トップ ひろばもくじ ひろば141号もくじ
特集 教職員評価制度と教育実践

教職員評価制度の問題点


−−教職員評価が学校をダメにする−−

                 市川 哲(京都教育センター)


先生の評価について

 先生のランクづけ(教職員評価)が2000年度に東京都で始まり、香川県、神奈川県、大阪府など全国に広がっています。京都府では04年度に35校で、来年からは全校で試行され、06年度に本格実施の運びです。京都市も3段階で評価する案を出しています。文部科学省が「"できる先生"を優遇することで教員の意識改革を促し、学校を活性化する狙い」で「学校にも競争原理を持ち込むことが必要と判断」したからだとされています(「毎日新聞」(2003年01月22日)。

 さらに評価を給与と結びつける「成績主義賃金」が、東京都では05年度から、全国的にも06年度予定の公務員制度の見直しに併せて導入されそうです。"先生は子ども達を点数で評価するのだから先生の評価もあってもよい"とか、"会社では仕事で評価され、賃金に差が出る。学校でも同じ"という声も聞こえてきそうです。 "がんばる先生はそれなりに評価されるべきだ"という考えは教職員の中にもあります。

 すべてが客観的で妥当であるかは別にして、父母は"あの先生は教え方が上手だ"とか"子どもをよくつかんでいる"など、先生の「値ぶみ」をしてきました。また子ども達も"○○先生、大好き"とか"えこひいきしはる"などの意見や感想をもってきたはずです。良い評価の場合は直接、間接に当の先生の耳に入ることもありますが、悪い評価の場合は改めてほしいことでもなかなか当人に伝えにくい(伝わりにくい)ものです。私は、公開授業や研修を通じて教職員同士が相互評価を行うことに合わせて、こうした父母や子ども達の声が風通しよく学校に入りこみ、教職員や学校の教育活動が改善されるきっかけになる学校づくりが望ましいと考えています。

 問題は、導入されようとする教職員評価が本当に教職員の資質向上に役立ち、学校教育の改善、ひいては子どもの成長や発達にプラスになるものなのか、ということです。


教職員評価制度の特徴

 いま全国で制度化されつつある教職員評価には"目標管理"が導入されています。目標管理とは、組織が達成すべき目標や経営戦略の範囲内で、最終的にどこまでやるのか、どういう結果を得るのかを明確にした従業員の活動を管理職が管理し、効果的に組織の目標実現を図ろうとするものです。

 京都府の場合、各教職員が学校目標をふまえた自己目標を評価者(第一次評価者である校長)と面談のうえ年度当初に設定し、以後、中間面談、そして年度末の最終面談をふまえ、評価者がA、B、C(Cが一般的な資質能力)の3段階で評価します。なお、年度をとおして校長は教職員の職務遂行状態を把握し、指導助言することになっています。評価結果は研修、人事配置・人事異動に活用され、「公務員制度改革や給与制度改正に配慮しながら、教職員の励みにつながるように活かされるべきである」とされます(「教員の評価に関する調査研究会議」の「中間まとめ」)。

 同まとめは「教員評価」と「学校評価」を"車の両輪"とし、教員評価の最大のねらいを「府民の信頼に応える開かれた学校づくり」におきます。そのために、(1)説明責任(アカウンタビリティ)を常に意識し、積極的な学校情報の発信とそれに対する家庭や地域社会からの具体的な反応を的確に受け止めるなど、双方向の情報交流を学校経営に生かす、(2)管理職による的確な指導助言により、教職員自身が自己の能力や適性を自ら認識するとともに、その資質能力を向上させながら、各自の力量を最大限に発揮できるようにする、としています。

 教育のための組織である学校で教職員が学校教育目標をふまえて自らの目標を立て、その実現に向けて年間を通して努力する、その努力の過程や結果が評価されるわけで、そこには何ら問題がないように見えます。例えば会社の営業部が今年は100の商品を売るという部全体の目標を立て、部長の指導のもとに部員が自分は15個売りますという自己目標(ノルマ)を持ち、年間を通じて部長のチェックを受けながら働き、年度末に目標をずいぶん多く超えて達成したからA、目標通りだったのでC、という具合に。

 しかしながら、実はたくさん問題がありそうです。ここでは、学校教育目標をふまえてたてる自己目標に関する問題と、利潤を追求する企業と同様に学校をとらえる教職員評価制度によって学校そのものが変質し、自律性を失うという問題を見ていきます。


学校教育目標は「学校経営計画」に具体化される

 学校教育目標がどのようなものかご存知でしょうか?これは、学校が教育活動で追求する理念であり、方向性、よりどころ、目安とされるもので、例えば「自ら学び、明るく、生きぬく子」とか「生き生き はつらつ 命がかがやく学校」のようなもので、額に入れて校長室に掛けてある場合もあります。毎年変えるというものでもなく、また抽象的かつ理念的なものなので、十年以上あるいは創立以来、変わらない場合もありそうです。

 したがって、抽象度の高い学校教育目標ふまえて自己目標をつくれといわれても各人各様のものとなり、結果的に組織としての学校経営に役立ちません。そのため学校教育目標はより具体化される必要があります。先行する広島市の場合、「学校教育目標−目指す学校像(ビジョン)−中期経営目標−短期経営目標−具体的方策−評価−次年度以降の課題と対応策」を内容とする「学校経営計画」に具体化されます。また東京都では「目指す学校−中期的目標と方策−今年度の取り組み目標と方策(教育活動の目標と方策、重点目標と方策)」を内容とする「学校経営計画」がこれにあたります。この「学校経営計画」は父母や住民に学校がどのような目標のもとで、どのような教育活動を行っているのか、そしてどのような成果を達成したのかを知らしめ(説明責任を果たし)、父母や住民からの評価を受ける対象となるものであり、同時に教職員が自己目標を定める際に依拠すべきもの、ということになります。


学校教育目標、学校経営計画はどのようにつくられるべきか

 理念とは目指すべき方向を示すものであり、自分たちが進む方向や取り組んでいる内容があるべきもの、実現すべきものから外れていないか、誤っていないかなどを検証し、立て直す時に役立つものだといえます。こうした役割は教育基本法にも求められるものであり、したがって悲惨な戦争の反省をふまえてつくられた教育基本法が理念的かつ抽象的であるのは当然だと考えられます。私達は教育基本法の指し示す方向を目指しつつ、現実の教育や教育制度が教育基本法の理念から逸脱していないか、正しくその実現を図っているのか、などを検証することになります。したがって、学校教育目標もある意味、抽象的にならざるを得ません。もちろん、学校教育への子どもや父母の参加を考えた場合、学校教育全体に係わる理念を示す学校教育目標を校長一人がつくるとか、教職員だけがつくるということは誤りです。子どもや父母、そして住民の参加のもとに、子どもや父母の要求や実態、地域の実態、社会の教育への期待などをふまえ、教職員が専門的な役割を果たしつつ学校教育目標をつくるのが本当ではないでしょうか。

 このようにしてつくられた学校教育目標は、子どもや父母、住民の参加のもとに学校経営計画として具体化される必要があり、もちろんその際、教職員は教育の専門家としての役割を果たすべきです。このような学校教育目標と学校経営計画であるならば、教職員が学校経営計画をふまえて自己目標を設定することはある意味、必然だと考えられます(専門的な見地からの留保、実践による検証等の重要な論点や学校経営計画と学級経営計画や教科教育・生活指導等の計画との関連などの議論が残されていますが)。教職員が設定した自己目標は教職員一人一人の教育実践の目標であると同時に、教職員が組織としての学校の教育活動を担うための目標でもあるので、自分自身の教育実践に係わる教職員評価と学校の目標実現に関する活動に対する教職員評価もあり得ないことではないと思います。もちろんここでいう評価は、学習評価と同様、当人の目標達成度の評価であると同時に、学校としての学校経営計画を含む組織活動の検証に係わる評価でもあります。


新しい段階の学校づくりの取り組みを

 もちろん広島市や東京都の、見るからにビジネス、企業経営をモデルにした「学校経営計画」のあり方を認めるわけではありません。従来、京都などでも行っていた学校づくりは、それぞれの学校が子どもや地域の実態をふまえた教育方針を作り、それを具体化する方策を考え、学年経営や学級経営、教育実践に活かし、それを年度末に集団的に総括し、次年度の改善に活かすものでした。行政が今強調してやまない「P−D−C(S)−A(Plan-Do-Check<See>-Action):計画−実施−評価−改善」サイクルは京都の教育実践がすでに三十年以上も前にやっていたことです。こうした取り組みを子どもや父母の参加と合意のもとで行い、子どもや父母、住民と教職員との風通しを良くし、子どもを真ん中において率直な意見交流を行い、学校の中でも同僚性をふまえてお互いに高めあうならば、教職員の資質の向上が大いに期待できます。

 近年、多忙化と管理強化の中で職員会議をはじめ各種の会議が形骸化し、学校で日々起こる教育課題をふまえた教育論議が深まらず、またベテランの教職員の知識や知恵、経験が若い教職員に伝わらない状況がうまれています。学校における教育活動をふまえた現職研修(on the job training)を活発化させることによって教職員の資質を大いに改善することができます。

 やせ細ってしまった学校現場における研修を再組織し、活発に展開させるためには管理職の教育的な役割が大きいといえます。管理職は日々の教育実践を素材とする研修の場で自ら教育者としてリーダーシップをとる必要があります。実はいま学校現場に、こうした力量をもつ管理職がほとんどいないのです。このことが学校における教職員の資質向上にとって大きな問題点の一つです(企業出身の教員免許を持たない校長の登用に見られるように、行政は校長に教育者としての資質や能力、役割を期待していません。企業組織を経営するように学校をマネジメントする能力こそが管理職に求められており、企業と同様にトップダウンで「改革」を導入する役割が期待されています)。


実際の「学校経営計画」とは

 学校経営計画が子どもや父母参加のもとに教職員の専門性も活かして決められるならば、それは教職員の自己目標になりうるのではないか、と考えるわけですが、しかし実際の「学校経営計画」はそのようには決まりません。建前として校長が決めるとされており、その際、例えば東京では東京版学校評議会である「学校運営連絡協議会」などの「外部の声の導入」をうたっています。しかし、実際には教育庁内の部を超えた横断的な組織である「都立学校経営支援委員会」によるヒアリングを受けて校長が作り、計画にもとづく評価結果も同委員会に報告されます。

 いうまでもなく教育庁は東京都全体を見とおした目標と行政計画をもっています。それから外れる「学校経営計画」は考えられないので、校長はヒアリングを通じて行政が承認する範囲内で「学校経営計画」を策定し、学校でその具体化や執行を管理することになります。特色ある学校づくりがいわれますが、学校の創意や工夫、特色も行政が認めて(行政が認めたくないものにはダメ出しし、また学校にやらせたいことは「指導」する中で取り入れさせて)はじめて出せるものだと考えられます。校長が教育委員会の意向を無視し、それを超えて行動することはあり得ないので、結局、「学校経営計画」を通じて教育委員会が学校をしっかりコントロールし、行政の意図が「学校経営計画」を通じて学校に入りこみ、具体化されます。

 「学校経営計画」がこうしたものであるならば、それを自己目標に具体化する教職員は見事に行政の意のままに活動することになります。教育基本法10条は、教育は不当な支配に服してはならないことをうたっており、教育行政も不当な支配の主体たり得ることは教育法学の常識です。目標管理手法を用いた教職員評価は、実は学校をまるごと教育行政の意のままに動かす機能を果たすものであり、教育基本法10条との関係で大いに問題があります。

 なお「学校経営計画」に関しては特に数値化した目標を掲げることが奨励されます。そのため数値目標として、都立高校の場合は大学名を挙げた進学者数や試験等の受験数や合格率、中学校訪問の回数(それが子どもの教育にどうプラスになるのか?)を挙げる例もあります。小学校の場合は花壇に年間を通じて3種類上の花を絶やさない、名前を呼ばれたら「はい」と返事が出来る児童80%以上、などというのもあります。また広島市では数値目標を作る際、「全国平均、政令市平均等の目標値などを基準として目標値を設定」「学校の過去の最高(最低)値を基準として目標値を設定」などの例を挙げます。瑣末で、教育にとって本質的な意味をもたない数字で教職員が追い回される様子が目にみえるようです。


企業経営の手法は万能か?

 先に東京都や広島の教職員評価が企業経営をモデルにしていると指摘しました。実はいま、行政の仕事やサービスに企業経営のやり方をまねる手法がまかり通っており、それが学校教育にも押しつけられているのです。

 確かに行政機関には非能率的な面があったり、住民や国民に親切とはいえなかったり、時には「お上」の威光を借りて横柄であったりする場合がないとはいえません。企業の場合、例えば商品を売る時、コスト意識をもってお客さんを丁寧にもてなし、買ってもらう際のサービスにも、また商品そのものにも満足してもらわなければリピーターにはなってもらえません。こうした企業のやり方を行政に持ち込めば、上に見た問題点はすべて解決できるではないか。これが行政に企業経営のやり方を持ち込む素朴な仮説です。

 民間企業の効率重視、顧客重視の考え方、手法を行政のあらゆる場面で生かすために「行政の経営に民間経営の手法を取り入れる」という考え方を「新しい公共管理(New Public Management:NPM)」といいます。これは80年代の半ば以降、イギリスやニュージーランドで生まれた考え方だとされています。

 ところでいわゆる「お役所仕事」にはいろいろ問題がありますが、企業のあり方やしごとの仕方が絶対に正しいと言い切ることができるのでしょうか?この間の銀行やゼネコンの倒産と何十兆円にも及ぶ税金の注ぎ込みは放漫で、デタラメなバブル時代の企業経営の結果です。財界の重鎮が会長を務める企業は株を不法に多く所有し、傘下の鉄道会社などを支配していました。国と地方を合わせて700兆円を超える借金の原因は、主に「箱モノ」や"車より熊の数が多い"高速道路に代表されるムダな公共投資を行った国や自治体と、それを食い物にしたゼネコンをはじめとする企業です。したがって、企業経営は正しいからそれを行政がまねなければならない、というのは虚構(作り話)のように思えます。

 しかも企業経営の目的は利潤追求であり、そこは"儲けてナンボ"の世界です。金儲けを図る企業独自の論理が経営にもあるはずです。しかし行政の行う仕事には、例えば全国どこでも憲法25条の求める福祉や医療、教育等に係わる人間らしく生きる権利を保障する仕事があります。そこでは儲かるからやる、儲からないのでやめるという姿勢は許されません。国民の健康や福祉、権利保障に係わるナショナルミニマムのためのサービスに儲けを追求する企業論理を導入する事には無理があります。

 そこで持ち出されるのが企業も行政も(学校も)"組織"という点では一緒なのだから、組織経営という面では一般的な「理論」があり、それが通じるはずだ、という仮定です。その当否を論じる余裕はないですが、組織は特定の目的実現のためにつくられるもので、例えば軍事組織(時には効率的に人を殺すことを目的にする場合もある)も学校の組織(子ども達の人間的な成長と発達に働きかける)も、また企業の組織も経営的には一緒だという言い方は乱暴すぎます。


お金で教職員の「やる気」を買うつもり

 あからさまではないにしても教職員評価には企業の組織経営の論理が貫かれています。組織のパフォーマンス(目標実現に向けた構成員の志気=モラール<やる気>や組織としての活力、目標達成度など)を高めるために、企業の場合、「報奨金」を出したり、人事考課を行って給与に差をつけたりします。組織の構成員誰もがいつもやる気があり、目標の実現に邁進し、組織自体もより良い方向で自己改善するとは限らないので、がんばれば個人や組織が報償される、逆にがんばらなければ罰を与えるというインセンティブ(誘因)が報奨金や給与の格差ということになります。

 教職員評価によるランクづけや「優秀教員の表彰制度」、さらには評価と給与をリンクさせ、また評価を人事に活かすという制度はまさにこのインセンティブの機能を果たします。こうしたインセンティブで「やる気」を奮い立たせた教職員が実際は教育委員会発の「学校経営計画」をふまえた自己目標を校長と面談の上で決定し、その成果を評価者である校長が評価するというシステムが教職員評価制度です。これが実施されると教育委員会の意図するところがオートマチックに学校で教職員によって担われるという状況が作り出されます。教職員評価制度の導入によって学校は意識改革された教職員の「やる気」に依拠しつつ外部からの意図が貫徹される組織へと変化します。ここに教職員評価制度が目指す学校像があり、教職員評価制度の本当の目的があるように思います。


「お金」や報償をインセンティブに動く教職員を望むのか

 教職員の多くは子どもが好きだ、子どもとともに成長したい、子どもと未来を語り合いたい、などの夢とロマンをもって教職に就きます。しかし、教職員評価制度によってこうした夢とロマンは教職員から引きはがされ、「お金」や報償を動機にして目標に向けて邁進する教職員が高く評価される学校ができあがります。

 子どもの教育を考える時、私達が教職員に求めるのは、目の前の子ども達の成長や発達をふまえ、教育的な働きかけの目標を持ち、それを具体化する教育内容や方法を子ども達の実態に合わせて工夫し、その働きかけの結果を評価し、次の段階の教育実践に活かせる教職員です。したがって教育活動の原点は、あくまでも目の前の子どもにあります。教職員がもつべき目標を、子どもや親の参加のもとに教職員が専門性を発揮してつくり、ともに確認し、その実現に努力する教職員(集団)を親や住民が支え、励まし、時には建設的な批判も行うような学校こそが本当の意味での開かれた学校です。

 教職員評価問題で問われているのは、実は「お金」や報償をインセンティブにして動く教職員か、子どものための学校づくりに努力する教職員かであり、私達親や住民がどちらの教職員を望むのか、ではないでしょうか?
「ひろば・京都の教育141号」の申込は、こちらまでお願いします。
トップ ひろばもくじ ひろば141号もくじ