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特集T 総論
チームを組んだ学校教育相談活動
−−その意義とあり方−−

                    高垣忠一郎(立命館大学教授)


1 学校・教師は誰もが接することのできる唯一の専門機関・専門家

 学校・教師は子どもや親の誰もが日常的にその援助を求めることのできる唯−の専門機 関であり、専門家である。子どもや親の抱える生活上、身体上、内面上のあらゆる問題が 意図的、無意図的にまず学校に、教師に持ちこまれる。食事もろくにできない生活上の問 題、腹痛や頭痛、下痢などの身体上の閉居、元気がない暗い表情をしているといった内面 上の問題、さまざまな問題に多くの場合「最初に気づきうる」立場に教師はある。地域に おける援助的な人間関係が稀薄になってきている今日においてはなおさらのことである。

 学校に通うことが子どもたちの日常の生活であり、抱える問題が日常生活に何らかの支 障あるいは兆候として現れるからには、それらがまず日常的な学校での子どもの様子や通 学の困難さ(不登校はその典型)として現れるのは当然のことである。

 医療や福祉、心理などの他の専門機関には、該当する問題が生じたときに意識的に援助 が求められる。しかし、学校はそうではない。学校は教育機関だから教育上の問題だけ持 ちこんでくれというわけにはいかないのだ。ありとあらゆる問題がほとんど無意識、無自 覚に持ちこまれる。マスとしての子どもの変化に最初に気づくのも学校である。大変とい えば、これほど大変なことはない。


2 「まるごと」の子どもと向き合うのが教育の仕事

 教育の仕事は、子どもの人格の発達(人材養成ではない)を援助するという仕事であり、 人格とは生活の主体のことであり、生活の主体は「まるごと」で生きている。私は数学の 教師だから、数学だけ教えていればよいというわけにはいかない。数学の時間に寝ている 子どもがいる。立ち歩く子どもがいる。横向いて坐っている子どもがいる。ちょっと注意 するとパニックを起こす子どもがいる。数学以前の閉居を一杯抱えて教室にいる。

 そういう生活主体としてさまざまな問題を抱えながら生きている子どもに、「接ぎ木」 するように数学の能力だけを身に付けさせることなどできない相談なのだ。勉強というも のは、それなりに心が安定していないとできないものだ。たとえば不登校の子どもたちは 勉強しないといけないと頭では思っていても、心が追いつかない。勉強に手がでるように なるのは、相当に心が安定してからのことである。

 教師の仕事が主要には授業で教科を教えることであるにしても、教師は子どもの学習す る能力とだけ向き合っているわけではない。子どもという人間主体と向き合っているのだ。 それは、医者が病気と向き合っているのではなく、病気を抱えて生きている患者という人 間主体と向き合っているのと同じである。


3 チームを組んだ教育相談活動・指導の必要性とあり方。

(1)チームを組んでの取り組みの必要性

 以上のような学校・教師の立場や特質からみて、今日の教育相談や学校カウンセリング はどうあるべきか?生活主体としての子どもの「まるごと」の情報をできるだけ把握し、 個々の子どもの抱えている問題についての適切な「見立て」を行い、他の専門機関につな ぐことが必要なら、そうするべきだし、学校・教師としてどのような取り組みができるかを判断し、方針を出す必要もある。

 そんな大変な仕事を多忙な師が−人ひとり、バラバラで行えるはずがない。教師集団と して、複眼で子どもをとらえることのできる「チーム」を組んで取り組むことが不可欠で ある。医師、カウンセラー、養護教諭、学校職員、各種ボランティア、親、などとの連携 した取り組みも必要である。

 筆者自身は長年、中学・高校でとくに行動上、心理上の問題を抱えた子どもへの援助に 取り組む集団(「チーム会議」)に、学外の臨床心理の専門家として参加してきた経験が ある。その経験にもとづいて、チームでの取り組みの必要性と意義について述べたい。


(2)問題の見立てと方針を出すこと

 「教育相談」にかかわるチームの最大の役割は、問題とされる子どもの抱える課題が何 であり、どういう援助を必要としているかを明らかにし、学校・教師としては何ができる のか、親にはどのように協力してもらうのか、一定の方針を提示することにある。

 そこではまず、当該の子どもがどのような問題や課題を抱えているのか、ということを 中心に、その子どもの理解を深め、その子のイメージを作り上げることに論議が集中する。 そのことを抜きにして、適切な援助の方向も見えてこないかからである。

 そのためには、子どもが単に「どうした」「こう言った」という報告にとどまらず、そ れを教師がどう感じたか、そのときの感情をも含めて話せるときに、「教師−生徒」の関 係が見え、関係のなかでの子ども自身の姿がよく見えてくる。従って、チームの会議では 参加者とりわけ、担任教師が自分の悩みや混乱をも含めて、ありのままに自分を表現し、 自由にものが言える雰囲気をつくりだすことが極めて大事なことになる。担任が「針の筵」 に座らされるような場であっては絶対にならない。


(3)個々の教師の感受性を尊重すること

 たとえば、子どもの肩に触れると「カチンと岩みたいに硬くてハッとびっくりした」と いう感じ方ができて、すぐにそれを担任に知らせることができる同僚教師がいることが、 教師集団としての生徒を見る目を鋭敏にかつ豊かにする。

 筆者がチームに参加していて−番感じていることのひとつは、たとえば、音楽、体育、 国語、それぞれの教師にはそれぞれの「センサー」があることである。その「センサーJ に引っかかってくる子どもの姿が、ジグソーパズルのピースのように提供される。それが とってもおもしろくて、当該の子どものイメージをリアルに浮き上がらせる有効なピース になる。たとえば、音楽の教師は当該の子どもの表現を声色もまねて生き生きと表現する。 体育の教師は休育の時間でのその子の動き方、体の動かし方を目に見えるように表現する。 書道の教師は字の変化を実物を持ってきて説明してくれる。そうしたことが子どものイメ ージを生き生きと描き出すのに非常に役に立つ。


(4)ちがった視点や発想に立ってみることの大切さ。

 問題に巻き込まれている教師は、それから距離をとれず、問題を−定の視点からのみと らえ、膠着状態に陥っている場合が少なくない。そういうときに視点を変えてみる手助 けをする。当事者である担任は、子どもとの距離が近いため振り回されてしまい、感情的に腹をたてたり困りはてて「なんでこんなに言うてもわからないのか」という気分になる。 話しても話しても行動の改善がなければ、お手上げという状況に陥りやすい。そういう状 況からちょっと身を引いて、「なんでかな?」と考えることができる余裕が必要である。 しかし、渦中にいると−人ではなかなか視点を変えることは難しい。そういう場を提供で きるのがチームでの論議である。


(5)「ああでもない、こうでもない」とみんなで考えることが大事

 一番大事なのが「共に考える」ことである。その土台に「共に感じる」がある。会議の 時に「うふふ」とか「うんうん」とか「えーっ」とかいう雑音、ノイズ、の響き合いが ある。合いの手がいっぱい入っている。シーンとして無駄なく大事なことだけがしゃべら れているような「かしこまった」会議では、教師の心が自由に生きない。子どもの生々し い心の問題に向き合うときに、教師の心が引きつっていては話にならない。

 「共に考える」という、概念的論理的なレベルと共に、その土台に情緒的なレベルでも 響きあっている。「なんかけったいな奴やなあ」と素直にぶつくさ言っているレベルがあって、そのうえに乗っかって「共に考える」という生きた世界が開ける。

 参加者が主体的に参加し、「共に考える」ことによって、子どものイメージと方針がほ んとうに自分たちのものになる。チームの形をとった組織があっても、うまく機能してい ないところも少なくない。そういうところでは「共に考える」という場になっていない。

 自分の頭で考える「Ithink〜」という主体性がなければならない。頭のなかでの問答 である。若い教師のなかには学生時代からの受動的学習によって、そういう事が苦手な人 も少なくない。ゆえにチームの会議はそういう教師に、自分の頭のなかで「ああでもない、 こうでもない」と問答する機会を与え、その練習をする場になることも期待される。

 そのためにも、間違っても「専門家」の指導を仰ぐという依存的、受動的スタイルに陥 らないことが肝腎である。カウンセラーは教師のスーパーバイザーではない。ちがう領域 の専門家同士として対等の立場にあることを忘れてはならない。

 以上のような教育相談にかかわるチームを組んだ取り組みによって、皆で取り組むおも しろさ、集団に支えられたという実感や、さらに取り組みによって「子どもは変るんだ」 という確信を教師は持つようになる。誠実に一生懸命問題を整理しながら取り組めばできるんだという手応えが、教師としての原点になる。それはまさに、教育の醍醐味を味わえるということである。そうすると困難な子どもを抱えても逃げない。教師になりたての頃にこういう経験すると、非常に大きな教育的確信になる。

 チームで子どもの問題をどうとらえるかという論議と経験を積むことによって、またそ の経験を教師集団にフィードバックすることによって、教師集団の子どもとらえる感覚が鋭くなり、問題をかかえた子どものサインを早期にとらえ、指導につなぐことができるよ うになってくる。その学校の教師集団としての教育力量が高まるのである。

 教育行政や学校管理は、こうした教師たちの自主的なチームによる取り組みを励まし、 活性化するものであってほしい。たとえば近年の教師を個々に評価し、それを給料に連動 させるような処遇が、果たしてそういう機運を高めることにつながるのか、極めて疑問で あり、教師の取り組みに学外から協力してきた者として深く憂慮するものである。

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