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早川幸生の歴史教材たまて箱(47) 
井戸−−人の喉と町の活気を潤わせ続けて−−


                    早川 幸生
ひろば 京都の教育」147号では、本文の他に写真が掲載されていますが、本ホームページでは割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」147号をごらんください。


発掘現場で子ども達が出会った井戸(その1) 長岡京時代(八世紀末)

 昭和四十五年頃から伏見の羽束師地域に住宅が増え、人口も増加し児童生徒数も急に増え始めました。そこで、小学校と中学校が、新設されることになりました。

 しかし、今学校の建っている場所が長岡京の内にあることから、京都市埋蔵文化財研究所の方々が調査されました。地域の人々も参加した約百四十日の調査の結果、弥生時代中期(二世紀)から鎌倉時代中期(十三世紀)までの人々の生活の跡や土器などが発見されました。

 そして、昭和五十三年四月、羽束師小学校が誕生しました。その後も、道路建設や農地の住地化に伴う工事の際にも、発掘調査が実施されました。

 六年生は、社会科の歴史学習の時間に、学校近くの発掘現場に見学に行きました。二・三日前に現場の責任者の方にお願いしておくと、作業の休憩を兼ねて発掘作業を中断し、案内や説明をして下さるのでした。時には、発掘現場まで降りることが許されました。当然、子ども達だけでなく大人も大喜びでした。

 ある見学会のことでした。発掘現場には、直径15センチメートル位の穴と、30センチメートル位の穴多数が並んでいました。そして、少し離れた所に直径一メートル位ある大穴が一つありました。説明と質問が始まりました。

「この大きい方の穴は、何の跡ですか」

「長方形に並んでいますね。これは、何かの倉庫の跡だったと思います」

「なんでそんなことがわかるのですか」

「この小さい方が、人の住んでいた家の柱の跡です。それに比べると太いでしょ。人より思い荷物を保存しておくには、太い柱で床や屋根を支える必要が合ったからです」

「へえ、そうなんか。なるほどな」

「では、皆さんに質問です。少し離れた所の大きい穴は、何の穴でしょう」

 穴の内側に、中のくり抜かれた大木の残りが見えています。

「ハイハイ。おふろ」

「違います。でも水に関係していておしい」

「ハイ。トイレ」

「残念ですが違います。井戸です。この木をくり抜いて、井戸の中に入れ、周囲の土がくずれるのを防いだのです。木は栗の木です」

「千二百年以上前やろ。昔の人て頭ええな」

「こんな太いのくりぬくの大変やぞ」

「丸木船と同じで、少しずつけずったのと、中心部分を火で焼きながら、こげてけずりやすくしてくりぬいたこともわかっています」

「へえー、それも又すごいな」

 参加者全員、発掘現場に立てたことと、具体的でわかりやすい説明に納得して、満足したことは言うまでもありません。その後も、 「先生、青いビニールと、ベルトコンベアーあったし、絶対発掘やて。なあ、また行こうな」 と、告げる子ども達が、かなりの間続きました。


発掘現場で子ども達が出会った井戸(その2) 室町時代末(十六世紀頃)

 山科の山階南小学校の近くに、オチリ池とよばれる所がありました。すぐその裏には、子ども達が「ヘビ山(エビ山との説も)」と呼んでいた小高い林がありました。虫をとったり、クリスマスリース用のつるやあけびの取れる、絶好のフィールドワークのできる場所でした。

 ある日突然、林の木が切り倒されました。 「センセイ、ヘビ山が丸坊主になったで」 あわてて現場にかけつけると、大きな切り株が数十個露出する、信じられない風景が眼前に広がっていました。と同時に、今まで木々や草で見えなかった土のマウンド(土塁)がはっきりと出現しました。結果的にはL字型の、高さ六〜八メートル、長さ六・七十メートルの土塁でした。五十戸余りの一戸建ちの住宅が建つとのことでした。

 子ども達と調べてみると、それは山科本願寺の土塁でした。戦国時代の山科に突如大じない寺内まち町が形成され、数十年の内にまた、姿を消したのでした。本願寺の蓮如上人が、山科の住人から土地を寄進され「ごほんじ御本寺」「ないじない内寺内家中」「外寺内」の三重構造からなる、計画的に構築された都市として定着した最初の寺内町と言われています。一番中ほどにある御本寺がしっかりと守られる構造になっていて、外周は土居(土塁)と濠で囲まれていました。

 京の町中は、応仁の乱後で荒れはてていたのに対し「寺中広大無辺にして、荘厳さながら仏国の如し・・・」と、その繁栄ぶりが伝えられています。そして、その構造から「戦国の城」とも位置づけられています。しかし、一向宗を嫌う織田信長の配下の細川、六角勢と京の法華宗徒により、一勢の放火、攻撃を受け一夜にして、その繁栄に幕が降りました。

 今回の発掘は、ぐるりと巡らされた土塁の南西角の部分でした。現地説明会のニュースをキャッチすると共に、子ども達の見学を申し込むと、埋蔵文化財研究所の方は、快く受けて下さり、当日は児童用の資料まで作成して子ども達を招えて下さいました。

 発掘現場に降り立った子ども達を前に、説明が始まりました。

「山科本願寺の今回の発掘現場です。今みんなが立っている調査面に、三種類の穴が現れています。何に使われた穴か、想像し下さい」

「えっ。三種類の穴て、どういうこと」

みんな、今ひとつ反応が良くありません。

「人間の生活に絶対必要な穴です。朝起きてからした事を、順に思い出して下さい」

「朝起きて、トイレに行った」

「顔も洗ったな」

「朝メシくったな」

「そうそう。いいですね。ということは」

「一つは、トイレ用の穴」

「ピンポン。正解」

「もう一つは、きれいな水用の穴」

「正解」

「もう一つ何やろう」

「わからへんな」

「物を食べたり、料理をすると何か出ますね」

「わかった。ゴミや。ゴミすて用の穴か」

 もう一度、穴を見てまわりました。穴の内側に円筒形に、石が積み上げられた物も見えます。

「これが、井戸やろ。石やったら水濁らへん」

「近くのこの割合大きいのは、ゴミか便所かどっちや」

「近くに便所は、きたないやろ」

「そしたら、ちょっと離れたのが便所やな」

 子ども達の予想は的中し、ほめていただきました。そして寺内町は、下水用の石組の暗渠を持ち、土塁の壁を通り排水できるすぐれた都市計画を持った町だったことも知りました。


子ども達が出会った井戸(その3)北山別院(北山御坊)聖水井―平安・鎌倉

 修学院小学校で五年生の地域学習をしている時のことでした。比叡山に降った雨が地面にもぐり地下水となり、高野川に近づくにつれ、井戸水となって地上に顔を出すため、高野川沿いの東岸に走る大原街道(別名鯖街道・若狭街道)には、地下水を利用した商工業が見られました。友禅染め、豆腐屋、湯葉屋、川魚屋、料理屋、銭湯等々。一方、農地でも山に近い所では、湧き水が出る田もありました。「地下水の方がつめたいので、稲の発育が少し遅い。」ことや、「ふつうの米の種類は、一つの村の中では、二・三種類だけど、各家で、ほんの少し作るもち米の種類は、各農家によって一軒一軒違う、その家伝来のもち米がある。」ことを、子ども達が地域の方から聞き取って来たのもこの地域でした。

「どこか他に、井戸のあるとこ知らんか」

「知ってる。幼稚園にあった」

「えっ。幼稚園て。どこの幼稚園なん」

「セイスイ幼稚園」

「ぼくも」

「わたしも」

 放課後、卒園した子ども達のグループと共に、その園を訪れました。校区の南の方の、一乗寺という集落の、旧道キララ雲母坂沿いを、ほんの少し山側に坂を登った所にありました。

 お寺の附属幼稚園でした。山門には「本願寺北山別院」と書かれていました。「聖水山」という文字も見えます。寺伝によると「浄土真宗の開祖親鸞上人が、比叡の山より市中の六角堂の救世観音に百日間通われました。その際、ちょうどこの場所が中間点であることから、行きにはこの水で心身を清め、帰りにはよく休憩し、雲母坂を比叡山に向かわれた、深い因縁のある井水である。」と伝えられています。

 特別に頼んで井戸を見せてもらいました。門扉が開かれると、小さな溜め池が現れました。そのたまった水を汲んで飲むのです。その時は、低水位になるのですが、暫くすると元の水位に。 「先生、おいしいで。飲んでみ。そこにヒシャクあるやろ」「ほんまや、冷たいし、おいしい」 園長先生に、よく飲ませてもらった話をする子ども達の笑顔が、本当に楽しかった幼稚園時代を物語っていました。


都名所図絵の中の井戸―祭や通り名に見る

 京の夏の始まりを告げる行事と言えば、やはり「祇園祭」です。夏のはやり病いを防ぐ願いのこも った、千年以上の歴史を持つ祭です。よいよい宵々山、よい宵山と歩行者天国になるのは、四条通と烏丸通ですが、烏丸通蛸薬師下ル東側に「烏丸のお旅」と呼ばれる所があります。正式には「御手洗井」と呼ばれ、この井戸があることから「手洗水町(ちょうずのみずちょう)」となったと伝えられています。

 幼い頃、祖母や父から「はよ、ちょうずおつかいや」とか「もう、ちょうずつこたんか」等と言われたものです。これは、朝の顔洗いのことです。早く顔を洗いなさいという意味です。今でも「ちょうず手水ばち鉢」が、古いお家や、旅館、料亭等で見られますが、もともとは、神仏参詣の際、身を浄める意味で、口をすすぎ、手を洗ったことが始まりのようです。  その後、トイレの後の「手洗い」、そしてトイレ、便所を表す言葉にもなったようです。

 都名所図絵の説明書きにも「例年祇園会中(七月十五〜二十四日迄)井をひらきて手水所とするなり。この水を服すればえやみ疫(夏の流行病等)をのがるるとぞ」と記されています。そして、現在の立札にも「深さ七ひろ尋半水質清涼にて都下の名水として著名である。毎年七月十四日井戸換二十四日閉じる」と。  京都の南北の通り名に「さめが醒い井通」や「さい佐井通」があります。これらは文字通り、古くから有名な井戸に因んだことによるものです。


名水――今も民衆に愛され続けて

 伏見桃山にある御香宮神社は、以前は「みもろ御諸神社」といわれていました。社伝によると貞観四年(八 六二)に、境内からとても良い香りの水が湧き出し、病人が飲んでみるとたちどころに病気が治りました。良い香りのする水という「御香水」の出る神社として、清和天皇から「御香宮」という名を使って良いとされ、それ以来「御香宮」と呼ばれています。

 明治時代に環境の変化によって水が出なくなりましたが、昭和五十七年に復元され現在に到っています。

 その後、昭和六十年には、水量も豊富で保存管理が良く、地場産業である酒造りとも結び付きが深く、歴史もあることから、環境省の「名水百選」に認定されました。

 伏見は、江戸時代には「伏水」と呼ばれ、書き表すくらい地下水が豊富でした。京都盆地や桃山丘陵に降った雨水が、伏流水となります。特に伏見には「伏見七名水(七ッ井)」があります。石井・常磐井・春日井・白菊井・苔清水・竹中清水・田中清水の七つです。御香水にしろ、白菊井にしろ、早朝から深夜まで水汲みの人が年中たえません。

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