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早川 幸生 の

京都歴史 たまてばこ(48)
  −−塀(へい)――自然やくらし、歴史を守りつづけて−−


(「ひろば 京都の教育」148号に掲載されている写真・絵図等はネット上では掲載していません)


―板べい―

 京都市東山区にある生家は、旅館に通じる露地(京都ではロウヂ)の一軒でした。玄関を出ると、目の前に、四季の訪れを教えてくれる植木(木蓮・椿・八重桜など)と、その後ろに、露地の入り口から続く板塀でした。露地の入口、三条通に面して、内科・小児科の医院がありました。体が弱く、毎月、扁桃腺の熱が出た僕が、常にお世話になった所です。

 板は杉材で、表面が火で焼かれ黒く焦げています。防腐、防虫の効果もあると言われています。焼杉板と呼ばれ、昭和三・四十年代の和風建築には必ず見られた建材でした。最近、めっきり少なくなりましたが、今回久しぶりに生家前の板塀を、ゆっくり見に行きました。家主さんはお医者さんではなくなっていましたが、建物はそのままで、板塀も外観は昔のままのように見え一瞬感激したのですが、近づいてよく見ると、三種類の板があるのに気が付きました。

 一階部分に張り出した、表通りに近く一番黒く見える板塀が、幼い頃慣れ親しんだものです。その横に続き、二階まではられているのが次の世代の物のようで、薄く写っていて、近づくと余り焼かれていないのが解ります。そして一番手前の塀は、釘もなく、触ってみると、つるつるでした。よく見ると、薄い鋼板に板模様がプリントされた物でした。

 天然材に良い物が減り、また、手間や取り付けが高くつくので、黒い板塀が減って来ているようです。


―舟板べい―


  立誠小学校(中京区木屋町蛸薬師)の東側には、高瀬川が流れています。商店街のまん中で生活する子ども達には、かけがえのない自然そのものであり、同時に格好の遊び場でした。理科の川の学習や、社会科の高瀬川・高瀬舟の学習以外に「川の清掃」とか銘打って、体操服でよく入ったものでした。夏のホタルの鑑賞や、灯篭流しは、特にみんな大好きでした。

 灯篭流しのために、川の清掃に入った時の事でした。蛸薬師通をはさんで、学校のすぐ北隣の家の川べりを掃除していた子が言いました。 「先生、これ何。クギみたいやけど」 子どもに呼ばれて行ってみると、板塀の所々に平らにのばしたようなクギが、板塀にはさまっているのに気が付きました。

 そこの家は「下間家(しもつまけ)」と呼ばれる古いお家でした。江戸時代に出版された拾遺(しゅうい)都名所図会にも記されています。調べてみると

  『下間家(しもつまのいえ)(本願寺房官にして、東西六条にその家多し。遠祖は摂津守源頼光五代の苗・・・』と書かれていました。

 クギについても調べてみました。クギは、舟クギと呼ばれる物で、どうも舟板と舟板とをつなぎとめる物で、板をぬって打ちつけるように使うものでした。子ども達に説明してしばらくすると、和菓子屋さんの看板に高瀬舟の舟板が使われており、その看板に舟クギも付いているという情報が届きました。

 放課後、子どもが教えてくれた所に行って見ました。クギの使い方がよくわかり、何か所か、店の看板やショウウインドウの材料、店内のお品書きの札かけ等に使われていることも知りました。俄然、子ども達も僕も舟板や舟クギが欲しくなったのは言うまでもありません。ついに心配していた事が起こりました。
「先生、これひろた」
「ぼくも。北門のとこに落ちてた」

 北門。北門から蛸薬師通(といってもほんの六メートル程)を挟んで下間家の玄関です。下間家の板塀から失敬したのに違いありません。渋る子ども達を伴い、謝罪に行くと、
「へえー、そんなんついてますか。もうとらんといてね。それあげます。大事にしてね」

 高瀬舟の舟板・舟クギ熱が少し下がり始めた頃、たいへんなニュースが飛び込んできました。それは、下間家の引っ越しでした。それもただの引っ越しではなく、更地にして店ができるとのこと、屋敷の解体です。ショックでした。

 お願いして、教職員は邸宅内を、子ども達は庭や玄関の見学が実現しました。子ども達が一番驚いたのは、高瀬川からの引き水でした。庭では短い川になり、石橋がかかり、青銅製の擬宝珠のついた欄干もたっています。そして、水は、庭からまた高瀬川にもどって行きます。京都の遊び心です。

 思い切って、ご主人にお願いしました。
「地域の学習に舟板を一枚学校にいただけませんか」
「先生、申し訳ないです。全部嫁入り先が・・・」
残念ながら夢は実現しませんでしたが、かえって、想いは深まりました。 「先生、残念やったな」

 子ども達の在学中に、一ノ舟入に、高瀬舟が新造され川に浮かべられたこともあり、高瀬川や高瀬舟への関心が高まりました。三十四人の子ども達と相談し、卒業制作はカラータイルで「高瀬川の舟曳き」を作ることにしました。完成したモザイク画(縦一・五メートル、横四メートル)は、廃校になった今も、講堂前にかけられています。


―土べい(その一)―

 おばあちゃん子だった僕は、知恩院古門前通の「老人いこいの家」や、知恩院の暁天講座(朝のおまいり)に、幼稚園入園前から、小学校中学年位の間、よく祖母と通いました。

 白川橋から、白川沿いに古門前に向かうと、土塀が目立ち始めます。知恩院山内に入るからです。古門前から東を見ると両側に土塀が立ち並んでいました。

 もう一カ所、土塀というと思い出すのは、東大谷から西大谷へ通じる、最近では「ねねの道」と呼ばれる周辺です。東大谷は父方の、母方は西大谷に墓があり、一年に必ず数回(春秋の彼岸と盆暮れ、そして正月に命日)それも家族揃っての墓参りでした。写真のように土塀が並び、寺院や、文ノ助茶屋、大黒さん等が並んでいます。

  その頃は、「東山十福神詣り」と銘打った巡拝が実施され、土塀に色とりどりの幟(のぼり)旗が立ち並び、華やかな雰囲気でした。何回か参加しました。

 各巡拝所では、冬場のことでもあり、必ず昆布茶や、粕汁、甘酒、大根だき等がふるまわれました。巡拝者だけでなく、訪れた人にも必ず接待されるのを知っていた僕は、クラブの時、友達を誘い巡拝者の列に並びました。生活の知恵です。体も心も温もったことは言うまでもありません。

 それ以外には土塀というと、小学生の頃、理科の学習で、「生き物の冬越し」という単元がありました。友達の一人に、知恩院塔頭の一寺院の息子がいました。「冬越し探し」が宿題に出て、
「困ったな。どこ探したらええねん」
とこぼす僕に、一緒にしようと誘ってくれました。学校の帰りに知恩院の境内に入ると、東西に並んだ土塀の所へ連れて行ってくれました。そして、土塀の南側を探すように言いました。それも上の方。すると、チョウのさなぎや、アシナガバチの巣、そしてドロ蜂の土の巣などが見つかりました。土塀が太陽の光を受け、ヒーターの役割をし、北風を防ぐ役割をしたのです。スケッチしたノートを提出した後、先生に誉められたのを覚えています。

 もう一つ土塀の思い出は、枳(き)穀(こく)邸(てい)の土塀です。昔、河原町通に市電が通っていた頃、ずっと不思議に思っていたことがあります。それは、電停の名前でした。「河原町(かわらちょう)正面(しょうめん)」。車掌さんの「次は、河原町正面、河原町正面」という声に「いったい何の正面なん」と思い、電車を飛び降りました。そこで、出会ったのが、写真の土塀です。いったい何メートルあるのだろうと思ったものです。そして、正面というのは、京都大仏の前に続く「正面通」からきたのだということを知ったのも、その時でした。瓦を土塀の間に入れ、強度も美観もプラスされた枳穀邸の土塀もおすすめです。


―築地べい(土べいその二)―

 羽束師小学校が誕生する時、学校の建つ所が長岡京の内にあることから、埋蔵文化財研究所の方々が調査されました。発掘の結果、弥生時代中期(二世紀)から鎌倉時代中期までの人々の生活の跡や土器などが発見されました。学校の北側の道が長岡京の三条大路、学校の建つ所が「長岡京左京三条三坊」であることもわかりました。

 六年生は、当時の人々になったつもりで、学校を出発し、当時の役所の中心、長岡京大極殿へ向かって歩きました。そして、その途中出会ったのが築地跡です。国の史跡に指定されています。

 昭和五十四(一九七九)年に、道路工事の時発見された長岡京の築地塀の跡に建てられた説明札から、引用し紹介します。

  「築地塀というのは、土をたたきしめて積み上げた土塀のことで、古代から、都城・地方の役所・寺院等では、敷地の囲いとしてさかんに造られました。しかし古代の築地が現在まで残ることはごくまれで、平城京や多賀城、法隆寺等にあるだけです。このため本遺跡は、昭和五十六年九月八日、国の史跡に指定されました。

 築地の構造は二つの部分からなっています。

 まず、塀全体を高くするため、基定に幅十メートル、高さ一,七メートルの土塁を構築します。築地はこの土塁の上に築かれ、幅2.1b、現在残っている高さ1.0b〜1.2bを計ります。屋根は瓦葺きで、土塁の外側上面は凝灰(ぎょうかい)岩でおおわれていました」

 説明札ではわからなかった築地塀のことが、向日市文化資料館で、はっきり解りました。写真のような「築地復元模型」があったからです。「御所にも、こんなんあった」とか「醍醐のお寺にも同じようなんあった」等の声が上がりました。まさに「百聞は一見にしかず」ですね。

 長岡京は、わずか十年でとりこわされ、七九四年、都は平安京へ移されたのです。短命の都、悲劇の都、幻の都長岡京と言われます。しかし、長岡京は確かに存在し、人々はそこで生活をしたのです。実際に歩き、築地跡や築地塀に出会い、子ども達は実感したのです。

「大極殿まで歩いて」(六年 男子)
 今日は、ぼくも長岡京時代にいた役人になったつもりで、大極殿まで歩きました。昔の人も、毎日早く起きて歩いて、しんどかっただろうと思いました。冬は六時から、夏は四時三十分から歩いたのです。
 学校を出発した時は、こんなに遠いとは思いませんでした。歩いていくうちに、まだかな、まだかなと、思うようになりました。今はバスで行けるけど、昔はたいへんだったと思いました。

「向日市文化資料館」(六年 男子)
 「わあ、すごい」
ぼくは、向日市文化資料館で長岡京の模型を見てびっくりした。三条大路と東三坊大路のまじわっているところがわかる。(羽束師小学校のあるところ)胸がドキッとした。あのプールの横の道を、昔の人が歩いたのだと思うと、ドキドキしてたまらなかった。学校でマラソンをしていた時、ただの道だと思いこんでいたのに。ほんとうにびっくりした。

―石べい―

 木と土とくれば、次は石。もちろん石塀もあります。そして石塀といえば、思い出すのは、東山区下河原にある、「石塀(いしべ)小路(こうじ)」です。

 八坂神社石段下の弥栄中学校時代、剣道部のランニングコースが、円山公園、高台寺、産寧坂(三年坂)、清水寺の往復でした。グランドも狭く、体育館も低く狭いのに、部活の活動場所がないため、練習場の取り合いでした。そのために、竹刀を持つ時間よりランニングの時間の方が多く、それも毎日でした。

 石塀小路を走り抜ける時は、春・秋の観光シーズンのピーク時、観光客が多く、走りづらい時と、真夏の炎天下には、建物の影で涼しく走れました。また、冬の北風よけには最高の抜け道でした。途中で二股になり、友達とわざと競争したため、北側の下河原通にある入口に飛び出し、観光客にぶつかりそうになったり、驚かせたりした事が何回もありました。

 慶長十年(一六〇五)、北政所が、夫であった秀吉の菩提を弔うために高台寺を建て、舞や芸に長じた女性が下河原周辺に集められたといわれています。その後、下河原遊郭となり明治まで存在しました。今も、お茶屋、旅館、料亭等が多いのも、その名残のようです。

 八坂神社の南門に通じる下河原通から、高台寺門前に抜ける石畳の道が石塀小路と呼ばれています。この小路の誕生は大正初期といわれ、縁りの人として、桂文ノ助、堂本印象などが知られています。

 「荷車通リ抜ケ御断」の銅製プレートが、大正時代を思わせています。三つの入口のどこにこのプレートがあるか、一度足を向けてみませんか。

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