よりたちにも当てはまる指針であり、常にこれに照らした運動と総括を大切に積み上げねばと願っています。


憲法に見放された人がとなりに

  「会」は現在、中国「残留」日本人孤児の問題に取り組んでいます。

 ことの発端は四年前。中国「残留」孤児国賠訴訟裁判を傍聴したのがきっかけです。

 裁判長や弁護士の話が一区切りすると、すぐ中国語の通訳。孤児の原告が訴えると、日本語で通訳。この繰返しの進行は、倍の時間を要します。この手立てや配慮の取り組みがなければ、傍聴席いっぱいの「孤児」に裁判の中味が理解できないのです。

 人間がこの世で生きるには、自分の好きな所に住み、自分の思う事を言う人間の自由があります。憲法には、これを「基本的人権」として、たとえ国といえども、人間の自由をとりあげたり、罰を加えてはならないとしています。なのに、中国「残留」日本人孤児は、日本帰国後、もう何十年もたつのに日本語がわからないままです。日本語で話せない日本人では、お隣さんから"中国人"と思われ交流がない。日本語ができないため職に就くことができない。これでは、基本的人権が保障されないまま、憲法から見放されています。

 そこで「会」実行委員会では、「私たちに何ができるか」とあれこれ話し合いました。

 跳んだり、走ったりはムリ。力仕事も真尺にあわない。座って、口を動かし声を出すことはできる。「じゃあ、普段着のおつきあいを、日本語で始めては・・・」と決まりました。

 そして、秋田功校長、棚橋啓一教務、あとのみんなは、「自分のできることを積極的に」ということになりました。


にぎやかに日本語の勉強      棚橋啓一

 中国「残留」日本人孤児のみなさんは、敗戦から何十年もたって、やっと祖国日本に永住帰国されたのですが、多くの方々は日本語が不自由です。発音も「年」が「ニェン」「キ」が「キェ」となるなど、むつかしいことがたくさんあります。

 私たちの「会」では、今、この方たちと交流をすすめながら、いっしょに日本語を勉強する集まりを月に二回もっています。

 「残留」孤児のみなさんは、日本政府の政策や処遇があまりに冷たいので、裁判に訴えておられます。それで過去の苦しみや今もっておられる要求を、一人一人が日本語で話せるようになって、周囲の人たちに訴えることができるようになることがだいじだと、最近はその「文」をつくったり、それをうまく話せるように練習をしたりしています。にぎやかに話し合いながらがんばっているところです。

 帰国されたみなさんの人権をだいじにして、みなさんが、日々安心して楽しく生活できるようにすることは、お互いみんなの課題だと思います。

 棚橋さんは、元市教組書記次長、障害児教育に専念。「できない子はいない」「どの子も伸びる」の理念に基づく授業の準備や指導は、「孤児」自らの体験を文章に。そして自ら発表する力を育てました。ひと前で立って話ができる。眼に見える成長、変革の姿に、一同、刺激と確信を頂戴しています。


ひとりひとりを人間として

 一九三二年、日本政府は傀儡政権「満州国」を設立。満蒙開拓団に参加すれば、一人当たり二〇町歩の土地を与えると大宣伝。二〇数万人を中国に送り込みました。農業移民団に集まった人々は、日本の侵略戦争とはつゆ知らず、"新天地開拓"の誘いに胸おどらせ、家も土地も処分し、一家をあげて満州へ満州へと渡ったのです。国家賠償請求訴訟京都原告団長奥山イク子さん(七十四才)は、山形県出身。九才の時、家中そろって満州に意気揚々と渡り住みました。

 日本の国策で入植した開拓団は大陸侵略の最前線を担わされましたが、一九四五年八月九日、日ソ中立条約破棄のソ連侵攻で一瞬のもとに「満州国」は潰れて渦中の人となりました。

 八月九日といえば、長崎原爆投下の日ですが、孤児たちにとっては、日本人であるために大変な苦難が始まる日になったのです。

 父親は戦場で戦死或いは抑留。食べ物は無い。寝るのは山の中や畑。女、子供、年よりの避難行。奥山さんたちは、小銃を持つソ連兵に包囲されたまま一〇日間を過ごし、やがて壁と屋根だけが残る難民収容所に入れられました。草で編んだ筵(むしろ)を拾って布団代わり、捨てられた野菜やトウモロコシを拾って食べました。いつソ連兵に殺されるか、いつ餓死するか、極限状態。命を守ってくれる人は一人もいません。「何とか生き延びて・・・」と、十二才の奥山さんをお母さんは中国人にあずけました。この時がイク子さんの「残留」のはじまりです。

 一九四七年、十四才で二度目の童(トン)養娘(ヤンシー)。(将来、息子の嫁にと女の子を買い取り、成人するまでは下女として働かせる)。売られた先は二十四人の大家族。朝早くから夜遅くまでこき使われ、コウリャンと糠(ぬか)と小麦の皮の飼料、鶏や豚のエサを三年間食べさせられました。

 文化大革命の時は、「日本政府が送り込んだスパイ」の嫌疑で一九六七年から三年間「日本小鬼、罪を認めよ」と連日闘争会議。大声で責め立てられ、これが一九七二年の日中国交回復まで続きました。

 一九九〇年、待ちに待った祖国日本へやっと帰り、「もう差別を受けない暮らしができる」の安堵は束の間、京都地方法務局から「中国人と結婚しているから日本国籍はない。帰化手続きを取れ」と一方的な通告を受けました。

 戦後四十五年もの間、人間の幼年期、そして青春時代を日本政府が奪い、その上国籍まで・・・。

 血も涙もない。文字通り棄民政策です。「日本政府に捨てられた日本人」と断ぜざるをえません。

 中国「残留」日本人孤児のみなさんは、当然日本の年金はかけていません。日本語ができないため就職が困難。七〇%以上の人が生活保護を受けています。お世話になった養父母の墓参りに中国へ行くと、「生活保護は、海外旅行まで認められない」と、その期間の保護費は打ち切りです。なんという事でしょうか。

 さらに、眼を覆いたくなるような日本政府の対応は、一九五九年以降の岸信介総理のとき。

 中国に残された人たちに対する一切の調査を打ち切って、「戦時死亡宣告」を行い、「孤児」たちの戸籍を抹消したのです。中国に残されている人たちは、生きながら死者扱い。

 あきれかえるのは、戸島幸夫さんに行った政府の仕打ち。戸島さんが遺棄されたまま中国で生活しているその時、日本では親戚に遺骨が送りつけられていました。「誰が、どこから私の遺骨を探してきたのか、今日ここにいるのは紛れもなく戸島幸夫です。まだ死んでなんかいません!!」涙なしには聞けない訴え。これはまさしく人権蹂躙です。国の違法性は極めて高いと言わざるを得ません。

 孤児たちは今、全国で訴訟に起ち上がりました。京都は何としても勝利の判決をたたかいとらねばなりません。そのために「会」では、今、何をなすべきかを論議し、世論をまき起こす一助として学習決起集会開催を決めました。テーマは『日本政府に棄てられた日本人』。五月二十八日一二〇人のご参加を戴きました。

 「父は中国に出征。一生を傷痍軍人で終わり、叔父は満蒙開拓青少年義勇軍で満州へ。そして敗戦。家族避難行のさ中に長男を死なせました」と記し丹波町から出席なさった松田愛子さんから感想文が届きました。

 「じかに体験談を聴いたのは初めて。まっすぐに私の胸を打ちました」「奥山さんたちの体験は、国の勝手でなされたこと。人間を大切にしようとしなかった国家の手で闇に葬ることに対し、人間の尊厳をかけて闘うことの尊さがよくわかりました」とカンパまで添えられておりました。


守ろう平和憲法

 日本国政府は、日清戦争、山東出兵、満州事変、上海事変、日中戦争、太平洋戦争と、長期に亘って軍隊を中国大陸に進め、勢力拡張の侵略戦争を繰り返しました。そして、これを「お国のために」「天皇陛下のおんために」と国民を洗脳して戦争に協力させたという歴史があります。これにすっかりゴマ化され、だまされ、しばられ、信じ込む青春時代を生きてきたのが今日の年よりたち。私です。

 しかし今、私たちは「再びだまされる子どもや、ゴマ化される若者を育ててはならない」決意を強く持っています。「名もなく 貧しく 心美しい 年よりたちの語らいの会」は、この想いが、五.二八『日本政府に棄てられた日本人』の集会を目標通り、"立ち見席ができる程の集会"として成功させる底力となり、喜びをわかちあえる結果となったと確信しています。

 憲法前文には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにすること・・・」の決意と、国家の責任を明確にしています。

 しかし、今日の雲行きは、二〇〇〇万人のアジア諸国民が犠牲になった侵略戦争を「自国を守る戦争」「アジア解放の戦争」などと、日本政府は言い出しています。これは、憲法を踏みにじる道。絶対に許すことはできません。

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