トップ ひろばもくじ ひろば146号
早川幸生の
京都歴史教材 たまて箱(46)


−−石垣 命やくらし・伝統の基礎を支えつづけて−−


(「ひろば 京都の教育」146号に掲載されている写真・絵図等はネット上では掲載していません)


米蔵・衣裳蔵の石垣(段蔵造り)

 伏見の西部、久我・羽束師地域は、神川・鴨川・菱川・古川・志水・樋爪・水垂等川や 水に因んだ村や集落があり、水と関係の深い地域であったことがうかがえます。

 昔、桂川は大雨が降ると、堤防があちこちでくずれ、久我や羽束師地域から南の方(大 阪近辺)まで、流れこんできた水やどろのために、湖や沼のようになり、何日も、ひどい時には何十日も水がひきませんでした。

六〇年程前位まで、大雨が降ると桂川の水位が上がり、その水が西羽束師川に逆流す るのです。その逆流を防ぐために水門を閉じるのですが、西羽束師川から流れてくる水の逃げ場がなくなり、羽束師一帯は、田畑や家々が水につかり湖の様だったそうです。

 そこで、人々は、家の大切な物、食料、衣裳、財産などを納める蔵を、家・屋敷より四 段高く、そして直接座敷につなげて建てました。

 蔵の横の道に出てみると、座敷から四段しか見えない石垣が、数えてみすと下からは、 十数段、約三メートルの高さに積まれていることがわかります。資料の写真がそうです。これは「段蔵造り」と言われ、この辺りから大阪にかけて、昔からたびたび水害に襲われた地域で発達してきた形式だと考えられます。

  いざという時には避難場所にもなる石垣の上の蔵は、まさに輪中(わじゅう)の「水屋(みずや)」その物です。


校区オリエンテーリング「石垣の上の屋敷」

 羽束師小学校では、日曜参観の後、いくつかのコースに分かれて「親子歴史オリエンテ ーリング」を実施しました。そのときのミニ冊子の一節です。

田中家の石垣
 以前は石垣はなく、ほぼ今の高さまでの盛り土の上に家全体があったそうですが、水害の心配から今から七十〜八十年前に、今の石垣が築かれました。北側の田畑からは三メートル近く、家の南側の田畑からも二メートル以上の高さがあります。
 が、大下津の堤が切れた時には、石垣の上にまで水がヒタヒタとおしよせたそうです。
 石垣には外側から見える、たてよこより奥行きの方が長い石が多く使われているそうです。石垣の全面は化粧(けしょう)積(づ)み、裏面は野面(のづら)積(づ)みという工法で積まれています。


世界文化遺産に見る石垣@−−清水寺の石舞台−−

  中学生の頃、剣道部の部活で毎日ランニングをしていました。コースは祇園石段下の弥栄中学校から円山公園、高台寺、三年坂を通り「清水(きよみず)さん」までの往復でした。先輩の後追いをするので、先輩が寺前でUターンすればUターン。境内へ走り込むと後を追ってという具合でした。境内へ走り込む時は内心、「しめた」と思いました。それは、必ず先輩は「音羽の滝」で喉を潤すのでした。「清水の舞台」を駆け抜け石段を下がると「音羽の滝」です。長柄(え)のひしゃくで飲む水は最高でした。

 夏はもちろんのこと、真冬でも口にしました。今も、清水さんに行く際の、一番の楽しみです。帰路は「音羽の滝」からひたすら下りです。走り出すと、すぐ右手が「清水の舞台」の足下になります。

 「清水の舞台」を下からと横から見て気付いたことがあります。一つは張り出した舞台(木組の床状の部分)以外は、写真の様な高さ約十メートルの石垣の上に設けられていること。そして、二つ目は張り出した床状の舞台は、石垣の上から張り出した一本目の柱、二本目の柱、三本目の柱に合わせて、高さを調節した石垣の土台が築かれていることです。わかりやすく言えば、石垣で築かれた段々畑の上に柱が建てられ、その上に水平に板が敷かれ、「清水の舞台」ができているのです。

 これらは、乱石、乱層積みと呼ばれ、古くから見られる工法だそうです。ぜひ一度自分の目で。


世界文化遺産に見る石垣A−−二条城外(そと)濠(ぼり)城(しろ)石垣(いしがき) −−

 父の遊び場として、名前がよく出されたのが「二条城・神泉(しんせん)苑(えん)」でした。魚釣りや木登 りの話を良く聞きましたが、なるほど堀あり、池ありで、今見ても格好の子どもの遊び場です。以前は「二条城離宮」と呼ばれ宮内庁の管轄でしたが、その後京都市に移譲され現在に到っています。そのため京都市の小学生は、事前に所定の申し込みをすると無料になります。必ず六年の遠足の見学スポットです。

 二条城は、徳川家康が一六〇二(慶長七)年に京都の居館として造営したのですが、大坂冬の陣・夏の陣に家康は二条城から出立しています。そして一八六八(慶応三)年に大政奉還を決意した慶喜が、城中から公表し武家政治の幕を閉じています。そういう意味から二条城は、徳川幕府(江戸時代)と興廃を共にした一番関係の深い城です。また、維新後、京都府庁がニ之丸御殿内におかれ、田辺朔郎が疎水の建白書や設計書をかいた所でもあります。

 市内オリエンテーリングをした時、一人の児童が言いました。 「何か他のお城とちがう。何でやろう」 天守閣がないこと。壕が狭くて浅いこと。石垣が高くないことなどを話してくれました。

 お城の石垣について調べてみました。壕の石垣は隅角には、角石が用いられ「算木積み」(井(せい)楼(ろう)積み・井桁(いげた)積みとも呼ばれる)と言う直方体の石の長面短面を正面と側面とに交互に見せる積み方であることがわかりました。二条城の石垣もこの工法ですが、他の城の様な反りはなく、やさしく感じます。


世界文化遺産に見る石垣B−−慈照寺・銀閣寺(ぎんかくじ)垣(がき)−−

  六年生の遠足などで何回か金閣寺、二条城、銀閣寺の世界文化遺産を、バスや地下鉄の 一日乗車券を使い、生活班で行動したことがありました。生活班で計画をたて、コースを考え行動するので、いつ来るのかわかりません。

 前日に入場券を手に入れ、当日は子ども一人一人が持って入場し見学できるのが理想ですが、毎回夢かなわず入場券を先に購入し、チェックカードを手に子ども達に手渡すべく見学入り口に三・四時間立つのでした。 「あっ、先生いた。一組の五・六班きたで」 大きな声が静かな空間にひびきます。 「先生、ここええなあ。俺むっちゃ気に入った」 超ごんた(・・・)の彼が、気に入ったのが写真の場所でした。帰ってから調べてみると(右側の垣根模様)「銀閣寺垣と呼ばれ、古拙な情趣を持たすがために、わざと崩れかかったように作りなした、大型ゴロタ石を乱積みにし、それに刈込み生垣を組み合わせたもの」と記されていました。


護岸石垣(工法・すべり胴)

 高雄小学校では毎年一・二回校区に月ノ輪熊が出没しました。校内放送で 「夫婦(めおと)橋付近で熊が出たそうです。集団下校します。下校の準備ができたら集合してください」

 国道167号線沿いに、学校から北の地域(槙尾、栂尾など)から通っている子どもたちが対象です。通学路になっている丹波古道を歩きます。まず人と出会うことはありません。十人未満の集団で急ぐ時は職員の車でした。

 季節は必ず春。ゴールデンウィークの後でした。地域の方の話では、清滝川の河原でハイカーの人がしたバーベキューの油や臭いに誘われて出没するとのことでした。ハイカーの後始末の悪さが熊を誘うようです。

 子どもたちを送り届けた後、足を伸ばして出没場所の「夫婦橋」に行ってみました。栂尾、高山寺から上流へ一キロメートル。清滝川にかかっています。橋の上から河原を見ると、橋桁や周囲の護岸壁が目に入りました。

 特に高雄山中の護岸石垣は、三八〇年前の構築と伝えられています。水当たりを計算し、「スベリ胴」と呼ばれる工法がとられた護岸石垣は、とても緻密で今も石の抜け落ちがひとつもないと言われ、今も健在です。これらの護岸石垣のおかげで、清滝川は今も清流です。江戸時代から「ゲンジボタル」の名所として今に続いています。タチアオイの咲く頃、「先生、ホタル飛んでるで。いつ見に来る」 高雄小の卒業生からの電話が今年も楽しみです。


「泣き石」(京都大仏の石垣)

 東山区の京都国立博物館正面入り口北詰から、豊国神社と方広寺の北まで、大きな石垣が並んでいます。六年生で博物館周辺を見学した際、多くの児童がたずねました。 「先生、これ何の石垣。だれがつくらはったん」 今は無くなりましたが、案内板に「豊臣秀吉遺稿建造物」として「京都大仏石垣」と「耳塚」「馬塚」について記されていました。

 江戸時代に出版された都名所図絵にも、その当時は、絶対無かったはず(焼失)の大仏殿と共に石垣が描かれています。そして、高瀬川は、この京都大仏建立建材運搬のために、開削され(七条まで)、その後江戸時代に角倉了似が権利を買い取り二条までのばしたのです。「正面通(しょうめんどおり)」の名も大仏殿の正面に因んだ名前です。方広寺もあり、お勧めコースです。

 この石垣のことを訊ねて歩いてみました。石垣のすぐ北側の露地にお住まいの方の話です。 「この石垣ね。特別な呼び方なんかないですわ。冬は京都はどこ行っても、底冷えでっしゃろ。日あたらへんしね。夏は夏で、風通らへんし。夜もむし暑おっせ」 とのことでした。かえりに「ぜひ見て下さい」と言って下さった「泣き石」について記します。京都大仏殿の基盤の石垣の中で、最大級の物が写真の石です。お話をうかがった露地の入り口(南北に走る石垣の最北端)の石です。「秀吉に命じられた前田利家が、あまりの重さに泣き言を言った」とか。本当は工事関係者の涙(なみだ)ですね。


「バラバラでいっしょ」の高石垣(渉成園・枳殻邸)

 京都市下京区、京都駅から北東へ歩いて十分足らずの所に、「渉(しょう)成(せい)園(えん)」があります。

 僕もそうですが、京都の人に「渉成園」と言ってもピンと来ません。やはり「枳殻(きこく)邸(てい)」です。父も「枳殻邸」と言っていたので、高校の頃一人で捜して行ったのですが、門前には「名勝渉成園」の碑が建っているだけだったので、「ここは違う」と入らずに帰ったくらいでした。

 渉成園は、真宗大谷派の本山からは飛地境内地として位置付けられ、園の周囲に枳殻(カラタチ)が植えられていたので枳殻邸とよばれるようになったようです。

 一六四一(寛永一八)年に、徳川家光によって現在の所が寄進され、その後一六五三(承応二)年、本願寺一三世宣如が、詩仙堂の創立者である石川丈山に願い、庭園として築かれ隠居所とされたのでした。

 その後、一八五八(安政五)年と一八六四(元治元)年の「蛤御門の変」などの大火で諸殿はすべて消失しました。が、一八六五(慶応元)年から明治初期にかけて復興されました。そして、池水・石組・築山等は創始の頃とほとんどかわらなく今日に至っているそうです。

 僕の頭の中で渉成園と枳殻邸が一つになり、初めて訪れ出会ったのが写真の「高石垣」です。初めて見るその斬新さに度肝を抜かれた思いでした。二回の大火で消失し散在していた山石(やまいし)や石臼・瓦等を集め構築したそうです。

 入り口の間(あいの)町(まち)通りから見ることもできます。拝観料は不要の市街随一、四季不問のスポットです。

「ひろば 京都の教育146号」お申込の方は、こちらをごらんください。
トップ ひろばもくじ ひろば146号