事務局  2016年度年報目次 


京都教育センター第47回研究集会 分科会報告


第2分科会
「子どもたちが抱える困難や課題の内実をとらえ、
人権と民主主義を大切にした生活指導実践を」

                 横内廣夫(生活指導研究会事務局)

 

 今年度も生活指導研究会と発達問題研究会は独自に分科会を開催しました。生活指導研究会の会員が発達問題研究会の運営委員として準備を担当されていることや他の生活指導関係の研究会と日程が重なっていたこともあって、参加者は7名でした。以下は分科会の概要をまとめたものです。

【問題提起】
「現代の子どもの状況と課題−いじめ、不登校、暴力、虐待、貧困道徳教科化の中で−」 
                       倉本頼一先生(立命館大学非常勤講師)


 文部科学省が全国の国公私立の小中高校、特別支援学校を対象に実施した「問題行動調査」について、府教委は10月27日府内の状況を発表しました。それによると2015年度のいじめの認知件数は2万5279件で前年度より1304件増、特に小学校ではパソコンや携帯電話などを使ったいじめの増加が目立つとされています。暴力行為は2072件で前年度より119件減り、対教師暴力は2件減り332件とされています。不登校の子どもは小学校が52人増え554人、中学校は82人増え1982人、高校は49人増え909人、高校の中途退学者数は197人減り852人と報告されました。全国的に虐待問題も深刻です。また福島から避難しいじめを受けた中1の生徒の手記に大きな反響がありました。新学習指導要領の問題点も含め、今日の子どもたちの状況と課題について、倉本先生は以下の内容で問題提起されました。

1.子どもをめぐる現状と問題−厳しい現実を越えて、子どもに夢と未来・発達保障を

@「いじめ」問題と教育行政・学校・教師
「小学校いじめ最多」報道 「原発避難児いじめ」 菌・お金要求
A不登校・登校拒否3年連続増加、小学生割合最高  大切な「親と親」「親と学校」
B根強く残っている体罰、中学「部活問題」が課題 
クラブ体罰 「ゼロトレランス」生徒指導 管理主義 部活「勝利至上主義」 「スポ−ツ推薦」
C小学生の暴力が過去最多、中高生前年より減少、指導困難は深刻
暴言暴力「死ね、ぶっ殺す」  言葉の力、自治活動 警察と学校の関係
D児童虐待通告過去最多、背景に親の貧困・孤立・格差
E深刻化する「子どもをめぐる事件」 子どもの豊かな成長と安全を守る課題

2.道徳教育の「教科化」を考える
   −「計画、内容、指導法、評価」の徹底と「アクティブ・ラ−ニング」は矛盾しないか−


@学習指導要領の変遷と道徳教育
A道徳教育の「教科化」を考える
Bカリキュラムマネ−ジメントの画一化の危機
C道徳の授業とアクティブ・ラ−ニング⇔「徳目主義と矛盾」する
D「学校スタンダ−ド」で「そろえる」→管理主義、「学習方法・態度」「子どもの生活全て」
E道徳教科の「評価」をめぐって

 倉本先生は、それぞれの項目について具体的に説明され、「法律を」厳しくしたり、『学校のスタンタ−ド』『ゼロトレランス』『数値目標』では子どもの問題は減少しない。不登校、いじめ、体罰、虐待、暴力、子どもをめぐる事件は、その背景に、過度な競争主義、格差、貧困問題等、深い社会的原因がある。だからこそ全ての子どもに『ここに生きて存在していても大丈夫なんだ』、つまり安心と人間的共感が必要であり、子どもに夢と希望を持たせ、憲法の精神を生かした未来への展望と発達の社会的保障が大切である」と問題提起されました。

【基調報告】「『学びの共同体の実践』と生活指導実践との関係性」  
                         横内廣夫(生活指導研究会事務局)


 幾つかの教育研究サ−クルに参加する中で、最近「学びの共同体の実践」という言葉を頻繁に耳にします。京都でも徐々にこの実践が現場に浸透しつつありますが、疑問を感じている教師もいます。この「学びの共同体の実践」は、現学習院大学教授・佐藤学氏によって提唱され普及されています。佐藤氏はこの実践を「子どもの貧困と低学力に立ち向かう実践」とも表現しています。佐藤氏の「学びの共同体の実践」に潜んでいる危うさを明らかにし、この実践が人権と民主主義を大切にした教育実践(生活指導実践)の方向につながるのかどうかを吟味することで基調報告としたいと考えました。A4用紙15枚に及ぶ内容なので全文を掲載することができません。従ってここでは(まとめ−幾つかの問題点)を中心に掲載することになります。

[はじめに−問題の所在]

 1.恩庄氏の問題提起
  6月例会−恩庄報告の「M中学校13年間の『奇蹟』」の中の資料「H(中学校)の人権認識、『4人班』問題を問う!」から
□「学習4人班」とリ−ダ−づくり・班編制実践が担ってきた以下の課題との関係において
   @.誰が課題のある子と関わるのか
   A.担任がリ−ダ−を育てていくのにどういう筋道をつけていけるのか
   B.「4人班」のもとでは、クラスの課題をぼかし曖昧にしてしまうのではないか
   C.しんどい子・課題のある子押しつけが生じないか
   D.学習におけるコミュニケ−ション能力とは何か、またその能力は孤立化している子どもたちの人間関係を回復しより漸進的な方向へ導く能力と結びつくのか
 2.新聞報道で紹介された「学びの共同体」の成果
 3.本研究会の議論で出された「学びの共同体」の実践についての疑問

[1]「学びの共同体の実践」を知る−佐藤学氏の著書から

@『岩波ブックレットNo.612 習熟度別指導の何が問題か』2004年1月
A『岩波ブックレットNo.842学校を改革する−学びの共同体の構想と実践』2012年7月
B『学び合う教室・育ち合う学校〜学びの共同体の改革〜』2015年7月 小学館
C『学校見聞録−学びの共同体の実践−』2012年7月 小学館
D『学校の挑戦−学びの共同体を創る−』2006年6月 小学館

○(普及している現状は)
 佐藤氏の学校改革の構想が1995年新潟県小千谷市立小千谷小学校で実践に移され、全国各 地に多数の拠点校が創設されるにいたり、「2012年現在、学びの共同体の学校改革に挑戦し ている小学校は約1500校、中学校は約2000校、高校は約300校であり、約300校の パイロット・スク−ルが改革の拠点となってネットワ−クを形成している。学びの共同体の学校 改革は2000年以降、海外にも普及している。まず私の著書や論文によって韓国とメキシコと アメリカで導入され、続いて中国、シンガポ−ル、インドネシア、ベトナム、インド、台湾など へと拡大した。これら海外における普及も日本と同様、爆発的であり、特にアジア地域において、 もっとも有力で有望な学校改革の草の根の運動として知られている」(A−P.2)。

○学びの共同体の学校改革は「21世紀型の学校」を実現する改革である(A−P.6)

○「学びの共同体」は、学校改革のヴィジョンであり哲学である(A−P.15)。
□「学びの共同体の三つの哲学」
   @公共性の哲学public philosophy− 公共空間としての学校
   A民主主義(democracy)の哲学 − 「聴き合う関係」の創造
   B卓越性(excellence)の哲学− 条件に応じてベストを尽くすという卓越性
学びのレベル、授業のレベルを下げてはならない(@−P.17-20)

○学びの共同体の「三つの活動システム」
1.教室における協同的学び(collaborative learning)
2.職員室における教師の学びの共同体(professional learning communityと同僚性(collegialityの構   築
3.保護者や市民が改革に参加する学習参加 (A−P.21)

○協同的学びによる授業改革
□小学校低学年においては全体学習とペア学習による協同的学び
□小学校3年以上、中学校、高校においては男女混合四人グル−プによる協同的学び
@協同的学びは、学びの本質である。学びは師と仲間が必要
A一人残らず子どもの学びの権利を実現するためには、協同的学びによって子ども同士が学び 合うより他はない。
B小グル−プの協同的学びが、学力の低い子どもの学力を回復する機能を発揮することである。
C協同的学びが、学力の高い子どもにも、より高い学力を保障することである。(@-P.25-P.26)

○「いくつかの技術的な問題」
  1.小グル−プの編成
@.男女混合の四人グル−プ −男女混合の方が探求が活性化される
A.クジで決めるのがベスト
B.適宜、変えると良い
2.小グル−プの学びの導入は
@.一つの授業において<共有の学び>と<ジャンプの学び>の両方を組織する
A.小学校中学年−全体の協同的学びと小グル−プの協同的学びを適宜組み合わせ
B.小学校高学年、中学校、高校では<共有の学び>と<ジャンプの学び>を前半と後半      に割り当てる  (A−p.35)
3.コの字型教室の配置
 =クラス全体を対象とする授業は、コの字型(ゼミナ−ル形式)の配置で

【2】佐藤氏による「学びの共同体の実践」の普及の方法

○2012年2月 三重県熊野市 木本中学校訪問
「小グル−プの協同的学びを中心とする授業改革に全教師で取り組んだ結果、どの教室でも生徒たち は真摯に学び始め、学校に快活さと明るさが甦っていた。不登校の生徒は激減し問題行動は皆無とな り、翌年には県下で最低レベルであった学力も県平均と全国平均を超えるまで向上した」(B−P.12)

○東大阪市金岡中学校
「学びの共同体の実践を9年間持続してきた。大阪府の中でも『困難校』として知られていた同校は、今では問題行動と不登校は激減し、学力水準も数学のB問題では全国平均を上回って、府内外から高く評価される学校として知られている」(B−P.45-46)

○彦根西高校
「1年後にはどの生徒も授業に積極的に参加し学び合うようになり、問題行動は激減し、暗雲が晴天に変わるように教室には明るい生徒たちの笑顔が現れ、ガングロの生徒は一人もいなくなった。そして2年後には退学者も10人まで激減した。そしてこの3年間、同校は就職希望者の全員就職、進学希望者の全員進学を達成している。」(B−P.51)

○2014年4月 沖縄県名護市立羽地中学校
 島袋校長は2年前に羽地中学校に校長として赴任し、「1年前から改革に着手した。その成果はただちに問題行動の激減、そして多かった不登校生徒がゼロになるという目に見える成果として結実した」 (B−P.74)

○福島県須賀川第三中学校
 「須賀川第三中学校は、生徒数が325名、校区に市営住宅と県営住宅をそれぞれ二つ抱え、生活に困難を抱えている生徒も少ない。そのため、かつては市内10の中学校の中で最も困難な学校と言われていた。しかし、3年前に市教育委員会学校教育課長であった森合先生が校長となって学びの共同体の学校改革を推進し、驚異的とも言える変革を達成した。生徒たちは一人残らず学びに積極的に参加し、問題行動は皆無となり、学力は教科によって100点満点で20点以上も向上して市内でトップへと飛躍した。クラブ活動も活性化し、昨年は英語弁論の県退会で優勝し全国大会に出場している。」(B−P.91)

○広島県立安西高校
 「かつては入学者の半数以上の200名近くが退学し存続が危ぶまれる困難校であったが、『学びの共同体』の授業改革により退学者は1桁台まで激減し大学進学率も急増して、3年後には県立高校最高の入試倍率を達成し、現在は1学年5学級編成から7学級編成へと発展している」(B−P.142-143)

○横浜市汐入小学校 (2014年)
 「わずか1ヶ月余りで、どの学校よりも騒然としていた学校がこれほどまでに変化したのである。教室を参観してさらに驚いた。どの子どもも一人になっていない。どの子どもも仲間に助けられ、夢中になって学びに参加している。井津井校長も教師たちも、口々に『まるで魔法にかかったみたいだ』と語っていた。」(B−P.196) 「(10ヶ月前とくらべて)、その結果、早くも不登校の児童はゼロ、地域の警察や児童相談所への相談件数もゼロとなり、学力の面でもどん底から国語B(発展問題)は全国平均を上回る驚異的な向上も達成した。」(B−P.214)

【3】まとめ−潜む幾つかの問題点

 こうして見てくると普及の方法論が極めて明確に見えてくる。簡単に図式化してみることにする。(略)


1.●「荒れた学校・困難な学校」という表現によって、結果として「学びの共同体の実践」の正当性あるいは有効性を際立たせる普及方法ではないか。

  ●「教育現場にはいらない研究者は教育研究者ではない」と言い切る佐藤氏が、毎年多くの教育現場(学校)を訪れていることは評価しなければいけない(そのほとんどが校長からの要請であることも特徴的である)。しかし「学びの共同体の実践」を導入するまでの教育現場を、実態と大きくかけ離れている表現で「荒れ」・困難・実績の無さ」を強調することが(例えば資料で示した広島安西高校)、果たして許されるのであろうか。

  ●当該学校が仮に「荒れた学校・困難な学校」であったにしても、その原因や背景またそれを克服しようとしてきた教師たちの努力についての分析を提示していない。むしろ孤立してでもその危機を克服しようとしてきた教師こそを学校改革の「邪魔者」として扱っている事実がある。そのような扱いは、困難校や課題をかかえた子どもたちの成長と発達のために努力し奮闘し、多くの仲間と学んできた教師たちの存在を否定しかねない。以下の記述をどのように受け止めればいいのであろうか。
 「なぜ教師たちは数名の荒れた生徒が現れると、その生徒たちに意識が集中し、その生徒たちに踊らされてしまい、他の大多数の生徒たちの学びの権利を見失ってしまうのだろうか。生徒たちが困難に陥れば陥るほど、教師は一人ひとりの生徒の学びを実現することに専念し、どの一人の学びもないがしろにしない授業を創造すべきである。それが、結果的には、荒んだ数名の生徒たちの学ぶ権利を実現することにもつながる。..荒れた学校には必ず熱血教師が存在するが、荒れた生徒と熱血教師は共犯関係を築いていることに留意する必要がある。荒れた生徒が出ない学校にするためには、荒れた生徒にパラノイアのように関わる教師をなくさなけ  ればならない。」(C−p.35-36) ( *パラノイア paranoia 偏執病 妄想症 被害妄想 )

2.●今日校長はリ−ダ−シップを発揮して学校ビジョンを設定しその具体化を通して、学校改善を実現しなければならないとされている。それが校長を中心とした学校マネジメントであり、時としてその手法は問題状況を生み出すことがある。
 ミッション(使命)・環境分析・ビション・目標、それぞれの捉え方・考え方までも教師集団として一致する事はなかなか難しい。したがって学校作りに取り組む教師たちは、学年会等々で意見の一致を図るべく努力を重ね、共通の内容を確認してきたのである。そして個々の教師の個性を尊重し実践の多様性を評価しながらその共通の内容を達成しようと努めてきたのである。しかしこの「学びの共同体の実践」の入り口は従来の様相とは全く異なる。校長のトップダウン方式による導入である。しかも授業の形態(机の配置・四人編成の方法等々)までもが全校の方法論となる。まるで「学校スタンダ−ド」である。
 そのもとでは「教師も変わらなければならない」というテ−ゼが教育現場を支配し、他のサ−クルや研究団体で学び身に付けてきた授業実践やクラス作りの方法までも利用することができないことになる。いわば学習方法の一本化によるクラス経営を押しつけることになる。かかる教師の教育活動への縛りは、個々の教師の教育活動の権利と自由を奪い去ることになりはしないか。

●佐藤氏の学校訪問記録のほとんどが校長の評価から始まる。「○○校長が推進する『学びの  共同体』づくりの学校改革の成果を目の当たりにして...」という表記が至る所に出てくる(B、C、D参照、例えばCではp.32-33, p.51, p.63, p.83, p.221 等々)。また「誰が子ども一人ひとりの学ぶ権利を実現する責任を引き受けるべきなのだろうか。担任教師だろうか。担任教師は責任の一翼を担っているが、責任の中心ではないだろう。学校において一人ひとりの子ども(生徒)の学びの権利を実現する責任の中心は校長にある」(D−p.10)としている。

 さらには佐藤氏は、「拠点校の形成こそが、教育長や市町村の教育委員会が推進する地域全体の学校改革の基礎におかれなければならない」(Cp.275)と主張している。この主張についてはあまりにも無節操と言わざるを得ない。教育長や市町村の教育委員会が推進する地域全体の学校改革の方針を無条件的に受け入れ、その旗の下に校長中心に、教師を巻き込んだ『学びの共同体の実践を推し進めることを是とする。従って「トップダウンとボトムアップを二項対立的に考える枠組みは克服しなければならない」と言い切る。(C−p.274) 
 学習指導要領が教育内容やアクティブ・ラ−ニング導入という学習方法を教師に強要している文科省、その具体的執行機関とての役割を担っている教育長や市町村の教育委員会と連携して自ら主張する「改革」を推し進めようとする姿勢は、その主張の内容が仮に認められるにふさわしい内容が含まれているいないにかかわらず、極めて危険であり承認されることではない。その枠組みは結局のところ「物言えない教師」を大量に生みだし、その企てに参加させていく強制力の拡大にすぎないと言えるのではないか。

3.●佐藤氏の学校訪問記の特徴は、そこに至るまでの実践的内容を説明しないで、「成果」だけを強調する手法である。確かに佐藤氏が記述しているように、「訪問記」には一定の制約があって詳しく書くことはできないことは理解できる。しかし前記三冊の書物を読む限り、「結果として.」、「驚くことに....」という表現で「荒れた学校」が「学びの学校」に変化したと記述されている。子ども一人ひとりが「学びに積極的に参加している」ことに感動している文面が随所に見られる。先にその表現は、誇張されすぎているのではないかと意義を唱えたが、問題はその根底の子ども観にある。
 「どんな子どもも学び続ける限り、決して崩れないということである。学び続ける限り、家庭が崩れようと、友達が崩れようと、子どもは決して崩れない。逆に、学びに絶望した子ども、学びから逃走した子どもは、ほんのささいなことで簡単に崩れてしまう。この事実は、学びが子どもの人権の中核であること、そして学びが子どもの希望の源泉であることを教えてくれる」(C−p.208)
 今日の子どもたちの状況を鑑みるとき、むしろ子どもたちから「学び」を略奪する経済的・社会的・家庭的・地域社会的問題であって、子どもたちから「学びたい」という願いを奪い去る力が大きく働いていることこそ問題なのではないのか。そして「学び続ける限り、家庭が崩れようと、友達が崩れようと、子どもは決して崩れない」とするならば、家庭が崩れ友達が崩れているにもかかわらず学び続ける子どもとは、いかなる存在と考えればいいのであろうか。仮に家庭が崩れ友達が崩れようとも、けっして崩れない子どもを支えるのが「学び」ならば、その「学び」は誰のための、何のための学びといえるのか、きわめて疑問である。そしてそのような子どもに佐藤氏が大切だと指摘する「優しさ」は育つのであろうか、このことも疑問点として浮上してくる。
 「学びから逃走している子ども(生徒)は簡単に崩れてゆく。教師も親も仲間も大人も社会も信じられなくなり自分自身の可能性にも絶望して、鬱積した劣等感や不満や怒りによって結ばれた群れを形成し、すべて投げやりになって刹那的にふるまうか、あるいは敵対心露わにして仲間を傷つけ自分を傷つける行動に支配されてしまう。」(D−p.101)と、佐藤氏は主張している。
 崩れている子どもたちを励まし、彼らが仲間とともに学びを取り戻し自らの力で成長を遂げていくように援助していくことが、生活指導ではないのか。しかし佐藤氏の記述のなかにはその「生活指導」に該当する部分が見当たらない。不登校の生徒が激減したとされているが、何故登校できるようになったのかの説明に「学びの共同体の聴き合う優しさ」であると繰り返し引用されても納得できるものではない。授業中に廊下を徘徊していた生徒たちに、誰がどのように彼らに何を働きかけたのか、また彼らはその働きかけをどのように受けとめ、何を決意して再び机に向かうようになったのか、その内実が生活指導の取組そのものではないのか。今日の教育困難が「学び」という側面の強調だけで整理でき克服の見通しが抱けるものであろうか。それは、今日の子どもたちが抱える困難さをいかに理解するかという問いと同じである。

●つまり佐藤氏は「協同的な学びのグル−プ」と「生活班」との役割の固有性と関連性を明確にしていないのではないか。引用が長くなるが、佐藤氏は次のように記述している。
 「生活班においてはグル−プ内のまとまりが重要で有り、リ−ダ−の存在が班活動を円滑にし活性化する。しかし協同的な学びにおいてはリ−ダ−は不要であり、いないほうがよい。協同的な学びは個々人の多様な学びのすり合わせであり、どの子も対等な立場で参加する必要がある。...協同的な学びのグル−プは生活班とは別に組織されるべきである。通常、生活班は6人程度で組織され、班長を決めて集団活動を行っているが、6人という数は協同的な学びにとっては多すぎる。協同的な学びのグル−プは男女混合の4人で組織するのが好ましい」(D−p.42)。佐藤氏は生活班を無視はしているわけではない。むしろ集団活動の担い手として生活班の存在を確認している。しかし生活班を積極的に授業づくりに位置づけようとはしていない。訪問記のなかでも学校の変化、子どもたちの変化と日常的に彼らと関わっていた生活班の取組の内容との関係性については触れられていない。「教育的成果」を強調する際には、「協同的な学びのグル−プ」と生活班、それぞれの役割と両者の関連性を明確にしなければ、その「成果」が達成された要因を明確にすることにはならないし、客観的な評価につながらないのではないか。

●佐藤氏が考える「同僚性(collegiality)」とはいかなる色彩をおびているのか。佐藤氏は「学校は内側からしか変われない。そして学校を内側から変える最大の推進力は、教師たちが専門家として育ち連帯し合う同僚性(collegialityの構築にある」((D−p.276)としている。その基礎舞台は学年団であるとも指摘している。
 そして「学校を改革し教師の意識を変革して授業が変わるのではない。逆である。授業を変えて教師が変わり、教師が変わって学校が変わってゆく。...この筋道をたどる以外に学校を改革する有効な方法はない」( C−p.277)」という脈絡のなかで、佐藤氏の言う同僚性の性格が明確になってくる。それは「授業」優先主義、あるいは先行主義によるあるべき(望ましい、素晴らしい)授業をお互いに求め合い競い合うことを基礎とした同僚性である。だからこそ全員が同じ授業形態を撮る意味がある。なぜならできるだけ同じ条件下で競い合う関係性がなければ、お互いに評価しあう関係が保てないからである。「改革のビジョン」を教師達は共有し、どの教室においても机をコの字型に配置し、どの授業においても男女混合4人による小グル−プの学び合いを導入していく。つまり全教員が授業を同一形態のもとで授業を展開していく。その力量が同僚性の根幹をなしていくのが佐藤氏の考え方である。つまり枠に縛られた授業のなかでの卓越性を共に求めていくことが同僚性の確立に繋がっていゆくという考え方である。
 佐藤氏が提唱する学びの共同体の実践は、緩やかな管理主義(授業形態、4人班、授業規則等々)を背後に据え置いたものであるとするならば、そこでの同僚性もまた管理主義に縛られた類いと言えるのではないか。

【実践報告】「「優しいリ−ダ−づくりをどうすすめたか
       〜四人班体制の中で失われたものをどう取り戻そうとしているのか〜」 恩庄 澄(府内中学校 )


 4月から新しい中学校に転勤した恩庄先生は、衝撃的な課題に直面しました。それが「4人班」問題でした。学力部長が「大学の入試改革が始まる。その入試を受けるのが今の中3の学年だ。その改革に適応する生徒を育てるため、4人班が必要だ」と訴え、生活班まで4人班にするように求めてきました。既に多くの若い先生は4人班に移行し、これで学校全体が4人班になる寸前に恩庄先生は、個人投稿として「H中の人権認識、『4人班』問題を問う!」を公表し、特に@誰が課題のある子と関わるのかという点、A担任がリ−ダ−を育てていくのに、どういう筋道をつけているのかという点について問題提起しました。職員会議での議論で「学級の班編制のやり方は、これをやれあれをやれと強制することはできない」という校長の発言を受け、学年主任と学年の先生方に6人班編成を認めてもらうようにお願いしました。結果的には6クラス中、3クラスが6人班でした。

 夏休みの研修について1年生の学活部長から相談を受けた恩庄先生は、アンケ−ト草案をつくり、学活部長が検討し、職員全体にアンケ−トを提案しました。その研修で明らかになったことは、「リ−ダ−が、@意地が悪いこと、A弱者に攻撃的であること、B受け身であること」でした。恩庄先生は、この原因が4人班にあると見なしています。「4人班体制は、学校の自治力を弱める。仲間作りを弱め、弱者に攻撃的なリ−ダ−を生み出している。リ−ダ−を支える班長は育ちにくく、リ−ダ−の孤立化を招いていく。学校の管理主義が、このような状況を生み出してきた」と恩庄先生は分析しています。

 「優しいリ−ダ−を育てる」6人班に基づく実践に取組ながら、恩庄先生は意識的に若い先生方の相談に乗り、また「さりげない提案」を投げかけることで校務を通じた全体の取組に導いています。恩庄先生の「学校再生の大きな一歩」が始まりました。このH中学の先生方の学校作りがどのように展開していくのか、見守っていきたいと願います。

 
 「京都教育センター年報(29号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(29号)」冊子をごらんください。

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              2017年3月発行
京都教育センター