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特集1 いじめ問題と子どもの「攻撃性」−−本質を読み解く

いじめ加害者の子どもの葛藤を読みひらく



                       楠 凡之(北九州市立大学)


はじめに

 「小学校のころ、すごく仲のいい子がいました。私たちは『中学校に入ったら一緒に学校に行って、一緒の部活に入ろうね』って約束していました。中学校入学後も私たちはすごく仲が良くて、どこに行くのも一緒でした。だけど、二学期に入った頃、異変が起こりました。その仲の良かったYちゃんが他の友達と私には内緒で手紙のやりとりをするようになったのです。それまではいつも五人で手紙を回していたのに、私には見せてくれなくなりました。そのうち態度にも表すようになり、移動教室に私が一緒に行こうとしても、四人でさっさと行ってしまうようになりました。
 部活中もそうでした。いつも一緒に練習していたのに、突然、話してくれなくなりました。私はすごく寂しくなり、トイレでこっそりさぼって泣いたこともありました。もう本当に何もかもが嫌になりました。
 そんな時、追い打ちをかけるように本当に嫌なことがありました。教室に落ちていたゴミをふと拾ったら、Yちゃんの手紙だったのです。人の手紙を見るのはいけないけど、もし私の悪口が書いてあったらと心配になり、つい見てしまいました。思った通り、手紙には私の悪口がいっぱい書いてあり、その手紙を見ているうちにすごく悲しくなって、泣いてしまいました。 そうしているうちに、今度はSちゃんが外されるようになりました。Sちゃんが外されたかと思うと、今度はMちゃんが外されました。その背景には、Yちゃんが常にグループのリーダーとして、次に誰をはずすかを指図していたように思います。」

   この学生の感想に出てくるいじめは、思春期の女子グループの中で起こる最も典型的なものである。親友だったはずのYちゃんがなぜいじめをするようになったのか、その中で表出している葛藤は何なのか、それを理解することが何よりも重要になってくるのである。


一 いじめ加害者の子どもの抱える葛藤

 「私の両親は私が小五の時に離婚しました。離婚の原因は父親の家庭内暴力です。もちろん、私も別居が始まるまで殴られていました。でも、毎日、必ず一度は殴られるのが当たり前だと思っていて、ある日、一日の終わりに、『あれ、今日は殴られていない』と気づき、妙に不思議に思ったことを記憶しています。

 結局、離婚後、父とは一度も会わず、父は一昨年、他界しました。その報告もやはり、死後数ヶ月後の裁判所からの報告でした。そのせいか、父に対する憎悪などは全くありません。今では父に殴られていた経験よりも、父にもう二度と会えないという事実の方が私にとっては辛いのです。父に会えたらまず何を聞きたいか、それは『離婚後に私のことを思い出したことがある?』ということです。また、母に対しても、『離婚は子どものためと言うけれども、それが本当に私のためになるの?』と何度も言った記憶があります。幼い頃の私は両親の離婚を望んでいなかったのです。父親への憎しみよりも思慕の方が勝っていたのです。

 しかし、今でも目の前の人が頭をかくために手を突然挙げた瞬間に自分がとる反応や、友人が両親の話をする時に感じる激しい動揺は、やはり過去の父との関係が私に影響を及ぼしていると自覚せざるを得ません。

 現実逃避としての空想と、嘘の情報を流して仲間内に対立を持ち込むことは大好きでした。小学校高学年の頃考えていたのはこの類のことばかりでした。自分よりも力の強い男子とけんかをするのも大好きで、相手を負かすことが楽しくて仕方がありませんでした。」


@ 自らの生きづらさや傷つきの攻撃的な表出

 この学生の感想からも示唆されるように、子どもは、自分の抱える傷つきを誰にも理解され、共感してもらえない時、その傷つきを、他者への攻撃性として表出してしまう。先にあげたYちゃんも、おそらくは心の中で自分一人では抱え込みきれない何らかの葛藤を抱き、かつての親友との関係に投げ込んでいたのではないだろうか。現代社会の中で大人が抱える生きづらさや疎外感はしばしば家族の中の弱い他者に向けられて夫婦間暴力や児童虐待の深刻化をもたらしているが、家族の中では被害者の立場に置かれ、傷つきをいっぱい抱えた子どもが学校の中では加害者の立場に立ち、いじめをしている事例はあまりにも多いのである。

A 他者を貶め、支配することを通じて自らのパワーの強迫的な確認をしてしまう。

 加害者の子どもの根底には自己肯定感の脆弱さが存在している。それがゆえに、他者を支配することで自分のパワーを強迫的に確認しようとしてしまうのである。深い自己肯定感を持っている子どもが他者を貶めるいじめを執拗に続けることはあり得ない。しかし、自分の中の弱さや不完全さが受容されることなく、責められ続けてきた子どもの場合、他者の弱さや不完全さを受容することは困難であり、かえって他者の弱さや不完全さを攻撃するいじめを頻繁に行ってしまうのである。言い換えれば、他者の弱さを攻撃するいじめを通して、自分の中の弱さを否認していくのである。   

  実際、中学校のある男子生徒は、小学校時代のいじめられ体験の中での深い傷つきを背負っており、「もう自分は他人からいじめられる弱い人間ではない。他者を支配できる強い人間なんだ」ということを強迫的に確認しようとして、執拗ないじめを繰り返していた。小学校高学年の崩壊した学級の中でいじめられてきた子どもが中学校では「いじめっ子」へと変身することで必死になって自分を守ろうとしていたのである。このようにいじめ加害者の子どもが、以前にはいじめられていた子どもだった場合も少なくないのである。

B 発達のエネルギーを発揮していく生活世界の剥奪

  さらに、いじめを生み出す最も本質的な問題として、子どもたちが発達のエネルギーを発揮していける活動と人間関係を奪われているという問題が存在している。子どもの成長過程にとって必要不可欠な「発達の源泉」となる生活世界が保障されないことが発達のエネルギーの屈折した表出をもたらし、いじめを生み出していくのである。しかも、この「発達のエネルギー」を発揮していく通路を奪われ、その結果、いじめの加害者になっている子どもは、決して先に挙げたような困難な家庭状況に置かれた子どもだけではなく、中流階層も含めた広範囲の子どもたちに及んでいるのである。

 少年期で言えば、同性の仲間集団で徒党を組んで群れ遊びに興じるのは、かつての時代であれば、ごく普通の光景であり、そのなかで仲間集団の中に心理的な居場所を築きつつ、そこを拠点として大人から自立していく「集団的自立」の力が育まれていた。

 しかし、今日、子どもたち同士の「つながり」が弱まり、また、放課後の生活世界までが塾やスポーツ少年団などを通じて大人に管理・統制されていくなかで、子どもたちは「集団的自立」の過程を展開していけなくなっている。その結果、行き場を失った発達のエネルギーは集団で誰かをからかって楽しむ「いじめ遊び」というかたちで頻繁に表出されていくのである。 また、思春期は自分の生き方の指針となってくれる「自己形成モデル」を取り込みつつ、

 また、仲間集団との「つながり」を支えにしながら、大人の価値観を批判し、自分なりの生き方を模索していく時期であるとされている。しかし、今日の競争原理の中で子どもたちはしばしば孤立・分断状況に置かれていく結果、家族の価値観を相対化できず、家族の価値観により深く支配される状態になってしまっていることもいじめの問題に関わっている。たとえば、生徒会役員やスポーツ部活の部長なども務めていて、教師からは「優等生」と思われていた男子生徒たちがおとなしい男子生徒の服を脱がして性的ないじめをしたうえに、それを撮影してインターネットで配信するという、重大な人権侵害行為のいじめをしていた事例も報告されているが、いわゆる教育熱心な家庭の子どもが深刻ないじめをしていく背景には、狭まっていく中流階層のパイの中に入らなければならないという精神的なプレッシャーが、親からの自立の過程を一層困難にし、そこでの抑圧や葛藤が弱い子どもへの深刻ないじめとして現れてきているためであると考えられる。

 このように、子どもたちの発達のエネルギーが今日の生活世界の中で適切な表現の通路を奪われていくとき、一方では他者へのいじめや暴力として表出され、もう一方では心身症や自傷行為として、すなわち、自分の身体へのいじめや暴力として表出される場合が少なくないことは十分に理解されるべきであろう。


二 いじめ問題に対する取組み
           ― 加害・被害の関係性を越えて ―

  いじめとは、子どもたちが他者との「つながり」を切実に求めながらも、子どもたちが生きてきた社会的な関係性の歪みを反映して、しばしば、「支配―被支配の関係」、また、お互いを傷つけあう関係性になってしまっている現実を反映したものなのではないだろうか。

  それだけに、子どもたちが、自らの傷つきや生きづらさを他者へのいじめや暴力として表出してしまう状態を乗り越えて、お互いの生きづらさと弱さを表現し、応答し合うことを通じて、傷づきや生きづらさを他者との「つながり」の契機にしていけるように援助していくことが何よりも重要になってくるのである。

 実際、いじめをしていた子どもが、先生や友人との対話の中で自分が抱えていた生きづらさや葛藤に気づき、それを共感的に受けとめてもらえただけで、いじめから離れることができる場合も少なくないのである。

 また、そのためにも、子どもたちが自分の抱えている弱さや不完全さを否定するのではなく、そのような弱さや不完全さをお互いに表現し合いつつ、そこから支えあう関係性を実践的に創造していくことが、いじめの克服の取組みとしても重要になってくるのである。

 このように、いじめ問題の克服に向けての最終的な課題は、子どもたちがお互いの弱さや不完全さを暴き立てて攻撃し合う関係を乗り越えて、お互いの弱さや不完全さから平和的な関係を築いていくことである。

 すなわち、お互いの弱さをつながりの契機にしていくこと、そこから、個々人をつながれない状態に追い込んでいる今日の社会のあり方そのものを批判的に照射しつつ、身近な人間関係から平和的な社会の創造に参加していくことなのである。このように、お互いの生きづらさを契機にして他者とつながり、平和的に生きる力に転換していく教育の営みこそが、もっとも本質的なところでいじめを克服していくものなのである。

参考文献  楠 凡之 二〇〇二 『いじめと児童虐待の臨床教育学』ミネルヴァ書房
 
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