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季刊「ひろば・京都の教育」第151号

早川幸生の京都歴史教材たまて箱(51)
瓦――雨・風・火から人とくらしを守りつづけて


       
早川 幸生

          
ひろば 京都の教育」151号では、本文の他に写真が掲載されていますが、本ホームページでは割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」151号をごらんください。


――京の町を空から見れば――「いらか甍の波」 

 二十年ほど前、修学院小学校で勤務していた頃に、PTAの計らいで、消防局のヘリコプターに搭乗する機会がありました。学校の研究で、地域学習をしていたので、校区を上空からビデオやカメラで撮影することになったのです。

 左京区の比叡山の麓から一時間以上車で走り、横大路のヘリポートに着きました。さっそく搭乗し離陸。学校上空まで十数分でした。ヘリコプターの速さに驚いたのと、京都の町の真上から見える、景色の美しさでした。

 まず一面に広がる黒い屋根瓦でした。綿々と連なる瓦の波。所々の目立つ大波は、お寺の本堂の大屋根でした。そしてその周囲に白い泡のように見える墓石も美しく感じました。

 次に目立ったのは、学校のグラウンドです。黒い瓦の波の中に浮かぶ白いタイルのようです。東西南北に、ほぼ真四角に見えました。等間隔とは言えないまでも、ほぼ同じ間隔でつかず離れず位置しており、一目瞭然でした。

 ヘリコプターのあまりの速さに、どこがどこかわからないまま伏見の町がすぎました。東山三十六峰沿いに、北へ比叡山に向かっていることがわかったと同時に、今までの寺院とは比較にならないくらい、南北に長い瓦屋が足下をすぎていくのに気づきました。その間七・八秒。

 「アッ、三十三間堂。まちがいないで、これは。」

 一つポイントが見つかると、次々と場所や建物がわかってきます。遊び場だった東山から左京が、箱庭のように足下をすぎていきます。

 子どもたちが、手をふり走り回る校庭上を二・三回周回し、校区の写真を撮ったのが、きのうのようです。


――瓦屋根は豊かな証・・・鳥羽街道「しころ錏ぶき葺」

 今年は二〇〇七年。秀吉の朝鮮侵略の後、途切れていた日朝関係が、日本側(徳川家康)が謝罪をし、やっと正常化して徳川幕府への祝賀の使節団として、朝鮮通信使が正式に来日したのが一六〇七年。ちょうど四百年前のことです。

 朝鮮から、海舟、川舟を乗り継ぎ、初めて上陸したのが伏見の納所。今も「とうじん唐人がんき雁木」の石碑が建っています。そして江戸へ陸路を歩み始めたのが、鳥羽街道でした。一七一九年に、第九回の通信使(八代将軍吉宗の将軍職祝賀使節)の製述官として来日したしんゆはん申維翰は、日記の中、で歩き始めた江戸時代の鳥羽街道の様子を次のように書き記しています。 「道の両側には、瓦ぶき、茅ぶき、板ぶきなどの家が連なって、絶えることはありません。田畑はよく肥え、作物はたいへんよく実っています。綿花はたいへん美しく、まるで雲のようで、人々はそれを竹の籠につんでいます。・・・」と。 現在も、納所、横大路、下鳥羽小枝橋と続く鳥羽街道沿いには、当時を偲ばせる建物や風景が残されています。写真の建物もその一つです。珍しい民家の錏葺き、奥田邸です。 写真(略)のように、雌瓦の上に円形の雄瓦を伏せ、しっくいでとめた本葺きの大屋根は、寺院建築に見ることができますが、民家では稀少です。しかも大屋根の重量を二つに分散させる錏葺きの形式をとっています。いかに太い柱が必要なことでしょう。それも何本も。 江戸時代から明治の初期まで、鴨川と桂川の合流点付近にあった草津港に陸上げされた西国からの物産や魚等が京の都へと運ばれた問屋運送業繁栄の地だったのです。


――金箔瓦――「先生、ほんまに出てきたで」

 京都の子どもたちにとって、またとりわけ伏見の子どもたちにとって「伏見城」は、大切な地域教材になっています。各学校で作られている地域学習の副読本には、安土桃山時代を代表する教材として、必ず出てきます。紹介します。

 文中の金箔瓦は、安土桃山時代の文化や建築の豪華さを示す物として出てきます。金箔瓦は、安土城から始まって大阪城、聚楽第、伏見城などの安土桃山時代の織田家関連、豊臣家関連の城の屋根を飾り、その後の江戸時代の有力大名の城閣の屋根を飾るようになります。いずれも普通の瓦の上に一度うるし漆を塗り、その上に金箔を貼るという手間の要る高価な物であったことに違いありません。

 その伏見城の金箔は、意外な所で無料でお目にかかることができます。それは、伏見御香宮の社務所です。御香宮の表門は伏見城の大手門が移築された伏見城と縁の深い神社です。以下は、御香宮のある桃山小学校に勤務した親友の話です。六年の歴史学習と地域学習で伏見城を教材にした時のことです。

 「先生僕とこ、昔のお城やったとこやて」

 「それやったら、庭掘ったら金箔瓦が出てくるかもしれんなあ。一回掘ってみたら。」

 教師は軽い冗談で言った一言だったようですが、数日経って、

 「先生、出て来たで。ほんまに瓦出てきたで」と、新聞紙に包んで大事そうに持ってきたのは、うっすらと金の残る金箔瓦でした。

 「おうすごいやん。ほんまに掘ったんかいな」

 「先生、これ僕とこから出たし僕のもんやな」

 それから教師の説得が始まりました。出土物は、公の文化財として個人が持つ物ではないと。初めは渋っていたそうですが、泣く泣く納得し、御香宮の社務所の瓦の陳列棚に並べていただけることになったそうです。機会を見つけてぜひご覧下さい。


――原爆瓦――平和の大切さを伝える証

 地上に倒れた瓦の波を見た人の、話を聞く機会に恵まれたことがあります。それは、原爆投下直後の広島の町で、爆心地から二キロメートル以内で被爆し、奇跡的に死傷を免れた被爆の方々でした。

 修学院小学校と山階南小学校の六年生は、広島への修学旅行前に、当時立命館大学の文学部教授であった永原先生にインタビューをしたり、学校に招くなどして、高校生として朝会をしている真っ最中に被爆した後、お父さんと妹さんを捜されたことや、現在の平和公園の様子などを聞かせていただきました。

 家族を捜す先生の目の前に広がっていたのは、原子爆弾の爆風のため倒れた瓦屋根だったそうです。初めて見る足下の屋根瓦は、どこまでも続く波のようだったと話されました。所々に高低があり、波がうねっているようにも見えたそうです。瓦の波をこえての家族捜しでした。

 担任の一人が、一片の原爆瓦を持ってきたこともあり、子どもたちの原爆瓦への関心がぐんと高まりました。そして実行委員から

 「先生、原爆瓦作りがしたい。瓦が本当に燃えたりするか、実験してみたい」

の声が上がり、その声はどんどん拡がりました。

 広島修学旅行に向けて、子どもたちの調べ学習や、体験学習を大切にしたいと考えていた教師たちにとっても、異論の無いところでした。

 「原爆の熱は二千度以上」とか、「瓦が赤く燃えた」とか言われても、どんな様子か全く予想できない子どもたちには、大切なことでした。

 最初は、理科室での実験でした。ガスバーナーで熱すると、ガラス管は熱くなり、クニャッと曲がった。でも瓦は全然赤くならない。

 「アセチレンガスと酸素ボンベがあったら」 との教師団の願いに、快く応えてくださったのは、当時の育友会長さんでした。地域の伝統産業・飾り仏具の工場見学でお世話になった方でした。さっそく一六〇名の六年生が見学。

 ボボーッ、ボボーッと勢いよくバーナーから炎が出る。瓦は火のあたっている所からオレンジ色になり、赤い部分がひろがっていく。全体が赤くなった時に、育友会長さんはバーナーを切られた。でも瓦はしばらく赤く炎が上がっていた。

 「本当に瓦は燃えるんや」の声が次々と。


瓦人形@小屋根の上のしょうき鍾馗さん

 京都の町なかでは、小屋根の中央に、鍾馗さんを飾ってある家がけっこうあります。雨よけの小さなほこら祠に入っているものや、隣に酒徳利を置いてもらい、毎月おついたち一日にはお酒を供えてもらっているものもあるようです。また向かい合っている家には、特に多く見られたようです。

 この鍾馗さんを飾る風習は、いつごろから、また、何故始められたのでしょうか。

 「街談文々集」に、次のような話がのせられています。そう古い話ではなさそうです。

 「文化二年(一八〇五)の夏の頃。京都は三条の薬屋で家を新築したとき、大屋根に立派な鬼瓦をのせた。すると『向かひの家の女房の女房、此の鬼瓦をひとめ見るより心悪しく、つひに病に臥し、医療手をつくすといえども、さらにしるしなし』それで、医者も困りはて、深草の焼物屋へ、鍾馗像をあつらえて小屋根に飾らせた。(中略)『医者はもとを聞き鍾馗を作り、此の病難を除きしは、古き話より思ひ出してかく。はからひしや。右病気、全快せしは妙なり』」 ということで話は終わっています。

 中国では、鍾馗さんは疫鬼をしりぞける神と言われているのは、唐の玄宗皇帝が、終南山の進士である鍾馗が鬼を退治する夢を見て、たちまちにして病気が治ったという故事からきています。日本でも五月人形として飾られたり、のぼり幟に描かれたりしているのも、中国の故事から由来しています。

 文中の「右病気」とは、新築された家の向かいの奥さんのノイローゼのことのようです。隣人の出世に気をもみ、ノイローゼになるという京女の、表面は静かながらにして本心は負けず嫌いという性格が、端的に語られていることと、京女の嫉妬心からきたノイローゼを治すために生まれた風習に心が和みます。

 また、向かいの家に負ける時には、もっと強い鍾馗にまつりかえられるとのことです。これも京都らしい風習ですね。頼りない京男の身代わりになった鍾馗さんに申し訳ない気持ちで、鍾馗さんがぐんと身近になりました。


瓦人形A朝鮮通信使旗手(旗持ち)像

 瓦人形とは、粘土もしくは瓦用の粘土を使い素焼し、絵の具で着色したもので、全国各地にみられる「土人形」のひとつです。起源は瓦業のかたわらに始められたものが多く、冬期の瓦製造を休む時期の副業としていたもので、中にはそれが本業になったものも。

 写真の瓦人形は、朝鮮人街道が町を貫く、滋賀県近江八幡市に残る朝鮮通信使像の逸品です。作は、「寺本仁兵衛」で、京都の深草の瓦町出身の子孫と伝えられています。伏見城築城に際し、近畿一円の技術も加わり、その後江戸時代には神事用の土器だけでなく、瓦や伏見人形を生産する窯業家が一五〇軒もあったようです。


――「瓦」それはリサイクルの元祖

 たまて箱で何回か登場したように、伏見の羽束師小学校は、京都市内では数少ない長岡京内に位置した小学校でした。学校の建設前の調査で、長岡京左京三条三坊に位置し、重い物を運んだと予想される、ぬかるみに深くくい込んだ輪だちの跡も発見されました。

 淀川・桂川をさかのぼ遡り、長岡京に運ばれた物には、材木、石、塩(素焼の壺に入れて)等に瓦があったそうです。数十年前までは「幻の京・長岡京」と言われ実態がはっきりしない「未完の都」とされてきました。

 中山修一氏により、一九五五年から始められた長岡京市に関する発掘は、一八〇〇回をこえています。長岡京の条坊図が復元され、その図をもとに、大極殿、朝堂院、内裏などの遺構が発見され「幻の都」ではなく、「うつつ現の都」として認識されてきています。

 研究の結果、桓武天皇たちは、平城京に基盤を持つ旧勢力から貴族たちを離し、自らの権力の下に一日も早く結集させるための遷都が必要だったのです。水陸交通の発たちする条件を満たす所として、長岡京が選ばれたようです。経費と労働力を省くために考え実行されたのが、いらなくなった難波宮を解体し、そこで使われていたあらゆる物を再利用することでした。

 淀川の舟運を使うことも加わり、わずか六ヶ月の超スピードで都の中心部を造り上げたと考えられています。長岡京の瓦のうち、大半が、難波京、平城京のものといわれ、割れた瓦は道路の舗装に使うなど徹底したリサイクル都市だったようです。 最後になりましたが、瓦の伝来は、「日本書紀」の五八八年の条に仏教伝来の時に仏教建築の技師や仏師らとともに、百済から四人の瓦博士が来日したとあることを紹介して、おわります。

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