事務局  2016年度年報目次 


京都教育センター第47回研究集会 分科会報告


第7分科会
〜真実のことばを子どもたちに〜

                 相模光弘(教科教育研究会 国語部会 事務局)

 

1.【基調報告】       「国語教育と人間形成」    審良光昭(向日市 第4向陽小)

 「しっかりと読むことや書くことがなされない学習の中では、ことばの力は身についていかず、国語教育は成り立たない。読むことや書くことは自分が生きることにつながる」として、「国語教育はことばを通して人格の形成にかかわる教育」であり、[現実の生活をリアルにとらえ、生きる理想や筋道を考える力がことばを通して育っていくのが、国語教育ではないでしょうか]と訴えかけた。

〔意見交流から〕

 基調報告にかかわる意見交流とともに、参加者の国語教育についての問題意識や現状を交流しました。その中で、「しっかりと読むことや書くことがなされない学習」の実態も指摘されました。

 学習指導要領や教委・学校が指定した「スタンダード」の枠組みの中での学習が強要されている。学期末の成績処理をソツなく遅れずに進めなくてはいけないために、ていねいに時間をかけて学習する時間が奪われている現状も指摘されました。

 また、「国語教育がことばを通して人格の形成にかかわる教育である」という、今までから私たちが大切にしてきた意義について、それは具体的な実践の中でどのように確認することができるのだろうか、との問題提起もありました。実践研究で一つの実践を検討するにあたっては、その指導・学習過程のどこにどういう成果を見いだすことができたのか、私たちの目標に即して実践の内容を意味づけながら検討することが大切であるとの指摘だったと思います。


2.【レポート報告】
(1)小学校・低学年の作文教育「作文を読み合う子どもたち」       相模光弘(向日市 第2向陽小)


 報告のテーマは、「子ども一人ひとりを 表現を通して学級の中に位置づける 〜子どもの作品を まんべんなく一枚文集に載せて読み合う〜」である。「一枚文集に子どもの作品を載せる時、どの作品を載せるかは、担任として思案するところです。その子が「がんばってるな」「その子らしさが出ているな」…と思える作品は、ぜひ載せたいと思います。

 ― 朝、教室に入ると、「先生、今日『たぽんぽ』(文集の名前)ある?」と、私に聞いてくる子が少なからずいます。― 読み合う際、私はまず教室の黒板の下に置いてある長椅子を動かします。その日の文集に載っている数人の子が座るためです。子どもたちは私が長椅子を動かし始めると、「うわ、『たぽんぽ』や、やったー」と次の活動を察知します。 ―

 子どもたちがどれほどその時間を楽しみにしているか分かる。

 まとめに「一人ひとりの子から、その子の笑顔をどう引き出していくか」が自分の楽しみであり、そういう活動を通して、「子どもたちは『一人ひとりを個人として大切にする』という価値観を身に付けていく」のではないかと問いかけた。

〔意見交流から〕

 報告では、数人の子どものプロフィールと作品が紹介されました。その中で特に、毎日のようにおもらしをしていたMが、2年生になってからの数か月でだんだんなくなってきたことが話題になりました。学級でのMと他の子とのかかわりややりとり、Mと担任との関係、Mにとって作文を書くときの心の持ち様が、おもらしが解消してきたことに関連があるのだろうか…。

 報告者は、「おもらしは、Mの精神的な不安定さに起因している」と捉えています。Mが他の子どもや担任に対する言動で、また作文による表現と学級での読み合いで、だんだん自分の思いを率直に出せるようになり、その言動や表現を周りの人たちがそれなりに受けとめてくれるという思いが、安心感に繋がっているのではないかとの見解でした。

 子ども個々にとって、書くことにはどう意味があるのか、その中で書く内容はどう変化していくのか。それを学級の中で読み合うことには、どんな効果が期待できるのか。このことを常に考え続け、そういう視点から子どもの実際の姿と変化を見ていくことが大切なのだと思います。

(2)小学校・中学年の文学教育 あまんきみこ作『ちいちゃんのかげおくり』     得丸浩一(京都市西京極小)

 報告は、3年生の教科書教材(光村図書)である。報告の中のCの場面の授業から、@の場面のかげおくりとCの場面のかげおくりを対比させ、現実のかげおくりと幻想の中のかげおくりの違いを読ませる。なぜそのような授業設定をしたのかが論議となった。

 「4場面では、ちいちゃんが家族にあえた時はよかったなあと思っていたけど、いまはかわいそうだなあと思っています。なぜかというと、ちいちゃんはもうしんでしまったと思うからです。5場面では、ちいちゃんがげんじつでわらえなくてかわいそうだと思います。なぜならちいちゃんのわらった場所は、ちいちゃんのくうそうだからです。」

 上記のような授業後の子どもたちの感想とともに、その子の普段の日記や作文が付け加えてあった。子どもの文学の読みを、その子の個性(生活)とつないで理解しようとする意図をもって報告された。

〔意見交流から〕

 「授業」の様子を報告の中に記録として掲載することは、報告者にとって多大な労苦です。けれども、その記録をもとにして実践内容を具体的に検討することが、参加者の共通理解と検討するべき視点をより明らかにして、交流・議論を深めることができます。本報告では、授業記録がていねいに提示されていたので、その内容に沿って具体的な議論・交流ができました。

 この実践では、Cの場面の形象をもっとていねいに読んだ上で、場面@とCの「かげおくり」の違いを比較した方がよかったのではないかとの指摘が出されました。この作品の中で特に場面Cは、ちいちゃんの生命と意識がだんだん弱くなり消えていく様子が描かれており、読み手にとってもどこまでが現実なのか幻想なのかがわかりにくい情景です。表現されている「ことば」をよりていねいに読み、複数の子どもの読みを重ねることによって、場面の情景がより豊かに想像することが可能になるのではないか。場面の形象をていねいに読むことによって、場面@とCの違いもよりはっきりと理解し想像できるのではないかとの指摘でした。

 文学作品を読む場合私たちは、作品の中の「ことば」を形象化できる力をつけることが大切だと提起してきました。その主張は変わりませんが、作品を「全体として捉える」ときに、物語の展開・構成を因果関係として捉えることも重要であるとの議論をしています。この作品では場面@とCで登場する「かげおくり」の違いを考えることが、作品の構成を考える上で大切ではないかとの提案がありました。残念ながらこのことについての検討が、今回の議論の中では十分にできたわけではありませんが、子どもにとって「文学作品を読む」とはどういう活動なのか、それを読む際に指導者として留意するべきことは何かを明らかにしつつ、実践内容を検討することが必要です。

(3)高校の文学教育  村上春樹作『鏡』            荻野幸則(東山高校)

 報告は、ノーベル賞が近づくといつも話題にのぼる村上春樹の「鏡」の授業報告であった。鏡は何を映しだしたのか。

 生徒たちの感想の一部を紹介する:

 □この文章中の「自分」は鏡を木刀で割り、そして逃げた。これはおそらく、鏡に映った「自分」からの逃避を表しているのだと思う。僕はこの文章を読んで、「現実逃避」という言葉を思わされた。今の自分を正当化し、そして本当の自分から逃避していくことは、本当に正しくないものだと思った。

 □自分の大切なものがなくなってしまったことは、他人からみるとどうでもよいかもしれないが、自分にとっては言葉にできないほどの悲しみがあるだろう。鏡には、自分の弱さが見えたのだろう。

〔意見交流から〕

  高校の教材は文量も多く、内容も難解になっていきます。村上春樹のこの短編も、内容は現実とはかけ離れた不可解?なところがあるものでした。作品が不可解であるがゆえに、生徒がその内容をどう受けとめるか、興味深いものでした。

 多くの生徒が、主人公の時代や人生からの「現実逃避」を感じていました。生徒はどこから「現実逃避」を感じたのだろうか、はたして「現実逃避」と捉えることは的確な読みと言えるだろうかが、話題になりました。このことについての意見交流は時間の関係で十分にはおこなえませんでしたが、作品がストレートには理解しがたいものであるがゆえに、生徒がこの作品をどう読んだかに密着することはとても興味深いと感じました。

 教材の文量が多ければ多いほど、授業で言葉一つ一つをていねいに読み進めていくことは難しくなります。同時に指導者として、毎時間の「読むポイント」をどこに置くかを精査することが必要になります。生徒自身が作品にどう向き合い自分で読んでいくか、その読みを深めるために指導者が何を示唆すか、授業ではこの兼ね合いが大切になってくるのだと思います。

3.参加者の感想

○ 今の時代と教育、子どもや青年の読みと指導と深く考えることができてよかったです。青年や子どもから形象や意味が立ち上がる場面に立会いたいと思いました。

○ 読むこと・書くことということについて、深く考えさせられました。ことばをていねいに読み、形象を読み合い、一人ひとりの読み手が心(感情やイメージ)を動かし、深く考えるところに国語の学力の根幹があると思わされました。また、自分の生活や思いをありのままに語り、書く中で、自分や他者の姿や心を再発見し、自分のことばと思いをふくらませながら自分を育てていくことが、国語の学力の根幹にあると思わされました。相模さん、得丸さん、荻野さん、審良さん、ありがとうございました。

○ 小学校と高校の報告を基に議論しましたが、10人の参加者数は分科会としてはちょうど良く、議論は深まりました。学習指導要領がかわり、国語教育のさらなる変質が心配される中で、子どもの人格形成にかかわる国語教育について、さらに実践をもとに深めていく必要を感じます。

○ 小中高での国語教育実践が報告され、それにもとづいた議論や交流がおこなわれるので、とても学習になり、示唆に富んでいました。子ども(学習者)にとって、読むことや書くことにどういう意味があり、それが人格の形成にどうかかわるのかを考える機会になりました。その答えや手応えを感じることは難しいですが、具体的な実践の中から探し出し確認していくことが大切なのだと、あらためて思っています。

○ 国語教育が少しずつ変わってきているのでしょうか。子どもが変わってきているのでしょうか。もっと教材研究をしっかりやっていかなければ、大事なことがぬけてしまうような気がしました。子ども(生徒)の個人の読みと集団の読みの両方で、私たちは学んでいくだと感じました。

○ 国語教育分科会は授業の記録の中に、当然のことだが生の子どもの読みと表現が具体的に報告される。それを基に議論する。どんな子が、どこで、どのように読み取ったり、表現したりするのか。そして、それはどのような条件の下で可能なのか。その読み取りや表現はどんな意味があるのか。小学校・高校が一緒になって話し合われる議論は興味深かった。文学教育では作品論、作文教育では子ども論を土台にした論議を深めていきたいと思った。中学校の報告がなかったのが残念。次回は中学校からの報告を待ちたい。

○ 子どもたちが安心して自分自身を出すことのできる授業や教室が何よりも大切ということを改めて確信した分科会でした。ふんわりとやわらかくなっている状態なら、いろんなことが吸収できる、不安や緊張の中で、「何が正解なのか、どう答えるのが正しいのか」とかたく、こりかたまっている先生や生徒がふえてきているのかなと思います。

4.まとめにかえて

 分科会冒頭の「基調報告」では、報告者が参加したある公開授業の事後研で、授業者が子どもたちの発言の内容を「想定外の発言もあった」と振り返ったことが話題になりました。子どもたちの発言を「想定外」と受けとめることの意味は何か…。

 授業展開の中で子どもが発言するであろう内容の予測。それは、授業者の教材研究・指導計画と子ども理解によって想定されるものです。教材研究や子ども理解が十分におこなわれていれば、子どもたちの発言予測はより的確なものになります。にもかかわらず、そういう予測を超えた子どもの発言が出てくる…。

 そういう発言が出てくるのは、ある意味当然…。重要なのは、そういう発言を授業者がどういう姿勢で受けとめ、その後の授業展開でその発言をどう関連させていくかだと思います。「授業はいきもの…」を体感し、楽しめる授業者でありたいと願います。

 
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              2017年3月発行
京都教育センター