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原爆症認定集団訴訟が問いかけるもの
「国」と「原爆」を裁いた被爆者
〜 大阪地裁判決にみる 〜


    小杉 功 原水爆禁止京都協議会(京都原水協)事務局長

(「ひろば 京都の教育」147号に掲載されている写真・絵図等はネット上では掲載していません)


 全国13地裁で170人(5月末現在)の被爆者が国を相手にたたかっている原爆症認定集団訴訟のトップを切って、近畿の大阪、兵庫、京都3府県の原告13人のうち先発組9人に対する判決が5月12日、大阪地方裁判所でありました。判決は、9人全員を原爆症と認め、被爆の実態を正しく見ない「国」と、残虐な兵器「原爆(核兵器)」を見事に裁く画期的な内容となりました。

 不当にも国(厚生労働省)は控訴しましたが、今回の判決は、被爆者への国家補償の実現へ大きな一歩を踏み出すとともに、核兵器廃絶の運動を限りなく励ますものとなりました。そして判決は、被爆・戦後60年を経た今、私たちにあらためて原爆(核兵器)の恐ろしさ、戦争の愚かさ、平和の大切さを問いかけていると思います。


残りの人生をかけた被爆者の「最後のたたかい」

 広島・長崎で被爆し、放射線の影響などで身体的・精神的に大きな被害を受けた被爆者の多くが、60年後の今も癌をはじめ様々な病気に苦しめられています。被爆者は原爆による放射線によって体に大なり小なりの影響を受けていて、十分な健康管理を必要としています。ところが国(厚生労働省)は、被爆者が「自分の病気は原爆のせいだ」と原爆症の認定を申請しても、なかなか認めません。現在、被爆者健康手帳を持っている26万人余の被爆者のうち、原爆症と認められ、手当の支給を受けているのは2000人余、わずか0.8%にすぎません。(この背景には、日本政府が実際の原爆被害を狭く、小さく、軽く見せることによって、「核兵器の被害はたいしたことはない」とする核兵器を認める政策があることを見過ごすことはできません)

  これがいかに不当で違法であるかは、これまでの3つの裁判の7つの判決が明らかにしています。長崎の松谷英子さんは長崎地裁・福岡高裁・最高裁で、京都の小西建夫さんは京都地裁・大阪高裁で、東京の東数男さんは東京地裁・高裁でそれぞれ勝訴しています。しかし、国は司法から原爆症認定行政の誤りを厳しく指摘されても、その姿勢を改めようとはしていません。それどころか、新たな非科学的で不合理なやり方を導入し、被爆者を切り捨てる行政を続けているのです。

  「もうがまんできない」と、全国の被爆者が残りの人生をかけた「最後のたたかい」に立ち上がったのが、この集団訴訟です。この訴訟は、たんに原爆症認定制度の改善を求めているだけではありません。それは、物言えず死んでいった人たちにかわって、核兵器の残虐性を告発し、国の責任(国家補償)を明らかにするとともに、「人類と共存できない」核兵器の廃絶を求める人類史的課題と深く結びついているのです。


「きのこ雲」の下でおこった事実、被爆者の苦しみに目を向けない国の態度

 裁判では、被爆者の体験と科学者、医者らの専門家の証言によって原爆被害の実態が詳細に明らかにされ、その実態を正しく見ようとしない国の姿勢が厳しく問われました。

 61年前の8月6日広島,9日長崎にアメリカによって投下された原爆は、一瞬のうちに2つの街を破壊し、強烈な熱線、爆風、放射線が数十万の人びとに襲いかかり、その年の暮れまでに広島で14万人、長崎で7万人もの人々が犠牲になりました。多くが子ども、女性、お年寄りなどの一般市民でした。「きのこ雲」の下の地獄から生き延びた人びとにも60年余にわたって、からだ・くらし・こころにおよぶ深刻な被害を与えてきました。繰り返す病気に加え、「あの日」家族を見捨てて逃げなければならなかったことや、まるで「もの」のように遺体処理をしなければならなかったことなど、こころの傷にも苦しめられてきました。結婚、就職、さらに子どもの誕生や結婚、孫の誕生にいたるまで、不安が消えることがなく、様々な差別に苦しんだ被爆者も少なくありません。

 裁判で陳述に立った原告・被爆者が、言葉で、筆談で、絵で、必死に訴えた想像をこえた生々しい被爆体験と苦悩の人生は、これらの実態とかけ離れた国の姿勢、間違った認定のやり方をうきぼりにしました。


判決が踏み込んだ内部被曝

 これまで国は、爆心地から遠くで被爆した人びと(遠距離被爆者)や、救援や捜索のために爆心地付近に入った人びと(入市被爆者)には、病気になるほどの放射線は浴びていないとして、ほとんど原爆症と認めていません。

 幅十数キロメートルにおよぶ「きのこ雲」の下には、目に見えない放射性微粒子が充満していました。遠距離の被爆者も、呼吸・飲食・皮膚を通じてこれらの放射性微粒子を体内に取り込みました。また、爆心地付近では、爆発から1分以内に地上に到達した初期放射線の中性子が地上付近の物質を放射性物質に変え(誘導放射能)、入市被爆者はこれを体内に取り込みました。このように体内に取り込まれた放射性物質によって体の中から放射線をあびる内部被曝が人間の体に深刻な影響を与えることが、裁判を通して少しづつわかってきました。

 判決は、被爆の実態をしっかりと踏まえて、国がほとんど無視してきた内部被曝の影響を認めて、遠距離被爆者と入市被爆者を原爆症と認めました。


被爆者の思い・願いをしっかりと受けとめて

 裁判に訴えた被爆者の思いは共通しています。広島で妊娠5ヶ月の時に被爆した京都の小高美代子さん(81歳)は、車いすで証言に立ち、「苦しいことばかりの人生でしたが、この歳まで生かされているということは、先に犠牲になられた多くの方々が、被爆の実態を後世に伝えて、核兵器をなくして、戦争は絶対にしないで…と、私を支えているのだろうと思います。お願いです。60年もアメリカからも日本政府からも見捨てられ、苦しみだけを背負って、わずかしか残っていない命と向き合って、細々と生きている被爆者を助けてください。こんなことをしていると、百年も地球は持ちません」(2005年12月14日最終弁論にて)と、裁判長をしっかりと見すえて、堂々と訴えました。私たちは、原告らの被爆体験を、過ぎ去った過去のこととしてではなく、今も現に存在するものとして受けとめなければなりません。被爆者の問いかけに正面からこたえることが、平和を願う世界の人びとへの強いメッセージとなるにちがいありません。


立ち上がった若者たち

 京都、大阪、兵庫の若者たちが裁判の支援に立ち上がりました。一人ひとりの原告・被爆者を訪ねて被爆体験の聞き取りをした若者たちは、率直に思いを語りました。

 小高美代子さんら3人の京都の原告を訪ねた京都の女子学生たちは、「被爆というむごい経験をした人たちだからこそ国からいたわれるべきなのに、裁判を起こし、たたかっておられる。話を聞いて、国の冷たさをすごく感じた。私たち若い世代の者とも無関係ではなく、いま、憲法九条が変えられようとしていたり、世界のいろんなところで戦争が起こっていることに日本が無批判になっている。そういう状況の中で、このたたかいに勝利することは、私たち自身がこれから平和な社会をつくっていくことにもつながっていると思う。これからも自分のできる支援を続けていきたい」(2006年3月11日近畿支援のつどい)と述べました。

 おじいちゃん、おばあちゃんの世代の被爆体験を聞き、それをこれからの人たちに語り伝えていこうという戦争を知らない若者たちの姿に、私たちも逆に励まされました。「被爆者の方々の体験というのは、一番きれいで一番元気だったときに一瞬の被爆によってその人生を奪われ、生きている間じゅう原爆の放射能におびえ続けなければならないという深刻な体験です。私たちは、この裁判を通じて、一人ひとりの人生が大切にされる、そういう政治、行政、世の中でなければならないことを訴えていかなければなりません」(同近畿支援のつどいでの藤原精吾弁護団長の発言)。唯一の被爆国の国民として、人の一生を奪った「原爆」と「国の責任」を、次代をになう若者たちと一緒に"とことん"裁かねばなりません。私たちの子ども、孫に核兵器も戦争もない平和な世界を贈るために。

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