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特集1 性と生を考える−−現代の社会文化といのちの教育

総論 子どもたちがつながる性/死の学び


                             金森 俊朗 (金沢市立西南部小学校)


 人のいのちを少年が奪う度に、いのちの尊厳をもっと教えるべきだと力説されます。その教育の多くは観念的です。人間としての自らの存在の意味を問わないで、プログラムや方法を求めすぎます。大切なのは、教師自身が日々の体験を問い続け、それを言語化して他者との交流によって「人間、いのちを学ぶということを学ぶ」べきでしょう。貫徹すべきは、リアリズムです。


1 私の臨死体験

 二十歳代だった私に、いのちを初めて真剣に考えさせる死にかかわる不幸な事態が次々に起こりました。祖母の死に引き続き、私たち夫婦にはとって初めての子どもが胎内で死にました。引き続き妊娠したが、七ヶ月目で流産。誕生してからわずか三日目に長男は亡くなりました。妻の悲嘆は大変でした。

 働きながらいのちを宿し慈しむことの大変さ、いのち=わが子を授かることの難しさ、いのちには直接かかわれない、祈ることしかできない親の非力さ、その間における喜びと慟哭を体験しました。  その悲しみも癒えぬ間に私は交通事故に遭いました。信号無視の乗用車に側面から衝突され、後少しで内臓破裂で即死の危機でした。全身の骨がきしむような痛さに耐え、眠れない夜に天井を見つめて、「こんなにもある日、突然にいのちが奪い去られるのか。いのち、私という存在、明日という日に確実性がないのだ。としたら、これからの人生をもっと自分のやりたいように充実させなければ」と強く思いました。その時自然に生まれたのは、「いのち」とは「私らしく創る、私らしく生きる人生そのもの」という考えでした。

 その後、ようやく長女、次男が誕生。不幸にしていのち=生を奪われた二人の子がいるから、今の長女と次男が存在しています。いのちをリレーの中で、また、誕生・生と死を不可分のものとして捉える私の考えは、そのような体験から生まれました。


2 希望を育てる学び

 今日、様々な事件を通して子どもたちは、これまでの学校に異議を申し立てています。それは、「私たちがこれから輝いて生きる希望を自分の内と外に見いだせる、本当の楽しい学びを保障してほしい。」ということでしょう。言葉を変えれば、自己肯定(信頼)感や人間の尊厳性、さらに地球的市民として二一世紀を生きる希望を育てる学び=学校とも言えます。これが今日の教育実践課題だと考えます。この課題に応える学びを私は「いのち(存在)輝き=つながり合ってハッピーに」と題して学校の営み全体を貫くものとして位置づけます。

 その第一層にあたる学びが、友や自然とのボディコミュニケーションを中心にした子どもらしい生活の復権=「今を生きる喜び」です。

 第二層は、人は誰しもが奇跡的に誕生した奇跡的な存在者であり、他の生命、環境によって生かされていることを認識する「性」の学びといのち、人生の有限性を認識し、よりよい生の希求を自覚させる「死」の学びです。

 第三層は、二層によって強くなった「生の希求」に応えるよう、過去、現在そして未来をめざして自分らしく働き、生きた(生きている、生きようとしている)人々や彼らが創造した文化(いわゆる教科学習)と出会う学びです。

 第四層は、競争的な学校や家庭崩壊、友人関係から生ずるストレス、悩み、悲しみなどの感情世界を心拓いて共有しあう学びです。


3 輝いて今を生きる充実感を育てる

 始業式の翌日から運動場に飛び出し「Sけん」という遊びを教えます。二つの陣地間でひっぱる、押す、ねじふせる、突っ込む、組み合うという激しい遊びです。翌日からの長休み、昼休みはこの遊びに夢中です。

 梅雨のどしゃぶり、グランドが池のような状態。最も水のたまった所を目がけて叫びながらスライディング。泥水が顔を打つ。泥合戦を楽しんだ後に、どろんこサッカーに興じます。子どもたちが「最高!」と喜びます。

 森の大木でのターザン、川での飛び込み、雪の積もったがけからの滑り落ちなど、太陽、水、雨、雪、土、風の中に浸って自然の鼓動を感じながら、友と激しく交わる活動です。最も子どもらしい、子ども時代にたっぷり経験しておいてほしい典型的な遊びです。

 自然と仲間とのボディコミュニケーションを通して、感性を豊かに育み、他者に開かれた逞しい体と心を鍛え、自然と友と交わる力を強めます。子どもらしい生きる輝きは、四季折々、どんな場所にでも創りだせます。

 この今を大勢の友と共に生きる充実感があってこそ自他のいのちを大切にできるのです。


4 妊婦からいのちを育む喜びを学ぶ

 八十年代の後半、私は本格的に自分と他者のいのち存在を徹底的に大切にすることを教育の主題として取り組むようになります。教え子の自殺や車での暴走死、差別・いじめ、小学生高学年の荒れなどが身近に起き出したからです。苦悩の未に考え出したのが、妊婦と末期ガン患者を招いての「性と死の学び」です。

 三年生の教室に大きなおなかを抱えるようにしてお母さんが登場すると、彼らの好奇心は一挙に高まります。

 「重くないんですか」という問いが自然に出ます。「逆子体操がひどい」と答えれば、「逆子ってなんですか」と尋ねます。「ええっ、なんでや。頭が下にあったら逆さまや。苦しいのに」。弾むような応答による学びを終えた時、周りの子たちが大きなおなかを触らせてもらいました。「うわあ!ぱんぱんやあ」と叫んだ後、「おばちゃん、絶対に元気な赤ちゃん産んでや」と声をかけます。別な子は、おなかを撫でながら「おーい赤ちゃん、聞こえるかあ。元気に出てこいよおー。僕ら応援しているからなあ」と呼びかけています。新しいいのちの胎動は、関わり合う周りの人々の優しさを引き出し育みます。

 その後も交流は続けられ、母子を迎えての手作りの誕生会は最高に盛り上がりました。その間、子どもは、自分の誕生、成長史を家族から聞き取っていました。

 私は、妊婦を招く時、同僚から胎児が死んだり障害をもって誕生したらどうするのだと問われました。どんな事態が起きようがありのままに受け止めればいい。それがいのち誕生の現実ではないか。いのちはあるがままを丸ごと受容するものだと考えました。


5 ガン患者からいのちの尊厳を学ぶ

 四年生になった彼らに出会わせたのが進行性末期ガン患者です。大手術を繰り返しながら病院からホスピス作りの運動を展開していました。病院から教室にきた彼女の死を見つめたいのち・生のメッセージは強烈でした。

 彼女は残されたいのちを、学級での「死の授業」を本にすることに注がれました。最期まで目的をもつ生き方が最良の死を迎えられることを貫き、見せてくれました。

 彼女が子どもや私たち大人に残したものは、主義よりも死に直面した人間が醸し出すいのち・生への尊厳、姿そのものだったと思っています。

 生の始まりと終焉を原風景として刻む、即ち典型的な人物像として心に住まわせることはいのち・生の意味を今後考え続けていく原点を持てたということです。


6 死に近づく心を拓く

 4、5を典型にして様々な実践をします。家族それぞれの胎児時代、誕生、成長史、人生におけるいのちの危機の聞き取りは毎年必ず取り組みます。それを通して、「いのちのリレーは思っていたよりはるかに危機に満ちた細いものであった。私たちは、それぞれ奇跡的で不思議で偉大な存在なんだ」と実感します。

 そうした積み上げの上で、小学校高学年から中学生の性と死の学びに私が最も大切にしているのは、苦悩、悲しみを心拓いて友に語り交流することです。

 弱者が切り捨てられ、暴力化する社会や競争的な学校の中で、自分の内と外に希望を見いだせす、絶望感、孤独感、閉塞感に悩む子も決して少なくないのです。

 子どもたちに「一人の胸にしまい込まないで勇気を出して友に語ろうではないか、友はしっかり受け止めて応えてくれるよ」と呼びかけます。

 真理は深刻な悩みを書いてきました。父母は離婚。受験生の姉は不登校でひどくいじめる。父に相談したいが、倒産寸前で悩んでいるのでこれ以上心配はかけられないとひたすら自分の胸にしまっている。苦しくなって家出、自殺を何度か考えたという内容でした。文の最後を「この悲しみをどう貫いていったらいいのだろうか」と結んでいます。十一年しか生きていない子が、誰にも語れず、自分だけの胸にしまい込んでおかなければならないことほど辛く悲しいことはありません。「書いたらすーっとした」と言って、にっこりと笑い、彼女はようやく自分を開放し、学級に少しずつ語り出します。

 家庭問題以外に多かったのは、学習での悩みと友達関係のものでした。「私はとっても勉強ができない。」「私はいつもいつも、私はバカだと思ってしまう。勉強だけだったら、ちょっとはいいと思ったけど、私は運動もできない。」「勉強も運動もならいごともなんのとりえのない私がだんだん情けなくなった。勉強はもうやめたいと思うようになった。ならいごとだってやめたい!と思った。私はなにもしたくなくなってきた。私はこういう自分がにくくなってきた。」

 自分が憎いという愛弓さんは、「それでも私は努力している。それをわかってほしい。」と締めくくっています。

 この作文を受け、全員が共感し自分の悲しみ、悔しさ、悩みを語りました。それを受け、ずっと泣き続けていた愛弓さんは「私の気持ちがみんなにわかってもらえてとても嬉しい。」と言ってくれました。

 自分の存在意義を見いだせず自己否定観に悩む子どもが仲間を信頼し、自らの心を拓いた時、仲間は自己肯定観を育む力を出し合うことを教えられました。

 あらゆる学びが、今、彼らのいのち輝くことにつながり、しかも、今後の希望を育むことになることを常に考えています。それぞれのいのちは、極めて個別的であるが故に、常に私たちにいのちの個別性と普遍性、重さと深さを問い続けることを要求しているものだと考えています。

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