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早川幸生の 京都歴史教材たまて箱(50)

門前町と寺内町


――訪れる人々の心とお腹を満たせ続けて――


                       早川 幸生

(「ひろば 京都の教育」150号に掲載されている写真・絵図等はネット上では掲載していません)


 今のような様々な娯楽施設やレジャーパークが無い時代は、一年を通して、正月・節分・春秋の彼岸・盆・祭・○○詣りや、○○巡りなどが人々の娯楽であり楽しみであり、また大切な一年の年中行事でした。

 テレビやラジオなどのマスコミや、様々な情報手段が発達していなかった頃から、その日には、町中からまた日本中から人々が訪れました。現在でも「弘法さん」や「天神さん」はまさにそれで、外国の人々の観光スポットにもなっています。

 神社や寺院の門前に、お詣りの人々のための茶店や宿屋、芝居小屋などの娯楽・宿泊施設が集まりできた町が門前町と呼ばれました。

 また、真宗の寺院を中心にある程度の自治を伴い独立した町が寺内町と呼ばれました。

 今では、それぞれの町や町並が歴史遺産であり、そこで売られているいろいろな物が、名物とか郷土玩具として現在に伝わっている貴重な歴史空間です。


○伏見稲荷大社門前(伏見街道)

  京都の人々の初詣のトップクラスに、毎年伏見稲荷があげられます。まして伏見の子ど も達にとっては、なおさらのことです。
「お正月どっか行った。」
「うん行った。おいなりさん。」
「先生、ぼくも行ったで。」 といった具合です。

 今のように車がない時代は、何と言っても京阪電車や国鉄(JR)奈良線でした。昭和四十年代までは、市電の竹田線から京阪電車の線路を横切って伏見街道近くまで引き込み線があり停留所がありました。(今は、その跡は小さな児童公園になっています)

 江戸時代はというと、一つの参拝方法は、高瀬舟を利用する方法でした。そして、もう一つは歩いてでした。資料の図会は江戸時代の初午の様子です。場所は、表参道から西へ出、伏見街道と出会う所です。現在もある「玉屋さん」が図会の中、(右上の店)に見られるのも興味がありますね。昔も今も大賑わいです。           

 今も、京阪伏見稲荷から東へ、伏見街道を横切り、裏参道を通り、本殿、拝殿から楼門をくぐり、表参道から伏見街道へと巡る参詣路は、短距離ながらも、参詣者を十二分に楽しませてくれます。

  「きつねせんべい」「稲荷寿司」「焼すずめ」「伏見人形」「神棚」「蛇の一筆書」どれも思わず立ち止まって見入ってしまったものでした。

 今でこそ、稲荷神社というと、正月のさい銭高や、金儲けの神様として、宝くじや小切手等を納めること等がニュース等で流されていますが、稲荷神社は字の通り、農耕神です。そもそもきつねは、田や畑を荒らすネズミやイタチ・モグラなど農業の害獣を退治してくれる益獣としてあがめられたのです。

  「焼すずめ」も実った稲を食う害鳥として、すずめを捕らえ、食物にし段々と有名になったようです。そして今では、日本の土人形の元祖やルーツとも呼ばれる「伏見人形」も、元来は、収穫した作物を入れる素焼のかわらけを稲荷山から出る土で作ったもの。つまり土製の器が始まりで、少しずつ変化し、形作られ人形になったと言われています。門前の土産物に関する秘話ですね。


○西本願寺門前町

  講師時代に勤務したのは、下京区にある淳風小学校でした。山科駅から東海道線(当時 は国鉄)で京都駅へ。そして、そこからは徒歩でした。毎日コースをかえて行くのが楽しみなくらい、梅小路通、七条通、堀川通、大宮通はもちろん、間の細い通りも、目を楽しませてくれました。古い建物とお店でした。

 クラスに、西本願寺さんから通ってくる子どもさんもいて、毎日目にする町並の業も、京の伝統産業、特に仏具やお寺さんに因んだ物が多いことに気がつきました。京都人の言う「お東(ひがっ)さん」「お西(にっ)さん」の町なのです。

 特に堀川通をはさんで、通称振り袖門をくぐると、「西本願寺門前町」と呼ばれる町並があります。

 東西本願寺に寺内町があることが知られていますが、記録によると「西寺内」は、天正十九年(一五九一)に大阪の天満より京都の六条堀川に本願寺が移転してきた時に、本願寺の境内に、仏具師や絵図師が屋敷を与えられたことが始まりといわれています。

 西寺内町には、一七世紀の終わり頃、人数九九九三人、家数一二〇〇軒の記録があります。また、寺内町は、京都町奉行所とはある程度独立した組織体で、独自の行政を行い、西本願寺の下に町奉行が置かれ、直属として町目付・小頭・書役・廻り方、珍しい役職としては、白砂糖御番所結・太鼓御番所結などがありました。これらの役職は本山の任命でした。

 西寺内の十軒以上の同業者を有する職業は、筆頭はやはり仏具屋で、他に小間物屋・帯屋・魚屋・酒屋・茶屋・油屋・鍛冶屋・ぬし屋・絵屋・大工・青物屋などが挙げられています。

 またそれらの業種のいくつかは、いわゆる株仲間を結成したようで、御一派御免衣屋仲間・書林仲間・仏具屋仲間・鋳物師仲間・ろうそく屋仲間・米屋仲間・湯屋仲間・数珠屋仲間等が知られています。今も、本願寺関係の出版社があることもそれを物語っています。

 堀川通を挟んで西本願寺さんの東側にある味噌味の焼菓子「松風」も門前の味ですね。


○山科本願寺寺内町

 山科の山階南小学校の北東約百メートル余りの所に「オチリ池」(現在は駐車場)があり、そこに山科本願寺跡の石碑が建てられています。戦国時代の山科に突如一大寺内町が現れ、また約五十年後に消滅した歴史を持つことに因んでいます。一四七八年、蓮如(れんにょ)の建立です。

 平成十年頃、赴任当時は、市街地のまん中に、大木が立ち並ぶ小さな森や、大木が転々と直線上に並んだり、L字型に並ぶのが見られたものです。児童の住んでいる町名も、門口町・左義長町・大手先町・様子見町・山階南町等お城かお寺に因んだのではと思える町名が数多く見られます。そこで、地域学習や、総合的学習、歴史学習で、町名や土のマウンド(土塁)について子ども達と調べてみました。また、山科の歴史を考える会や、山科本願寺の土塁を守る市民の会の人々や、研究者を学校に招いたり、発掘現場を学年で訪れ、現地で見学説明会を体験する等の学習を重ねました。

 総合的学習や地域の歴史学習で、山科本願寺を身近に感じた子ども達は、当時の山科本願寺の模型を昨ることになりました。調べたことやお聞きしたことから想像を拡げ、土塁の上に見張小屋や土塁の周囲の堀や濠・川に米や生活用品を運ぶ川船や船頭が出現する等、土塁や堀だけでなく、寺内町の人々の生活ぶりを感じさせる楽しいとりくみになりました。

 その後、地域や有志、研究者の努力が実り、山科中央公園と南殿光照寺の土塁と堀が、文化庁より歴史遺跡として指定され、子ども達と市民国民のために永久に保存されるようになったことはよろこびにたえません。


○知恩院門前町(古門前・新門前)

 幼稚園は古門前通の白川を東に入った華頂幼稚園に、小学校は三条通神宮道を南に入った粟田小学校(現・白川小)に、中学校は祇園石段下の弥栄中学校に通っていた僕は、今考えると、華頂山知恩院門前を十年間、毎日ウロウロしていたことになります。

 友人の住所も、古門前通○○とか新門前通○○とかいう町名の友人が何人もいました。そしてお家の仕事も、古門前通では法衣屋・石屋・湯のし屋・酒屋・炭屋(夏は氷屋)等。新門前通では、東大路に面した所では土産物屋・骨董屋・かつら屋・小料理屋・呉服商等でした。当時に比べると土産物屋は無くなりましたが、その他は四十年以上経った今も数多くの友人やその兄弟が家業を継いでいます。

 知恩院門前町は、華頂山知恩院門前にできた町で、古門前・新門前の二本の東西に走る通に沿ってできた町です。僕たち近所の子ども達が「ちおいんさん」と呼んでいた知恩院は、織田信長によって寺領が安堵された後、豊臣秀吉や徳川家康によっても保護されたようです。特に慶長八年(一六〇三)に寺内門前への諸役免除と守護不入の特権が与えられた頃から、人々が門前に定着したのではないかと考えられています。

 そして、正徳四年(一七一四)には、現在ある松原町・梅本町・中之町・西之町・元町・三吉町・西町(古西町)と石橋町の町名が記されています。今の新門前は、京都の中では骨董の町として有名で、外国からの観光客のため横文字の看板が目立つ町並になっています。


○祇園社門前(西門前・四条通)

 鴨川堤から東山までの、三条・五条間が祇園社領として開発されたのは、平安時代の終わり、長和五年(一〇一六)とされています。また、鎌倉時代のはじめには四条橋の架設もされ、祇園社への参詣道として、四条通が鴨川を渡り東へ延長されていたようです。また、祇園社南門前にあたる今の下河原一帯も開発されたようです。

 室町時代の長禄四年(一四六〇)の記録によると、西門前には、通りに沿って大工・結桶・仏師・鍛冶屋・筆屋・櫛屋・針屋・紺屋・畳屋・米屋・煎餅屋・油屋・茶屋などの職種がみえます。また参詣者めあての土産物屋も軒を並べたことも考えられます。

 門前の更なる発展は、江戸時代の寛文年間(一六六一〜七三)頃といわれ「茶や(屋)はたごや(旅籠屋)にて座しきには客の絶ゆる時なし」という活気の様子が伝えられています。幕末の華洛名所図会もご覧ください。

 そしてもう一枚、明治初期の着色写真の復刻絵葉書をごらんください。場所は「祇園石段下」となっています。ここが西門前なのです。  

 写真の中左側に、高い建物が目立ちますが、これが母校の今の弥栄中学です。明治の学制の発足の時、町会所の建物を転用して各組に小学校ができました。当時は下京第二十四番組小学校(のち第三十三番)と呼ばれました。学校は集会所でもあり、交番や消防署の役割もしていたのです。そのため当時の学校には必ず火見櫓が建てられていたのでした。京都の町特有の「学校火消」といわれた証ですね。


○清水寺門前(清水坂)

 清水坂は、平安時代の延暦十七年(七九四)に建てられた清水寺への参詣道で、東大路松原から山門までの急な坂道で、北側の三年坂(産寧坂・再念坂など)や南側の五条坂ともつながっています。今までのたまて箱で何回か登場した場所で、祇園石段下の弥栄中学からは剣道部のランニングコースで、清水門前、時には境内の音羽の滝まで、三年間で何百回通ったかわからない坂道です。

 清水寺は、室町時代中期から西国三十三ヶ所の十六番札所として多くの参拝者を集めたと考えられています。江戸時代には「清水坂やき餅」とあり、茶店も清水二丁目から四丁目にかけて合計一一一軒もあったことが記録されています。江戸時代に出版された『東海道中膝栗毛』の中にも「両側の茶屋、軒ごとにあふぎたつる田楽の団扇の音、かまびすきまで呼たつる声ごえ『もしなおはいりなされ、茶ちゃあがってお出んかいな。名物なんばうどんあがらんかいな』」と書かれています。

 資料は、一七八六年に刊行された『都名所図会拾遺』の三年坂の図です。坂の側には清水焼の登り窯の煙でしょうか、描かれています。最近では花灯ろうなど、夜もメインスポットになっています。

     
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