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特集2 教師の生きがいと自己形成

若い教師の皆さんへ


−−知りうることは−−

                 西條 昭男(京都市立中川小学校)


「知りうることは ほんの僅かなのだ」
(新川 和江の詩「窓」の一節より)

教師を何十年やってきたとして
子どもの何が分かるというのか
知りうることは ほんの僅かなのです
ほんの僅かだからこそ
知りえたことは貴重で 喜びも大きく
胸が熱くなるのでした

だから私は
今日の厳しい状況の中で
毎日毎日教室で悪戦苦闘している
誠実な教師達を前にして
まるで子どものことなら何でも知っている
かのような顔をして、
子どもとは
教育とは
教師とは
と自信満々にご指導なさる御仁たちの厚顔無恥さに
辟易します。

小学校教師になって三十七年になります。その間、(二年間の組合専従の期間を除いて)ずっと担任教師として教壇に立ち続けることができたことは、色々な条件が重なったとは言うものの、幸せなことでした。時代を教師としてどう生きてきたか。そして、どのように教師として終焉の幕を下ろすのか。改めてふり返りながら次のように自問してみるのです。

平和のために、
民主主義のために、
憲法と教育基本法をこよなく大切にして、
子どもの前に立っていたか。
憲法と教育基本法をこよなく大切にする人々の中にいて、
人々と連帯して歩いてきたか。
子どもたちといっしょに未来を語った、
宝のような事実をいくつ握りしめているか。

その上で、長く教師を続けてきた者が、今その教師の幕を降ろそうとする時にきて、教育の理想に胸ふくらませて子どもたちの前に立たれている若い教師の人たちに届けたいと思うことがあります。

1 すべての子どもを愛すること、けっして切り捨てないこと。
2 子どものくらしやねがいや思いを深く想像すること。
3 ことばの質量を軽んじていないかと。
4 教育はだれに責任を負うのかと。


一.すべての子どもを愛すること、 決して切り捨てないこと

 それが子どもの前に立つことを決意した人間の責任です。教育を一生の仕事として選んだからには、私たちはずうっとそのことを思い続けていきたいと思います。容易なことでなく、誠実でありたいと思えば思うほど、悩み傷つくことが多いわけですが、しかしやはり思い続けていってほしいと思います。

 私は若いころ、人間に直接関わる仕事につきたいと思っていて、教師はその選択肢の一つでした。教職についてからは子どものことをただもっと知りたい分かりたいと思うばかりの青年教師でした。

 いろいろな先輩に学びながら教師になっていくのですが、なかでも今もまざまざと浮かんでくる、私が二十代のころの忘れられない光景があります。

 それは子どもに出す一枚一枚のハガキに美しい絵を描き、言葉を添えていく先輩教師の姿でした。「この子はなあ、学芸会で『さるカニばなし』のカニの役をー」そういいながら、ゆっくりと絵筆を動かせながら、カニの絵に色づけして、ちょっと考えては、絵の横にその子へ温かい言葉を添えていくのでした。その横顔をみながら私は何ともいえない静かな感動が自分を包むのを感じていました。今にして分かることですが、そのとききっとその先輩は脳裏に一人一人の子どもの顔・姿を思い浮かべながら、静かに励ましておられたのです。それが静かな感動となって伝わってきたのにちがいありません。ああ、自分もこんな教師になりたい、そう思いました。隣の学校にいたその先輩が京都の民主教育運動の担い手でもあった故藤原富三さんです。

 当時、私たちのまわりには、権力におもねることなく、さっそうと教師の道を生きている大勢の先輩教師たちがいました。その中で私たち若い教師たちは教師とは何かと育てられてきたのです。

 子どもたちがどのような発達の芽(可能性)を内に秘めているか。当の子どもはもちろんのこと、私たちにもはかり知れないものがあります。人間の能力はいつどこでどんな形で花咲くものかわかったものではなく、そこに人間の発達のおもしろさ、複雑さがあると言えます。

 出会いと触発、内なるものに動かされるようにして子どもたちは自らの可能性を自ら引き出しながら発達していきます。その手助けを私たちはしているのだと思います。人間に対する謙虚さと人間存在の重さを忘れないようにしたいと思います。管理や締め付け、おどしで人間は伸びるわけがありません。

『教えるとは、未来を共に語ること、 学ぶとは、誠実(まこと)を胸に刻むこと』

 これはフランスの詩人、ルイ・アラゴンの言葉ですが、教える私たちに新しい世の中(未来)を創っていこうとする意志がなくては、子どもたちと未来を語れるはずがありません。

 理想をかかげて未来を指向する子どもたちのまなざしの輝きをイメージしてください。今、私たち自身のまなざしも少しは輝いているかと問い続けながら。


二.子どものくらしやねがいや思いを 深く想像すること

 子どもたちを囲む環境は、子どもたちにとって、ますます厳しいものになっています。伸びようとする芽を阻害されて、悩み、ゆがみ、もがいている子どもたちが大勢います。

 子どもの喜びや悲しみや辛さを、私たちは共感的に受け止められているでしょうか。子どもの声にじっと耳を傾け、こどもたちのくらしやねがいや思いを想像してください。立ち止まって、深く想像することが大切だと思います。生の子どもたちの声や姿や表現物(日記・絵画など)を注意深く丁寧に読み込んで、その子の発しているメッセージを、たとえそれがどんな微量なものであったにせよ、感じ取る受信器を磨きつづけてほしいと思います。私にはできていると言っているのではありません。自分もそうでありたいという願望です。

 私はそれを子どもたちの作文や詩や日記を指導する生活綴り方教育から学んできました。ここで少し私と綴り方教育の関わりについて書きたいと思います。その出会いと学びが私の教師人生を決定づけたと言えるからです。

  教師になって以来子どもをもっと知りたいという思いから日記を書かせてきた私は、民間教育団体の日本作文の会が主催する新潟の全国大会に一人で参加しました。教師四年目の夏でした。大会の夜、京都から参加していた人たちが京都に自主・自立の生活綴り方のサークルを立ち上げる相談がありました。私もその輪の中に加わることができ、翌年の京都綴り方の会の発足に参加。以来生活綴り方サークルで仲間とともに勉強を続けることができたのも幸運でした。

  子どもたちのくらしや願いが込められた作文や詩や日記に、胸を熱くさせられ、その胸の熱さが私に文集を作らせ続けました。

 子どもをどうとらえるのか、教育とは何か、教育研究の自由とは何か、その根本から学ぶことができたと思っています。

 そればかりか、教育運動とは何か、仲間とともに働くとはどういうことかも学びました。この両輪の学びが私のかけがえのない財産となりました。

      *       *       *

    先生に聞いてほしいこと
                        五年 男児  
先生、ぼくな、手や足がぶきようなんや。  
なんでかいうと  
生まれてすぐ黄だんになったんや。  
そしてそれがなおってから  
また、はいえんになってしもたんや。  
手や足、そして口も  
つかえることはつかえるにゃけど
ふつうの人とちがって 
ぶきようになって しもたんや。
今までも そのことで なんべんでもなかされたことがある。
ぼくは ゆびがぶきようやら 
ことばがへんや、といわれるのが
一番いやなんや。
だから このこと だれにもいわんでほしい。
                      (1974年4月)

      *       *       *

 私は人間的な教師でありたいと思いました。私は子どもたちの前で人間的な顔をして立っているだろうか、子どもにとって、自分はどんな存在として映っているのか、子どもの側に立って、自分を想像してみることがあります。教師の仮面をかぶった者としか子どもの目に映っていないとしたら、子どもは決して自分の素顔を見せないし、心を開かないと思うからです。

 どんなに繕っても、教師は、子どもの前では指示を出し、教える人の面を着けていることはぬぐいようがありませんが、その面の中に柔らかい人間の顔があるかないかは、子どもたちが見抜きます。

 はたして自分は子どもたちの前で人間的な顔をして立っているか。若いあなたも、ときどきは、何度も繰り返しては、人間を映し出す鏡の前に自分を立たせてみてください。  


三.言葉の質量を軽んじていないかと

○「子どもとともに歩む」

 だれもがそうありたいと思うことです。教師になってよかったと感じるのは、新鮮な感動をともなって、まさに子どもとともに歩んでいると実感したときです。

 では、ただただ子どもといっしょにいればいいのかといえば、そうではありません。できた喜びやわかった喜び、達成感などを子どもと共有できる幸せと一緒に、子どもの悲しみや辛さに心痛ませながらともに歩もうとするのが「子どもとともに歩む」ことです。

 ともに歩みながら、子どもに教え、教えられて、教師は成長します。子どもとともに歩んでこそ教師も人間になっていくのです。

○「信頼」

 あんなに約束していたのに信頼を裏切った、などとよく使われますが、「信頼」という言葉は、もともと、無数の傷を負った言葉です。

 教師と子どもの関係においても、積み木崩しのように、積んでは崩し崩されて、やがて「信頼」という文字がほのかに姿を現わします。ほっとしたのもつかの間、たくさんの傷を負った心を癒す間もなく、また次の課題が待っています。たくさんの厳しい物語を経た末の「信頼」。教育はこの「信頼」の二文字の上に成り立っています。

 「子どもとともに歩む」「信頼」。使う資格の無い者ほどこれらのことばをよく使うという笑い話がありますが、これらの言葉を軽く扱ってはなりませんし、同時にこれらの言葉にこめられた真の質量を低下させてはならないと思います。


四.教育はだれに責任を負うのか

 最後に、「教育はだれに責任を負うのか」と思いつづけてください。教育基本法第十条に、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」とはっきり書かれています。歴史の教訓を込めた教育本来のあり方を高らかに宣言しているのです。

 だれのための教育かと問うときの支柱がここにあります。子どもたちのためによい教育をしたいとまっすぐに願う教師たちにおそいかかる様々な攻撃を前にしたとき、この文言はますますその重みと輝きを増してきました。

 私は、これまでこの文言にどれほど勇気づけられてきたことかと思い起こしながら、今、その文言を変え、教育基本法と憲法を改悪しようとする企ての大きな動きを、ぜひとも民衆の力で止めなくてはならないと思っています。その民衆の一人として行動することが、子どもと教育を守る教師の責任でなくてはならないと思うのです。

   (本稿は京都市教組「みんなの教育」に掲載したものに加筆修正したもの)
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