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特集2 つながりの手応えがある学校、授業−−学びの道を拓く つながりの手応えがある学校−学びの道を拓く 佐伯 洋(立命館大学・千代田高等学校) |
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つらいとき悲しいときここへおいで 寺石くんが学校へ突然訪ねてきたとき、僕は職員会議の最中だった。廊下へ出ると寺石くんが立っていた。僕の顔を見ると寺石くんは泣きだした。うっうっと喉で声を押さえて、顔をゆがめて、涙が目からあふれている。(なにかつらいことがあって訪ねてきたんだな)と僕は思った。「よく来たなぁ」と声をかけると、にぎった拳で目のまわりをこすりながらうなずいている。「ごめんけど、いま職員会議でな・・・。待ってられるか」と尋ねると寺石くんは「待ってる」とちいさい声で言った。 二年前に僕の教室から卒業していった寺石くんは、いま中学生活の折り返し点あたりだ。小学校を卒業後、大阪港区を離れて奈良生駒のあたりへ一家転住したと聞いている。弟と妹のいる長男の寺石くんは責任感のつよい生真面目な性格だ。五年、六年と担任した僕は彼の人柄をずっと好きだった。 職員会議が終わると、運動場に出てみたが寺石くんの姿は見えない。思いあたった僕は、寺石くんと過ごした六年生のときの教室へ足を急がせた。予想的中で、寺石くんは教室の椅子に座り机に頬づえをついていた。背中は中学生の背中になっていた。 もう夕暮れもいい時間で、なにか食べに行こうと誘って並んで歩いて商店街の食堂に入った。僕はうどんの上に乗っているカマボコを一枚、ぽんと寺石くんの食べているどんぶりの中に投げこんだ。すると寺石くんはにっと笑って、そのカマボコを口の中にいれてうれしそうに食べた。なにかつらいことがあってやってきたのだろうが、とうとう寺石くんは言わなかった。僕も問いただしたり、聞きだそうとはしなかった。灯りのついた商店街をぬけて地下鉄の方へ歩きながら寺石くんは小学校のときの思い出話をひとつした。「修学旅行の晩、僕らはみんなで見せあいをしたら、タケマサなんかもうチン毛が生えてたけど、僕はまだつるつるで一本も生えてなかったんや」といった話だった。「そうか、いまは生えてるか」と僕が言うと、「そら、あたりまえやんか」と結構あかるい声だった。 改札を入ってから、ふりかえって、ちょっと手をふってホームの階段を昇っていった。訪ねてくるために費やしたと同じほどの二時間近くの道のりを電車を乗り継いで、もう一度もとの現実へと寺石くんは帰っていく。なんだか僕は涙ぐましい気持ちだった。 その後、幾か月かして、寺石くんのご両親が離婚して、妹や弟とも離れて暮らすこととなったことを僕は知った。 あの僕を突然訪ねてきた日の夕方は、寺石くんにとって何だったのだろう。きっと、小学六年生のときの教室の空気を体いっぱいに吸いこんで、家庭がそれなりにうまくいっていた頃の自分をふりかえり、確かめたかったのだ。いまある現実との折り合いをつけるためには、僕の前で泣くことも、彼の胸のうちが必要としたのだ。 「おまえ、よう生まれてきたなあ!」の拍手につつまれて 僕はいま「子どもの未来はあなたとともに−あたらしく教職員になられたあなたへ」という冊子を編集している。新着任の一人ひとりにこの冊子は全大阪府下で手渡される。執筆していただいた二十余人のうちの一人、北村孝子先生(羽曳野市・羽曳が丘小学校)の実践にもつよく心をうたれた。タイトルは「父母は子育てのパートナー おそれずに父母の力をかりましょう」だ。ここに紹介させていただく。
子どもは「大人からの愛着」を胸のうちにたくわえながら、「ほんとうの自分」をつくっていくのだ。 「評価の客体」として、競争のなかで、「良い子仮面」をかぶらなければ見捨てられるのではないか、という心の境地に立たされる子どもが「生きづらさ」を抱えこむ。そうした背景に起因する「少年事件」はいくつもある。北村先生の、僕たち編集部に届けてくださった実践の骨格は、「子どもの存在のうれしさ」だ。その「うれしさ」を父母があらためて自覚する場をつくったのだ。子ども一人ひとりの、かけがえのない存在としての、あたたかさと重みで、父母と教師と子どもがつながり合うのだ。 僕の身近な中学二年生の男の子。この子の名前を仮に"良太"くんとしておこう。良太くんは、中一の秋から学校に行って(行けて)いない。濁った大和川の流れを見ながら、良太くんは死にたいと思う。川を見つめてじっと立ちすくんでいる良太くん。その良太くんの背中にすっと近づいてきた自分の母親の気配にむかって、良太くんはつぶやいた。 良太「ぼく、生きてるねうちあるんやろうか」 母 「・・・だいじょうぶや、良太あんたはいま生きなおしをしているんやから」 良太「生きなおしをするんやったら、いっぺん死ななあかん・・・」 母 「あんたは、ねうちあるんやで」 良太「ねうちって、なんぼぐらい?」 母 「あんたは非売品やから値段はつかんよ」 こんな会話を交わすことのできる母と子。母と子の間を流れる時間は、せわしく忙しい時間ではない。ゆっくりと心のひだに染みこむ。ぬくもりのある時間なのだ。ほんとうの〈生きることの味わい〉とはなにか。相談室で、良太くん、良太くんのお母さんと向きあって、僕は目の奥が熱くなった。そして、早くて効率が良くて、強くて競争に勝ってというがんばれがんばれの風潮に、ふと立ちどまることの大切さを胸の奥におさめた。 ほんとうのことを知る大切さ 人格の発達とは、自分にとっての自分を選びとる、そのくりかえしの過程そのものだと考える。二月末、卒業を前にして、僕との最後の授業で学くんは「将来の夢」を僕に告げて卒業していった。人は、心の中に棲む人(人々)を支えとして、"納得"の自分を探すのだ。
高校を卒業する直前の、最後の授業で、学くんが僕に告げてくれたこと。それは「ほんとうのことを知ることの大切さ」だ。学ぶことを通じて、楽しいこととわかるということの統一が生きるちからの土壌となるのだ。 |
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