事務局  2016年度年報目次 


京都教育センター第47回研究集会 分科会報告


第3分科会
「次期指導要領改訂の動向と教育課程づくり」

                 島貫 学(学力・教育課程研究会事務局)

 

T. はじめに

 次期学習指導要領に向けての改訂作業が進行し、そこでは、「どのような知識・技能を教えるのか」のみならず、「知っていること・できることをどう使うか」「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか」にまで踏み込んで、教育課程の国家基準が示されようとしている。このような国家基準のねらいを批判的に検討しつつ、各学校や教師は、@今を生きる子どもたちをより深く知り、A知りえたことに基づいて自己および教育課程をつくりかえ、B子どもたちの表現を大切にし、共同で討論することによって、子どもたちに『生き方』の目標をつかませる教育課程づくりを進めていくことが課題となっている。

 本分科会では、この視点から、小中高での実践を基にそれぞれの分野の到達点と課題を議論した。参加者13名。


U. 基調報告

「次期学習指導要領の動向と教育課程づくり」   鋒山 泰弘(追手門学院大学)

 児童生徒の学力の現状をもとに、学校教育で何を教えることを優先するべきかという問題を議論する一つの素材として、国立情報学研究所の新井紀子氏らの「中高生は教科書を読めているか?」の研究を紹介したい。新井氏らは、人工知能・ロボット(AI)の技術が導入されることで、社会がどのように変化するかをテーマにした研究を行うために、AIの技術の精度を高めて大学入試問題を解かせる研究を進めてきた。新井氏らは、AI研究との関連で中高生に教科書から抜粋した文章が正しく読解できるかを調査しているが、その研究が今回の学習指導要領改訂の審議に関連して紹介され、新聞報道されている。

 例えば、「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」という教科書の文章を中学生に読ませて、「オセアニアに広がっているのは何か。仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥ教の4つのうちから選ぶとしたら、正解は何だろう」という読解力問題に対して、調査した中学生で正解の「キリスト教」を選べたのは全体の54%。35%が仏教を、12%がイスラム教を選んだという結果が紹介されている。この結果の発表の場では、「成績に関係しないから、いい加減に答えたのでしょう」という意見もあり(日本経済新聞2016/8/4)、生徒の学習実態に関してはより慎重な検討が必要であるが、「すべての子どもが、義務教育終了時に中学校の教科書を読めるだけの読解力を身に付ける」という教育目標の社会的意義に関心を向けさせたことは意味がある。

 小学校で「どの子にも基礎学力の定着と習熟」を実現することを追究してきた久保斎氏は、「国語の苦手な子は本当によく読み間違える。自分の勝手読みが多い。まず正確な読みの指導が必要」として、「逐語的読解の指導を庶民の子どもを賢く、たくましく育てていくための一歩」として位置づけた実践を行っていた。久保氏は「読解力の低い子は、自分が読解できているかどうか分からない」として、教師が行うべき「読解の初歩の指導」とは、文章の意味の「問い直し」を教師が小さなステップで設問として、子どもたちに出し、子どもたちが、その設問に答えようとして「問い直し」「読み直し」をはじめることであり、このようなことを繰り返すことによって、自分で「問い直し」「読み直し」ができる子に育てていくことを提唱していた。次期学習指導要領の様々な改革メニューに翻弄されない、教育課程づくりの軸をどこに置くのかということを、これまでの学力保障の実践の蓄積からも考えていく必要がある。

 学習指導要領の改訂作業にともない流布されている「アクティブ・ラーニング」の具体化について、学校現場でどのように受けとめるかという問題を議論する材料として、雑誌『教育』『教育』2016年10月号の「アクティブ・ラーニングを現場でどう受けとめるか」という中学校教師の関誠氏の実践を紹介したい。

 関氏は、「アクティブ・ラーニング」を現場で引きとってやってみよう考えて、中学校社会科歴史分野「荘園」の授業を次のように実践した。授業の目標として、「山野河海を含んだ『領域』としての荘園をとらえる」「住民はどのように生きどのように支配されたかが見える」「都と地方がどのようにつながっていたかが見える」を設定し、1時間目の授業を行った後、2時間目に「荘園の住人になりきって、荘園の風景や生活の様子を描こう」というテーマで作文を書かせる。3時間目には、6つの小グループを構成し、作文を発表し合い、それぞれについて「よかった点」と「改善できる点」を出させ合った。4時間目には、「荘園の風景と住民の生活」というテーマで小論文を書かせる。小論文の評価は、「荘園の景観」「住民の労働」「労働の甘苦」「住民の負担」「都市と地方の関係」「授業者の想定を超える理解」という観点で、ルーブリック(評価基準)づくりを行った。関氏によれば、生徒の87%の理解は「深まった」と認められたということである。

 標準的な中学校社会の年間指導計画で、「荘園」という1つの主題の学習のために4時間かけることは、通常は難しい下で、この実践は「土地支配と日本人の歴史」というテーマを生徒が自分の頭で考える学習経験をつくるために、「アクティブ・ラーニング」の手法を活用したものである。このためには、関氏が、「10ページにわたる全編カラー刷りの自作の資料集も準備して授業に臨んだ」と書いているように、教師の教育内容研究の自由と時間があることが必須の条件である。学習指導要領の改訂にともなうアクティブ・ラーニングの実施は、個々の教師が教育内容研究を深める条件とセットにして考えられなければならない。

【質疑・討論・意見】

◆(アクティブ・ラーニングに関わる関誠氏の「荘園」授業の取り組みについて)

・生徒の87%が、認識が深まったとしているが、生徒の声の紹介もないのでその評価が適切なものか判断できない。そもそも中学校での「荘園」の授業は大変で4時間も充てることにも無理がある。

・中世理解に荘園が重要という判断の妥当性が問われるべきだ。むしろ、「獄前の死人訴えなくば検断なし」に象徴される自力救済型社会であることを理解することが中世理解の目標となるべきだと思う。授業形態より授業目標こそ深められなければ意味をなさい。

◆(新井紀子氏の学力分析と日本語力充実重視の問題提起に関わって)

・読解力不足(20%の不正解)の分析・評価は妥当なのか。この種の調査に臨む生徒の姿勢(取り組み意欲)がどのようなものかが評価されなければならない。その上で、問題文を読んだ中での正誤を調べるというものでなければ正確な実態(数的)把握はできない。

・大学生でも授業評価アンケートで個々の項目を読まずに同一の選択肢を選んでいる姿をみることがある。

・読解力にかかわる「係り受けの構造を正しく理解する」の例示に示されている内容は誤りがある。「美しい水車小屋の乙女」の「美しい」のが「乙女」であるためには、「水車小屋の美しい乙女」の語順としなければならない。大人でもよく間違うここを、教師は授業で「問い直す」ことで、子どもに「問い直す力」をつける必要がある。その意味で良い教材(テキスト)が必要なのだ。


V. 実践報告(1)

「『呪縛』を解いてくれた子どもと父母、同僚、組合」   深澤 司(京都教育センター)

1.教育課程づくりを奪われた現場教師

 かつて京都府教育委員会は、「教育課程は、学校の行う教育活動の全体計画であり、学校が描く子どもの人格形成の筋道についての設計である」と、教育課程について述べていた(『昭和55年度教育展望』)。

 私が京都府南部の公立小学校の教員として採用されて2年目のこの教育課程観は、翌年度から変質。京都府教育委員会が推進した到達度評価実践と研究は、1985年の高校三原則つぶしと並行して崩壊した。蜷川民主府政落城から8年が経過していた。その1985年、私は2校目の勤務校として到達度評価実践の拠点校だった草内小学校に赴任した。それまでの到達度評価型の通知表から「新学力観」型の通知表へと強引な転換が草内小学校で行われた年だった。

 そして、教育行政は、「憲法」「教育基本法」「到達度評価」「自治」「発達保障」などの言葉狩り、「週案」の提出強要と内容チェック、指導主事「計画訪問」とそれに伴う指導案への介入など次々と権力的教育介入を強行していった。

 このようにして、京都府において教育課程づくりが現場教師から奪われていった。現場教師の、学習指導要領を批判・検討する意欲も時間も奪い、現場教師が口出ししてはならない絶対的な領域として呪縛がかけられていった。

2.教育という営みの主体を取り戻す

 だが、すべての現場教師が委縮したわけではない。私が所属する綴喜教職員組合の教研集会では、「1年に1回は、自ら実践を総括してレポートを書こう」という呼びかけに多くの組合員が意気高く応え、100本以上のレポートが毎年要項に掲載されることが2003年まで10年間続いた。さまざまな妨害が仕掛けられる中、レポートを書くことも教研参加もたたかいだった。

 教育という営みの主体を取り戻す。−教育課程をめぐる実践的な課題の第一は、ここにあるのではないだろうか。

 12年前、全日本教職員組合が「学校づくりの中心軸に教育課程づくりを位置づけよう」と呼びかけた。この取り組みは子どもや学校の実態によって出発点は多様であって、たとえ一人からでもここに挑む切り口はあるのではないかということが主張された。以下の実践は、ここに挑んだものでもある。

3.私の教育課程づくり《1》 「学年会」を大切にし、レジュメづくりを重視する

 私が同僚との教育共同の楽しさを発見し、実感したのは、教師になってようやく17年目、5年生担任3人による学年会の経験だった。正直、その充実感や楽しさは、それまでの孤立無援の「教育実践」とは異質のものだった。あぁでもない、こうでもないと語り合う中で身の丈を超えるような挑戦もしていった。学年会は創造の源泉だった。

 教育課程管理がどんなに強化されても、教育の「具体」の設計図をつくる裁量は私たち現場教師の側にあるのではないか。介入を可能にしているのは、私たちの側の過剰反応にあるのではないか。

 一方で私は、「学年会」のレジュメづくりを重視していった。

 学年会の出発点は「子ども理解から」というスタイルを確立するために、レジュメの第一項目では、日ごろの子ども論議を分析的に文章化することに精を出した。第二項目は「構想を練る」「課題の整理」とし、中期的な課題を俯瞰的に整理し、何がいま重要なのかを考えた。

 第三項目は「課題の具体化」で、当面する短期間の内に実施・解決しておきたい各教科と教科外指導の課題を具体的に書き出し、「いつ・いつまでに」「どこで」「誰が担当するのか」という実務的な確認をし、スケジュールにおとしていった。これが私たちにとっての「週案」になっていった。

4.私の教育課程づくり《2》 日刊学級通信を発行する

 私が大切にしてきたことの第二は、教員に採用されてから定年退職まで日刊で発行してきた学級通信の取り組みである。私にとって学級通信とは、@学級づくりをすすめ、教師・子ども・親の三者を結びつける機関紙 A子どものことが見えているかどうかを確認する「ものさし」であり、子どもの見方を鍛える場 B私の教育実践の構想を練る場であり、意味づけし、記録する場だった。日常の中に子どもと教育を対象化する営みを組み込み、父母との共同を視野に教育の営みを開く場だったということもできる。前述のレジュメや学級通信づくりも教職員組合の活動の中で獲得した思想と技術だった。

 私にとって「書く」ことは管理主義からの呪縛を解く鍵であり、「教育実感」を確認し、感性を取り戻す教師自身の生活綴方だった。こうした私の「学級通信」観の形成に深い影響を与えたのは、静岡大学の学生時代に出会った静岡市教組や教育サークルに結集する教師たちの生きざまと彼らが発行する学級通信や一枚文集だった。

 そして、子どもと父母の励ましと支えがあったからこそ日刊で学級通信を書き続けることができたということを強く思う。教育課程は誰のものかということを教えてくれた子どもと父母たちだった。

【参加者の感想・意見】

・国の管理統制の強化に対応して「私たちの過剰反応」が見られるという指摘だが、中間段階の地方(教育行政)、学校(管理職)が文科省の思惑を超えて現場裁量を狭めて解釈している構造が見受けられる。

・現場の「過剰反応」という点では、週案をそんなに具体的に書く必要もないのに時間をかけてキレイに作ってしまう。もっと違うところで力を発揮すべきなのにと思う。

・「はだしのゲン」を標的にした平和学習攻撃が盛んになり、図書調査(保守系議員の質問に対する答弁準備)などが始まると、平和教育そのものもできないといった腰の引けた反応が生まれてくる。「教育の自由」の主張をもっとしっかり行っていかなければならない。

・指導要領の改訂に対して、親も子どもは分断され、塾に走り、中高一貫校に期待を寄せている。この分断にどう対抗できるのだろうか。

・1970年代、「地域に根ざした教育」実践の成果として、親が発言したり行動したりするようになっていた。そんな中で草内小での到達度評価実践が崩されたのは、何が足りなかったためなのか。

・リーダーシップを発揮した立派な校長や中心教員が異動させられることによって崩壊した。一人二人でできる取り組みではなかったから多くの教員が参加した取り組みであったが、校内トップが入れ替わると、それまで表面化していなかった取り組みに対する疑問・不満を次第に口にするようになり、内部からの支持も失われていった。

・私の職場経験でも、組合員の抱いていた疑問・不満をすくいあげることができていなかったために職場攻撃に隙を作ってしまったことがあった。

・市内小学校のPTA役員の経験から言って、PTAの活動への教員の参加が極めて不十分。管理職が対応し、一般教員が関わることがほとんどない。教員が学校と教育の情報を保護者に伝えることが必要で、そのためにはPTA活動(委員会活動)に出ることだ。私の勤務した高校ではそのことを意識して、多くの教員が手分けしてPTA活動に関わった。

・「アクティブ・ラーニング」は元々我々が目指してきた方法論であったといいていいのではないか。その意味では、活用できるところは活用したらよいのだ。

・1980年代から府教委等からの攻撃の中で、組合で頑張っていた人たち次々に離れていきましたが、それまで組合の方針に対して疑問を感じていた人たちの内心を汲みとれなかったのではないかとの発言にはそうかもしれないと反省させられました。

・学校の管理が強まる中、地域とつながる実践が可能で有効ではないのか、そのことを再確認した。


W. 実践報告(2)

「学習指導要領のもと、何を大切にしてきたか?〜中学校社会科づくりの現場から〜」      辻健司(京都市公立中学校)

 退職後、再任用で務めている。学習指導要領の厳しい管理の下に置かれた学校と教育だが、直接生徒に向きあって授業するのは我々教員であり、攻撃をはねかえす余地は十分にある。工夫の授業づくりのためには教員自身が問題意識や社会意識を深めることが大切で、日々のニュースに関心を持ち、自分でよく考えることだ。

1 いまどんな社会科が求められているのか?

 世界はいまグローバリゼーションの大きな潮流とこれへの対抗としてのナショナリズムの台頭、紛争やテロが多発し、これを口実に軍産複合体が強化されている。

 一方、国内では、安倍内閣が経済政策(アベノミクス)行き詰まりにも拘わらず、依然高い支持率を維持している。なぜなのか。政権によるメディアへの統制が効果を発揮しているということだ。奮闘しているメディアもあるが、政府への同調、迎合、忖度が主流になりつつある。事実から目を反らすために、娯楽番組を充てがわれた国民は自分の頭で考えられなくされてしまっているようだ。社会科はここにメスをいれ、自分で考え、自分の意見を持てる生徒を育てることでなければならない。

2 学習指導要領のもとで

 大枠は規定されながらも、工夫の余地はある。わずかであってもそれが大事で、「抵抗の教育」と表現してもよい。教育行政が上から進める施策に対しても、利用できるところはしたたかに利用する姿勢が必要だ。「アクティブ・ラーニング」も活用できる部分もありそうだ。「中立性」を口実に現在の問題を取り上げること自体に過剰反応する現場の管理職が出始めているが、これについては正しく社会科の存在意義かかわる問題として妥協するわけにはかない。

 教科書は育鵬社版だけが問題なのではない。検定制度の強化の中で不十分な点が多いが、中には執筆者の思いが感じられる記述がみられる。我々はこれを見逃さないことが大事で、教科書に載っているこの部分を足掛かりにして工夫を凝らすことができる。

3 どういう工夫をしてきたか?

 地理的分野では、バナナの授業を紹介する。アジアの地理学習入門編として「一本のバナナからどんなことが見えてくるかな?」の教材(プリント)を作って指導した。生徒はバナナ農園に働く労働者の賃金の低さに驚き、世界の仕組みの一端にふれて衝撃を受ける。東電原発事故をきっかけに原発問題を一から学習し、資源・エネルギー問題に関連して「原発問題」を取り上げ、歴史の側面、原発立地の条件、原発誘致などを多角的に考える授業づくりを行った。

 歴史的分野では、歴史学研究の成果に学び教科書記述の不十分さを補う授業づくりをめざした。奈良時代では稲の品種改良に取り組む農民たち、江戸時代では19世紀大阪平野の1000余か村の「経済の自由」を求める行政訴訟(「国訴」)の勝利、幕末の開国交渉における幕府官吏のしたたかな外交交渉と大きな成果を組み込む工夫を行った。生徒の抱いているそれまでイメージを揺さぶることができたようだ。戦争学習では、戦争は天災ではないこと、日本は侵略したことをしっかり押さえる。日清戦争の教科書記述は極めて不十分で、朝鮮改革への軍事介入と事実が確認できる独自の教材を準備した。一方、戦争学習では慰安婦学習への攻撃が激しく、中学校での学習は今は難しい。中国残留孤児を教材化している。

4 どんな授業づくりにこだわってきたのか?

@ 今の、そしてこれからの社会の在り方を考える社会科

平和、人権、民主主義をベースに考える、「いまの問題」を取り上げる

A そのためには、自分の問題意識や社会認識を深めること

ニュースに関心を持ち、自分でよく考えること

B 歴史的思考力を育てる

時空を往復する想像力を育てながら、偏狭なナショナリズムに陥らないように

C 学習を踏まえ、他者の意見も聞きながら、自分の意見を持つように

D 「社会科はおもしろい」と思ってもらえるように

5 今後の展望を開くために

 社会科の授業づくりでは、専門家の研究に学ぶ姿勢を持ち、方法論に傾斜しすぎた現状を変え、目標論・教材論にもっと力点をおくべきだ。民間研の財産を若い先生たちに繋いでゆくことが大きな課題だ。また、過去の経緯を脇において、教育委員会との接点づくりも心掛けるべきだ。

 政治状況を変えるためには、同じ意見の者同士の枠を超えて、異なる意見と対話しながら合意形成を図る姿勢が大事である。今を生きることが歴史をつくっているということを実感できる教科、社会の課題や矛盾を知り、自分の意見をもって、ささやかでも行動を起こす人になれる教科、暴力を否定する文化を大切にする、そんな社会科教育を目指したい。

【参加者の意見・感想】

・辻さんの今日の世界にきりこんだ社会科教育の報告について、討論の時間がなかったのは残念でしたが、その意思を持てば「しめつけ」の中で突破ができるということを確信させていただきました。

・辻先生のプリントのようなていねいさまでもっていくことが大切だと思います。歴史プリントは少しむずかしいと思いましたが、地理は楽しそう。ありがとうございました。

・授業の場に立ち、授業を主導するのは我々教員であって、決して彼らではないという圧倒的な事実の重み(アドバンテージ)を確認することは「抵抗の拠点」として重要です。私も同じ思いで教育実践を進めてきました。

・辻先生のバナナの授業、歴史の授業、高校での私の教育実践と重なる部分が数多くあり、興味深く報告を聞きました。「3回繰り返される歴史教育」の中での「高度化」の視点で、高校の歴史授業を点検すると次のような点が浮かび上がりました。

(日清戦争)外交と内政の関係から戦争をとらえる視点。伊藤内閣と議会多数派(内地開放反対・条約励行)の対立の中、対外強硬論=戦争による局面打開という経略。

(アジア太平洋戦争)「戦争責任とは何か?」「戦争責任をとるとは?」「国民には戦争責任はないのか?」「民衆に騙された責任はないのか?」


X. 実践報告(3)

「国語の学力とその課題〜分校での授業〜」   篠原 明(府立京都八幡高等学校南キャンパス)

1 教員生活37年目を振り返る中

 1980年、京都府立田辺高校採用時から「高校三原則」を柱とした実践・運動に関わってきた。特に、普通科のミックスHR・ミックス授業の在り方やその構成、普通科における「技術一般」の展開を職場づくりの中で考え、授業の在り方を議論してきた。組合としては、「高校三原則」に関わる教育パンフレットをつくり、それを手にして地域懇談会を設定し、地域父母の願いを受けてとめてきた。

 その後95年に久御山高校に異動し、V類体育系の生徒との授業での生徒の姿に課題を覚え、その後2002年に南八幡高校に異動し商業科の生徒の実態や普通科U類の定員割れから更に課題を見いだし、職場で議論を重ね、生徒の学力保障及び地域父母の要求に応える実践を進めてきた。特に、八幡高校との統廃合回避、及び学科再編の課題は、重要な議論を行ってきた。

 2007年に京都八幡高校南キャンパスに異動し、開設時から生徒の学力及び教育課程の在り方の議論を重ね、今日に至っている。

2 京都八幡高校南キャンパスの紹介と生徒の実態をふまえた教育実践

 南キャンパスは、2つの学科がある。その一つは、福祉系大学・専門学校への進学を念頭に置く人間科学科(定員30名)がある。支援学校との交流と様々な体験を取り入れた教育内容を展開している。2つ目は、介護福祉科(定員30名)である。この学科では、卒業と同時に介護福祉士国家試験受験資格が取得でき、試験合格後介護福祉士となり、毎年10名前後が介護職に就職している。

 生徒とその学力の現状をみると、比較的学力の高い生徒たちである。生徒たちは、それぞれの学科の教育内容に惹かれ志望してきている一方、何らかの理由で近くの高校を志望しなかった生徒もいる。

 しかし、生徒たちの中には、学力に困難を抱える実態もある。例えば、中学の進路指導の中で「公立の全日制だったら、ここしかない」と言われたり、中学校からの申し送り事項で「自分の名前も漢字で書けないかもしれない」と書かれていたりする実態もある。更に、数学や英語力が欠如する中、小学校・中学校での不登校経験者もいる。また、広汎性発達障害やコミュニケーション不全等何らかの障害をもつ生徒も在籍している。

3 国語の授業実践を通して

 国語専任の教諭は、2名である。その教育課程は、以下の通りである。
  1年  共通    国語総合(4単位・習熟度別授業)
  2年  人間科学科 現代文B(3単位・習熟度別授業)古典B(2単位)
      介護福祉科 現代文B(2単位・習熟度別授業)
  3年  人間科学科 現代文B(3単位・習熟度別授業)古典B(2単位)
      介護福祉科 現代文B(2単位) 国語表現(2単位)

ただ、それぞれの学科の実習もあるので、授業時間数25〜30時間確保で行っている。また、授業展開では、授業者の発問に対応した話し言葉で進めることが多い。

 特に、生徒たちの中で「高校時代に読んだ」という共通認識を育てたいために現代文分野で「定番教材」を設定している。その定番教材の作品は、羅生門・水の東西・セメント樽の中の手紙・鏡(1年) 山月記・こころ・ミロのヴイ―ナス(2年) 檸檬・舞姫・火垂るの墓(3年)である。その展開では、読み込む際重要な語句・キィーとなる内容を理解させるために授業プリントでも工夫し 多用している。例えば、「セメント樽の中の手紙」では、小説の設定・作者の表現方法だけでなく、労働の過酷さの焦点のあて方を人物の動きや会話を引き出して考えるように設問を設ける。また、当時の賃金や価格状況を示し、生徒の生活や社会状況(バイト代等)との比較検討できるようにプリントの工夫を重ねている。

4 国語教育以外の実践では

 人間科学科2・3年の生徒と共に、講座「人間探究」を設け、「新聞を読もう」「ハンセン病学習」「沖縄学習」「小学校でも絵本読み聞かせ授業」「自分史作成」など他教科の内容との関連も考え、「読む力」を培うために実践している。

5 最後に

 教育現場では、「アクティブラーニング」が叫ばれているが、基礎的な知識がないと発展はない。特に本校の様な現場では、必要とされる知識・概念および考え方はきちんとつけることを主眼にしている。また、生徒間の「教え合い」による学力定着も重視している。

【質疑&討論】

・生徒たちの学力については、職場及び教科部会で常に悩み苦労しながら、次への課題と具体化の議論を重ねている。が、なかなか厳しい状況にある。

・現場の教諭は定員状況もあり、他教科・領域を兼務しながら日々授業を行っている。

・教師や友達との関係で不登校を抱えた生徒は、本校でのボランティア活動やクラスの生徒たちの受け入れの中で自らの居場所を得た事例もある。

・授業を通してブラック企業・社会や資本主義の仕組みに関心をもつ生徒の声がある。

・「人間探究」の授業展開では、2〜3人組で授業を組み、互いの教え合い・学び合いも行う場合もある。

・現代文の作品の定番教材では、国民的教養と呼べるものを毎年生徒の実態に照らして工夫している。

・生徒の数学・英語力不足については、生徒の自尊心をも視野に入れつつ学力回復を進めてほしい。さらに、制度として また教育条件改善に向けて引き続き学校として展開してほしい。例えば、留年の措置や通信制の場合には卒業5年程度の時間をかけることも視野に入れた考えもあるのではないか。
 
 「京都教育センター年報(29号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(29号)」冊子をごらんください。

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              2017年3月発行
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