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早川幸生の京都歴史教材 たまて箱(49)

堤防
(土手(どて)、堤(つつみ)、畷(なわて)、縄手(なわて))

−−町や村、人とくらしを守り続けて−−

                            早川 幸生

(「ひろば 京都の教育」149号に掲載されている写真・絵図等はネット上では掲載していません)


−土手(どて)−

 中京区の木屋町蛸薬師にあった立誠小学校が新任校だったおかげで、かけがえのない多くの人や物に出会うことができました。中でも、その後の学校、各地域で必ずといってよいほど役立ったのが、江戸時代、明治時代の京都の古地図と、毎回のように「歴史たま手箱」に登場する「都名所図会」です。これらは、学校で出会ったのではなく、地域の郷土研究家だった、おかき屋さんの書斎や、古書籍屋(古本屋)さんの倉庫で見せていただいたのでした。

 江戸時代の地図で気付いたことの一つに、京都の町をぐるりと取り囲む一本の太い実線でした。初めは何を意味するのかも解りませんでした。ある時、折りたたんだ地図を見せてもらおうと拡げてみると、畳(たたみ)一畳(じょう)位にもなりました。大きいだけに、いろいろ細かな説明や書き込みがされ興味深いものでした。

 いつも気になりつつも、何を表しているのか解らなかった、町を囲む、黒い実線を捜しました。ありました。ありました。大きいだけに見事な囲みの太い実線です。実線を指でなぞっていくと、線上に四角い囲みの説明が目に止まりました。それは「是レ土手ナリ」の一文でした。「土手」は土を盛った、マウンド状のもの。そこでやっと、江戸時代の「御土居(おどい)」を意味するものであることがわかりました。

 御土居は、天正十九年(一五九一)に、秀吉が京都の町づくりをすすめるために、京の町を土のマウンドと堀や川ですっぽりと囲いこみ、洛中と洛外を別け、七つの出入口(七口)を設けたのです。今も御土居の北西部鷹峯から衣笠校区にかけて紙屋川が流れています。また、寺町通の東側にあった御土居は、白河上皇が「意のままにならぬもの」の筆頭にあげた鴨川の氾濫をくい止める役割をしたのでしょうか。寺町(東京極)のもう一本東側の南北の通り名が、河原町であることからも「御土居」の目的の一つに、水防・治水があったことがうかがえます。

 ただしどの地図も、黒い実線の東側の囲みが鴨川の西岸に面した上賀茂から七条辺りには無いことも不思議でした。子ども達と調べた結果、角倉了以による高瀬川の開さくをはじめとして、一六一〇年代から「御土居」を越えて京都の町が東へ鴨の河原まで町並が進出し始めたようです。そのため、「御土居」は取り除かれ、その土は堤防や町づくりの埋め立てに使われたそうです。その河原跡に町並が形成されたことから、河原町になったということです。

 特に江戸幕府は、その後「寛文の新堤」(一六六一〜一六七二)と呼ばれる、現在の鴨川両岸に見られ、京都の町を洪水の危険から守り続けている新しい堤防を作ったのでした。鴨川の上流、小枝橋から測量を実施し、上賀茂から五条にいたるまでの両岸に新しい堤を建設したのです。左京の葵橋西側等に見られる一段高い堤は、「寛文の新堤」の名残と呼ばれています。また、資料の写真に見られるように、三条から五条までは堅固な石垣の堤であったことです。大きな橋の下は、二条城の石組とそっくりな石垣を見ることができます。

 その結果、京都の町は、鴨川を越え東へ東へ発展したようです。そして当然新しい町並が誕生したのです。先斗(ぽんと)町(ちょう)の四条から南を西石垣(さいせき)通と呼ぶのも、対岸の宮川町四条下ルを東石垣(とうせき)通と呼ぶのに対応したもので、正に「寛文の新堤」が三条以南で、堅固な石積みであったことを伝える呼称です。

 その他、川端通、縄手通、新河原町(先斗町)等の町並や通り名、町名も、すべて、新堤以後のものであることがわかりました。

 立誠の子ども達の住所であった、中町通は河原町と新堤(土手町)の中間にできた町並であったことや、土手町通は文字通り、新堤添いの町並であったことに由来していることがやっと判明しました。

 その後、洛中と呼ばれる京都の町の範囲もそれまでの「御土居」の内側ではなく、新堤ができてからは、鴨川の西岸までを含めるようになりました。


−堤(つつみ)−

 二つの地図を見比べて下さい。今から四百年以上前の巨(お)椋(ぐら)池(いけ)とその周辺の地図です。天下統一を成しとげた豊臣秀吉は、政治の中心である京都の南の玄関口としての伏見に、城を築くことを計画しました。

 全国の大名に命令を出し、二十五万人もの人と物を集めて城をつくり始めると同時に、城の間近に、宇治川からすぐに舟の出入りができる港もつくりました。

 また、巨椋池の東の方に、今まで巨椋池の中に点在していた「下島」「上島」「槙島」をつなげるように、池の東の方に、堤防をつくらせました。これが「槙島堤」と呼ばれる堤で、向島小学校を宇治川の氾濫から現在も守り続けているものです。この堤防は、今まで南東から巨椋池に流れ込んでいた宇治川の水をすべて城のすぐ近くの港に集めるためのもので、川の流れも今までとは大きく変わりました。

 さらに、宇治川を渡るために豊後橋(今の観月橋あたり)をかけました。そして向島から小倉村まで、後に「太閤堤」と呼ばれる堤を築き、巨椋池を二つに分けました。そしてそこに、伏見からまっすぐ南、奈良に向かう「大和街道」(現在の24号線)ができたのです。


−畷(なわて)−

 この文字に出会ったのは、伏見にある羽束師小学校でした。学校の東側に幅五メートル位の細い土道が、南西から北東に、ほぼ一直線の道でした。「久我畷(なわて)(縄手−土手の上の道)」と呼ばれていました。

 子ども達との調査の結果、この土手の上の道は、長岡京時代が終わり、平安時代になって京の都への最短コースとしての役割を果たしたことがわかりました。資料の地図をご覧下さい。

 当時、淀川筋の最もよい港とされた乙訓(おとくに)郡大山崎にあった山崎の津(港)から、東北の方向、現在の久我橋まで、ほぼ四十五度の傾きを持って道がのびています。これが後に、「久我畷」または「京道」と呼ばれた道で、京の都への陸路の最短コースでした。

 最近の調査の結果、久我畷ができたのは、平安の都ができた直後であっただろうといわれ、幅約五メートルの大切な産業道路だったようです。また、「茶屋の前」という地名が残っていることから、久我畷を通る車や人も多く、旅人相手の茶屋が建っていたことも予想されます。また、昔書かれた本などによると、雨の日などは、水はけが悪く、ひどい泥道になったということです。そんな日には、牛車の車輪が泥道にとられる久我畷よりも、西山よりの、元の長岡京の中心を南北に通る西国街道を通ったことでしょう。人々は、お天気によって道を選んだのかも知れませんね。

 そして、この道が歴史的にも「古道」と呼ばれることを実感できたことがありました。それは「田字草」の発見でした。羽束師小の十周年記念誌として、地域学習用の副読本「羽束師子ども風土記」作成のため、地域のフィールドワークを重ねている時に、自然の分野の植物を担当していた女性教師が見つけたのでした。「この辺りには、万葉の植物の一つ、甘茶づる茶や、水生植物の水わらびや、こう骨(ほね)等珍しい種が残っていますね」と語っていた矢先でした。今の日本では、南西諸島と関東地方の一部しか見られないとのことでした。

 二坪程の場所に生えていた「田字草」も、今は久我畷上にできた住宅街のため、見ることはできません。教材を一つ失った思いです。

 羽束師小へは、当時は横大路の羽束師橋を渡って行っていましたが、その途中のバス停にこんな表示がありました。「八丁畷(はっちょうなわて)」です。最初は、何と読むのかも解りませんでした。

 まずおどろいたのは「横大路」というのは、伏見西部の桂川左岸にある集落の地名だと思っていたのは間違いで、文字通り京都盆地の南部を東西に、真横一文字に貫く古道名だったことです。地図のように、西へは、長岡京の東西街道の中心とされる「綾小路」を通り現在の西国街道へ、また、東へは、巨椋池の北を通り宇治への入り六地蔵へ、現在の奈良街道(宮道だった古北街道)へと続いています。

 また、当時は横大路周辺は、鴨川と桂川の合流点であったり、巨椋池の北西周辺部であったことから、後世の地図にも「横大路沼」となっていることからも、水性植物が生い茂る沼沢の多い低湿地だったことが想像できます。

 湿地の中、真東にのびる人工的に造られた長い畷が続き、人々はその上の道を往来したことでしょう。とても長く、八丁程(約八百メートル)もあるように見えたのでこの名がつけられたことが考えられますね。

 桂川で断ち切られた「横大路」。それを結んでいたのは、「横大路の渡し(舟)」でした。横大路草津町の魚市場跡のすぐ北に、「柳谷」の文字が刻まれた渡し場の碑が残されています。


−縄手(なわて)−

 東山区の祇園石段下にある弥栄(やさか)中学校に通っていました。そしてその中学校の校区の西端が鴨川東岸でした。そこには縄手通りとか、東石垣通りと書いて「とうせき通り」と読むような、鴨川の堤防や護岸に因んだと考えられるような通り名や町名がありました。

 本来は、大和大路通りの延長のはずなのに、何故か、三条と四条の間では、「縄手」と呼ばれているのも不思議でした。僕たち子ども仲間の会話にも「三条縄手」とか「四条縄手」という言葉が使われていました。今でも、三条四条間の縄手通りに、呉服商、古美術商、郵便局、和菓子屋、酒屋、かま鉾屋等を営む友人が点在しています。

 「縄手」という言葉を調べてみると、「土手道」といった意味で、ここがかつての鴨川の堤防であったことがわかります。

 もう一つ興味深いことがあります。それは、四条縄手南側をほんの少し、東入った所にある「目疾(めやみ)地蔵」です。高札の一部を紹介します。

  「正しい寺名は仲源寺(ちゅうげんじ)といい、浄土宗に属する。安貞二年(一二二八)に鴨川が氾濫した時、防鴨(ぼうかも)河使勢(かわしせ)多判官(たのはんがん)為兼(ためかね)が、地蔵菩薩のお告げにより洪水を防ぐことができたので、ここに地蔵尊座像を安置し「雨止(あめやみ)地蔵」と名付けたのが起こりと伝える。
 一説には、雨にふられた人が、ここで雨宿りしたことから「雨止地蔵」とよばれ「雨止」が転じて「目疾(めやみ)」になったともいい、眼病の治療にも霊験があるとの信仰から、目疾地蔵と呼ばれるようになった。 以下省略」

 長雨による鴨川の洪水を心配した人々が、「アメヤミ、アメヤミ、・・・・」と唱えるうちに「メヤミ、メヤミ」にかわったのでしょうか。京都広しと言え、雨乞いのご利益を求めるところは何か所かありますが、雨止みを求める所は、仲源寺さんしか知りません。

 京都名所案内書のはじめとされる「京童」(明暦四年・一六五八)には「目やみの地蔵」として紹介され、図のように座頭と思われる人たちが、お百度を踏んでいます。

 一方、江戸時代の終わりに出版された「花洛名勝図会」(元治元年・一八六四)東山之部では「雨止(あめやみの)地蔵堂(じぞうどう)」として紹介され「眼病の霊験あるに因って、目疾と転語せしもの。実は、雨止の地蔵なり」と記されています。四条商店街のなか、今も参拝の人が絶えません。
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