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特集2 中学生・高校生の進路選択・進路指導−−社会との出会い方

総論 若者たちの生きづらさと希望
      −−社会との出会い方・働き方−−


                             太田 政男 (大東文化大学)


 人間が生きるということは、働くことを大きな軸にしながら、自己の能力を発揮し家族や職場、地域の仲間と交わり、社会に参加していくということです。

 若者たちは、主として同世代の友人たちとの交わりを通じて、仲間を発見し、社会や自然について学習し、自分がしたいことやできることを探し求めて進路を決め、それを切りひらいていきます。

 しかし今、若者たちが進路について考え、働くことを学んでいくのはとても難しい作業になっています。

 まず就職や労働をめぐっての客観的な困難の問題があります。


若者の進路をめぐる不安  −−就職難と不安定就労

 ここ十数年の間に、若者たちの進路、とくに雇用をめぐる状況は急激に変化し、厳しいものになっています。

 第一に、就職することについての困難の問題があります。

 最近、厚生労働省から発表された「高校・中学新卒者の求人・求職状況について」では、就職状況が好転し、例えば高校卒については求人数が26.6%増加し、求人倍率も1.14倍に改善されたといいます。しかし、そのなかみは、東京の4.4倍に対して青森0.17倍、四国0.11倍など極端な地域格差が生じていますし、かなりの不安定就労も含んでいることも予想されています。

 第二に、「ニート」、「フリーター」問題に象徴されるように、失業と不安定就労が増えていることです。

 若者の失業率は、全体平均の約2倍になっていますし、フリーターは、さまざまな定義が可能ですが、厚生労働省の2005年版の『国民生活白書』では417万人と急増しています。

 パート、アルバイト、契約社員、請負など非正規の形態での就労は、低賃金であるばかりでなく、労働者としての基本的な権利も保障されていない場合がほとんどです。

 第三に、それでは正規就労の若者は恵まれているかといえば、決してそうではありません。非正規労働者の存在をいわばテコとして、正規労働者に対しても長時間労働や労働強化、賃金の切り下げが強要され、ワーキングプアーと言われる実態が広がっているのです。

 このことについての最大の争点は、これらの原因が、若者自身にあるのか、社会的な構造や政策の問題にあるのか、という点です。とくに、もともとはイギリスで生まれ、「教育にも、雇用にも、職業訓練にも就いていない」Not in Education,Employment,or Training という、単に若者の状態を示す言葉である「ニート」が、日本では労働意欲や意志がない、ときには「社会的引きこもり」と同義に使われたりします。後に見るように、社会的ひきこもり自体も若者の責任とは言えません。

 これら雇用や就労をめぐる困難の根本的な原因は、グローバリゼーションのもとでの国際的な経済競争を勝ち抜こうとする財界が、雇用政策・慣行を抜本的に変更しようとしたことにあります。1995年に日経連(当時)が出した「新時代の『日本的経営』」の提言は、大量の非正規労働者群を作り出すことを謳っていました。そして、労働法規がつぎつぎと「改正」され、多様な契約形態が可能なように規制緩和されました。

 「新規学卒者定期一括採用」という「学校から仕事への移行」のシステムも大きく変わることになったのでした。

 自分たちの未来、進路をめぐる状況については、小さな子どもたちでも直感的な不安を抱えて生きています。


他者と社会の拒否  −−閉じこもり、引きこもる若者たち

 若者たちが働くことを学ぶうえで、労働や職業についての知識や技術の能力、労働の権利の意識などは重要な内容ですが、それらの土台となり、支えるものとして、社会についての認識と感覚、自分自身についての自信と誇りという問題があります。

 若者にとって、「社会に対する基本的な信頼」と「自尊感情」(自己肯定感)は、生きる土台となるものです。この二者は深く関係し合っています。

 これについては、ざまざまな事実が指摘できますが、青年についての諸調査でも顕著です。「新千年生活と意識に関する調査」(日本青少年研究所、2000年)では、アメリカやフランスの若者と比べて「社会への満足度」が著しく低く、「世界青年意識調査」(第7回、内閣府、2003年)でも、年を追うごとに下がる傾向が指摘されます。今の自分たちをとりまく社会が、人間を大切にする社会ではなく、自分たちを歓迎していると信頼できないのではないかと思います。その結果、生き方としては、社会に背を向けて「自分の人生を楽しむ」「自己実現」志向が強くなります。

 その分、若者たちの意識は「友達」に向かいます。学校生活の目標や生きがいは、友達との交友です。これ自体、否定できないことですが、かならずしも成功しているとは言えないようです。それは、よく言われることですが、日本の若者たちの「自信」や「誇り」といった「自尊感情」の低さです。自尊感情は、仲間を発見し、他者との豊かな交流のなかで認め合ったり頼り合ったりして育まれるものだからです。

 自分も仲間や他者にかかわり、社会に参加できる、そして他者や社会はそれに応えてくれるという関係です。それは学習や労働の意欲や意識の源泉です。

 しかし、若者がそういう認識や感覚を持てないのは、社会も学校も十分に競争的で、従って若者に対して攻撃的だからだと思います。「勝ち組」「負け組」をつくり出す競争や「自己責任」を問う新自由主義的なあり方がその根底にあります。


勤労体験、奉仕活動の強要

 生きづらさのなかで、閉じこもり、引きこもろうとする子ども・若者たちに対して、大人や社会は共感的に理解することができにくくなっています。教育改革国民会議(2000年)のなかでは、今の子どもは豊かさのなかで育って、わがままでひ弱だ、というような子ども論が横行しました。不登校やニートは、怠け者や病気だという議論につながります。

 そこからくる対処は、閉じこもる殻の中から若者を引き出して、厳しい現実に直面させることで「公共性」を鍛えようとすることになります。勤労体験学習や奉仕活動が強制的に導入されることにもなりました。

 「新キャリア教育」のかけ声のもとで、中学校では「キャリア・スタート・ウィーク」、高校では「インターンシップ」が奨励されています。しかし、地域社会や企業・事業体との協力関係をつくるこうしたとりくみは、学校の教育実践の枠組みを越える苦労の多い事業です。しかも、単なる「体験」だけに終わらせることになれば、生徒にとっては苦行になったり息抜きになったりで、生き方や働き方を考えることには結びつきません。さらに、将来、奉仕活動などと結びつくと、精神主義的な勤労観を育てることにもなりかねません。


民衆的な智恵と新しいライフスタイルの創造と結ぶ

 若者たちが生きづらさを乗りこえて、生き方、働き方を考えていくことを励ます課題は、教育課程全体で追究されなければならないでしょう。

 若者たちが「閉じこもり・引きこもり」を自ら開き、他者や社会を発見するためには、学校が若者たちにとっての「居場所」となることが必要です。仲間とともに、自分がそこにいることができるという安心の居場所です。そして、「仲間」とともに何かを成し遂げ(共同)、さらに親しくはない他者を含む「みんな」(公共)とつくる場と空間です。こういう学校生活が教育の環境です。

 「社会に対する信頼」は、そういう生活を土台にして、教科の全体を通じて科学的でヒューマンな社会認識や自然認識が培われることによって育てられるでしょう。

 勤労体験学習やインターンシップなどの体験学習も、そういう教育実践の中に位置づけられることで教育的な意味を持ちうると思います。

 生きた知識を獲得するために、「正統的周辺参加論」(レイブ、ウェンガー)にもとづく参加型共同型学習が注目されていますし、実物教授による労働教育(ペスタロッチ)の再評価も求められます。

 それらの学習で、若者たちが学ぶのは、生きた大人たちの人間としての苦労と智恵からです。そういうなかで得られる「大人もがんばっている」、「社会もまんざらでもない」という発見と、人間としてのつながりの感覚は重要だと思います。

 さらに、地域づくりや仕事づくりなど、地域に存在する民衆的な学問、文化を発見し、「地域の教育力」を組織し、「地域と学校」の関係をつくりなおすことです。そこには新しい働き方、生き方のモデルがあるはずです。

 それを発見し組織するためには、教職員集団の主導性がなければならず、教育の自由がなければならないでしょう。

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