トップ ひろば紹介 ひろば145号もくじ
早川幸生の 京都歴史教材 たまて箱(45)

巨木名木(町の顔そして歴史の生き証人)


                                     早川 幸生
おことわり−−早川幸生先生の「京都歴史教材たまて箱」の中の写真・図版については、当ホームページ上で公開していません。「ひろば 京都の教育」誌上には掲載していますので、あしからずご了承ください。−−京都教育センター事務局


青蓮院の大楠


 旧東海道、粟田口にある粟田小学校のすぐ南に、皇室とゆかりのある門跡寺院、青蓮院があります。小学生の頃、下校放送が鳴り終わるまで校庭で遊び、その後は青蓮院の境内か、その周辺が遊び場でした。鹿の石像にまたがったり、広い階段でのじゃんけんでの上り下り。そして大楠の木登りや、ぶら下がりごっこでした。

 そんな格好の遊び場が、使えない時がありました。それは、映画の撮影でした。時代劇が大好きだったやんちゃ仲間は、授業中から 「又、しょうれんいんで、さつえいしたはっで」 の伝言を、窓際の子からキャッチしていました。放課後、ランドセルの中味が飛び出す位の勢いで、青蓮院へかけつけました。教室を飛び出して、三分もかかりません。 「今日も東映やな。北町奉行所てかいたある」 「ぼんら、そこの線から入ったらあかんで」 スタッフの人から声がかかります。

 派手な立ち回りのシーンではなく、奉行町に見立てた門へ、石段をかけ上がったり、歩いたりのシーンが多かったのを覚えています。

 この楠の木を思い出したのは、アニメ「トトロ」でした。青蓮院には三本の大楠が並んでいます。その中でも子ども達に一番人気があったのは、三本の真中の木です。「てんぐの木」と呼んでいました。太い幹から、てんぐの鼻のように出た枝に、ロープをかけてブランコの様にしたり、ターザンのまねごとをして、一心不乱に遊びました。

 今考えると、一つ不思議なことがあります。それは、お寺の楠の木で遊んでいて、一度もしかられたことがないことです。今だったら絶対に、多くの人に声をかけられるでしょう。五十年程前は、おおらかだったのでしょうね。

 偶然見つけた「二十四輩順拝図会」の内、粟田御所(青蓮院門跡と称す)の図の中に、土手に並んだ江戸期の三本の楠を見つけました。さがしてみて下さい。わかりますか。


大宅一里塚の大榎(エノキ)


 我が家は山科の旧奈良街道添いの、大宅(おおやけ)という所にあります。旧街道に面して市の史跡に登録されているものがあります。それは「大宅一里塚」です。高さ約一.八メートルの塚の上に、エノキの巨木が立っています。

 一里塚とは、桃山時代以前にもあったと考えられていますが、文献や史料に出てくるのは、慶長九年(一六〇四年)に徳川家康が、全国の街道の整備や修理と共に、街道の通行者に、現在の位置や距離が判るよう、街道の両側に一里(約四キロメートル)ごとに土を塚状に盛った目印を作らせたことがわかっています。そして塚上にエノキが植えられ「一里塚」と呼ばれました。

 「大宅一里塚」も一九七〇年位まで街道の東西に一本ずつあったようですが、現在では写真の資料のように、一本だけになっています。

 江戸時代には大切にされた一里塚ですが、交通手段や、道路状況の移り変わりと共に、存在価値も薄れ、道路の拡幅や開発などにより次々と取り除かれたようです。

 三条大橋から一里の目印だった東海道の「日の岡一里塚」も、今はお地蔵さんの祠が建っていて場所は判るものの、塚の跡はありません。この「大宅一里塚」は、東海道の追分から分岐した奈良街道の一里塚で、京都市内では、唯一残されたものだと言われています。

 子ども達と、漢字の学習で「休」という字に出会うといつも、木の下で一服する旅人をイメージします。一里塚とエノキ、いつまでも残ってほしいものです。


西本願寺・水吹きのイチョウ―「先生、僕とこの家見えてるよ」


 講師として初めて勤務したのは、下京区の淳風小学校でした。教室の南向きの窓から十一月末の周囲の風景を見ていました。I君という一人の少年がそばへ来て教えてくれました。 「先生、僕とこの家見えてる」 「えっ。どこどこ」 「ほら、そこ。イチョウがあるやろ」 「えっ。本願寺さんか」 目の前には、西本願寺の大屋根と黄色に色付いた大イチョウが、ガラス窓いっぱいにひろがっていました。

 後日、西本願寺を訪れました。学校から見えたのは、大宮通り、花屋町通りに面した所でしたが、堀川通りのあみだ堂門から入ると、二本のイチョウの木が目に留まりました。右手の木は普通のイチョウの木の形ですが、左手の御影堂の前の木は、葉っぱはイチョウなのに木全体の形は、イチョウとは思えません。近づいてみるとこんなことが記されていました。

「天明八年(一七八八)一月三十日早朝、鴨川東の団栗近くから出火した火は、東風にのり鴨川を越え、二月二日の鎮火まで、市街地のほとんどを焼きつくした。世に言う団栗焼け、江戸時最大の火災、天明の火災である。  火の手は西本願寺にも迫り、御影堂へも火の粉がふりかかろうとした。その時このイチョウから勢いよく水柱が立ち御影堂は危うく難を免れたという。『水吹きイチョウ』と呼ばれるゆえんである」と。

  また、イチョウとして写真の様に特異な形をしているので「逆さイチョウ」とも呼ばれていることも知りました。


東福寺の円柏(いぶき) ―「都名所図会」の中の名木−−


 通天橋や通天モミジで有名な東福寺ですが、江戸時代にも「古樹」として知られていた木があります。それは「イブキ(円柏)」です。

 東福寺は、鎌倉時代の中頃に建てられた寺院で、開山には中国(宋)より聖一国師が迎えられました。江戸時代中期・安永九年(一七八〇)に出版された「都名所図会」にも「円柏の古樹は開山国師、宋国より携へ来る」と記され、図絵の中には、「唐木(からき)」として描かれています。現在も図絵と同じく、国宝の山門(応永十二年・一四〇五年建立)と仏殿の間の西側に植わっています。

 もう一枚の資料の図絵は、江戸末期の元治元年(一八六四)に出版された「華洛名勝図会・東山之部」に描かれた東福寺です。「円柏古木(びゃくだんのこぼく)(仏殿の前、方丈の前等のあり)」と記されています。前出の「都名所図会」から約百年経過し、現在の配置とほぼ同じです。現在では、さらに百四十年が経つ訳で、寺院の歴史と共に樹々の成長や変遷を知る手がかりにもなることを知りました。


山科・三の宮神社の(けやき) ―名は体を表す−


 山科盆地のほぼ中央、山科川の東側に「山科三の宮神社」があります。この神社の本殿横に黷フ大木があります。

 山階南小学校で、PTA主催の「地域オリエンテーリング」の訪問場所の一つとして、三の宮神社を設定しました。「どこから見ても一きわ背の高い木のある神社はどこでしょう」という問題です。子ども達は保護者の人と一緒に歩きながら、すぐに大きな木を見つけました。その時僕はヒントとして「両手を拡げて空に挙げているみたいな木を、さがしてごらん」と言いました。以前、地域のフィールドワークの指導を受けた時の、講師の話を思い出したのでした。「黶vという文字を今一度見ると、木へんに、「挙げる。」という文字の組み合わせからなっています。

 木へんの文字の中で、一番わかりやすい、まさに「名は体を表す」言葉通りの木の名前です。では少し、三の宮神社の紹介をします。

 僕の住む山科では、一四世紀頃から、村が結集して「山科七郷惣郷」という農民の自治組織が生まれました。「山科七郷」と呼ばれています。このように広い地域での村落の結びつきは、室町・安土・桃山時代の京都周辺では、山科七郷をはじめ、伏見九郷、賀茂六郷、西岡十一ヶ郷の四つが知られています。

 山科七郷とは  一郷 野村(後の東野・西野)  一郷 大宅里、南木辻  一郷 西山、大塚  一郷 北花山、下花山、上花山  一郷 御陵、厨子奥  一郷 安祥寺、上野、四宮河原  一郷 音羽、小山、竹鼻 です。山科の小学校や中学校の名前に、当時の村の名前が残されています。

 山科七郷の住民が、幕府に対して徳政令発布を要求し、土一揆に参加した最初の事件は享徳三年(一四五四)のことです。その寄合や話し合いが、この神社でされたと言われています。この欅に当時の様子を聞きたいと、ふと思ってしまいます。


御香宮神社のソテツ ―歴史の生き証人―


 御香宮神社は伏見の産土神として、現在も伏見の人々の信仰を集めています。伏見祭はもちろんのこと、お宮詣りや七五三詣りで、境内に出店もあって、昔と変わらぬにぎわいを見せています。

 社伝によると、貞観四年(八六二)に境内から香りの良い泉水湧き出て、病人がそれを飲んだところ、すぐに治り、それに因んで「御香宮」と呼ばれるようになった、と言われています。御香宮の門は、伏見城の大手門が使われており、本殿等の建物も徳川家康が建てたと言われています。

 現在の本殿は、慶長十年(一六〇五)の建造と言われていますが、その本殿前に雌雄のソテツの大株があります。いつ植えられたのか詳しいことはわかりませんが、同時代のものだと考えてしまいそうになる位の年代物です。ソテツと言えば、宮崎日南や鹿児島、そして沖縄の代名詞ですが、京都では冬越しに必要とされる覆いも無しで冬越しし、開花結実し、現在にいたっています。

 伏見の歴史を子ども達と一緒に調べる中でわかったことが二つありました。秀吉の時代が終わると、伏見桃山城が解体されるなど、伏見の町はまさに灯が消えたようになったそうです。

 しかし、なた「伏見(ふしみ)の町は不死身(ふじみ)の町」と言われるように、その繁栄がよみがえったのは家光の時代、参勤交代の制度によってでした。西国の大名(とくに外様の大藩島津氏等)は、上りは伏見の町で船から上陸し、下りは伏見で乗船し、国元までの船旅だったようです。明治維新の立役者と呼ばれた鹿児島の島津藩は、現在の沖縄、琉球王朝を支配下に入れ、財力を貯えたと言われています。

 また、徳川家の顔を立てつつ島津藩の力を誇示するため、沖縄の使節団「琉球の江戸上(のぼ)り」を、朝鮮通信使と似せた行列にして実施しています。伏見街道から大岩街道を抜け、山科の勧修寺で休憩した記録が残っています。

 大ソテツから、沖縄や鹿児島を連想するのは、今も昔も変わらないようです。幕末の鳥羽伏見の戦いの際、官軍の陣だった御香宮から、新撰組もいた幕府軍の陣の伏見奉行所に発砲されたアームストロング砲の音もこの大ソテツはきいています。冬でも緑の大ソテツに南の情熱を感じられるのは、伏見の町の誇りです。

「ひろば 京都の教育145号」お申込の方は、こちらをごらんください。
トップ ひろば紹介 ひろば145号もくじ