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京都教育センター第47回研究集会 パネルトーク


「もっと自由に、もっと人間らしく」

                 深澤 司

※記録は、京都教育センター事務局の責任で編集しました。
 

(お話される人)
〇寒川穂波さん 京都市の公立小学校教員。大学では音楽科で学び、教員になって本田久美子さんから算数サークルに誘われ今日に至る。今年度20年ぶりに6年を担任。
〇西田陽子さん 府立高校の英語科教員。朱雀高校通信制、鴨沂高校を経て現任校へ。生徒指導部、生徒会顧問。府立高教組の教文担当執行委員。
〇神代健彦さん 京都教育大学教員。教育科学研究会全国委員。教育学を学び、勝田守一を研究。大学では、教育の歴史と道徳教育を担当。

≪コーディネーター≫
〇深澤司さん 京都教育センター運営委員。元京都府南部公立小学校教員。
 
 

○コーディネーターのはじめの言葉

 昨日のニュースで、昨年度までの10年間にいろいろな理由で死亡された46人の中で少なくとも20人の新人教員が自殺をしていたという衝撃的な報道がされました。パネルトークのテーマ「もっと自由に、もっと人間らしく」という願いは、今を生きる教職員の悲痛な叫びでもあります。

 今学校は、安倍政権の教育改革によって、子どもは競争に追いやられ、教職員は多忙と管理統制により、自由にものが言えず、自主的教育活動もままならない状況に置かれています。子どもも同様に、言いたいことが言えない状況です。個人として尊重される社会のあり方、学校・教育のあり方について深め合っていきましょう。

○寒川穂波さんのトーク

 20年ぶりに6年生を担任。以前と決定的に違っているのは、京都市内では小学校でも部活動や土曜部活があることです。6年生は「大文字駅伝」があり、夏から週3回登校後に走って練習。12月は小中一貫校の入学志望者の報告書づくりに追われました。

 研究発表が小学校のどこでもやられ、ある校長の時は、「A小スタンダード」を徹底させるということで振り回されました。「子どもが主体の授業」をテーマに、教師はしゃべるな、子どもが司会をする授業がめざされました。司会の言葉が教室の柱の真ん中ぐらいからズラーっとぶら下がり、司会はそれを見ながら司会をしました。廊下にもいろんな掲示物がぶら下がっていて、子どもたちはぶら下がっているものを見るとタッチしたくなるものですが、「そういう子どもがいるので注意してください。」と職朝で言われました。次の校長からは、子どもの司会の授業は無くなりましたが。

 1月には学校の研究発表会があります。発表があるから「スタンダード」は必要だということで、研究部から学習に関わる21カ条が出されました。話す・聞くの7カ条には、「反応をしながら聞く」というのがあって、「それって何やねん?」と子どもが聞くので、「『そうやねぇ』とか言いながら聞くことかな。」と言ったらすぐに反応を始め、私が話すといちいち「そうやねぇ」とか言って、「やかましい、もぅえぇ。」っていうことになりました。私のクラスは「へぇ、それ何や?」とかいろいろ言いますが、言えないクラスや若い先生のクラスなどでは「きちんとやらないとダメ」ということになると思います。

 そうした中でも、私は「楽しい授業・わかる授業」を大事にしてきました。

 「速さ」の学習は体感させることを大事にしようと、算数サークルで教えていただいたプラレールを走らせて10秒間で何メートル走るかということをやって大盛り上がり。子どもが主人公になれるようにと、運動会やクラス劇も頑張りました。あと3カ月で卒業ですが、6年生が歌う歌を大切にしたいと思っています。

 同僚の先生が「子どもっていうのはそんなもんですよね。」と言って保護者と電話で話をしているのを聞いて、その感覚はとても大事だなと思いました。ぶら下がっているものに飛びついてタッチしたくなるという子を見て、「子どもってそんなもんや。」と私は思っていて、それが子どもだと思うのです。

 私は組合活動などでいろんな人に出会い、そこで「どう思う?」って聞くと、「そりゃあ、おかしいやろ」とかいろんな話を聞かせてもらい、自分が思っていることに確信を持てたということが大きかったです。組合などの研究集会は、大事だなぁと思います。

 どこの学級でもスピーチがやられています。高垣先生が話された「がんばっていることが言えない」というのは、子どもの素直な言葉だなと思って聞かせていただきました。私のクラスでは、「昨日の気になる出来事」ということをやっていて、「ASUKAが大麻で逮捕された」とか、「オスプレイが堕ちた」などという話も出て、それにひっかけて話をしたりしています。

 歴史の授業で、中国残留孤児の人たちの写真について「こういうこともあったんだよ」と言ったら、子どもがポツンと「何でそんな子どもを置いて帰ったんや。」と言いました。「そやな、普通はそう思うよな。親やったら、絶対連れて帰ると思うなぁ。先生の聞いた話ではな…」と、私の知っている範囲のことを話しました。歴史を勉強しても知らないことはいっぱいある、これからもいっぱい知っていかなあかんでということを子どもたちに話しています。

○西田陽子さんのトーク

 うちの学校は、早くから成績順にコースに分けられ、中には歪んだ優越感や劣等感のモヤモヤを持って高校生活をスタートさせている生徒もいます。スポーツ健康学科が学校の売りになっていて、野球部・陸上部でそれぞれ百人近くいます。体育科の先生はその部活の実績によって序列があるように見えます。修学旅行の行き先も学科毎に別々です。選ばれる学校になろうと、いい子集めに奔走。見た目をよくしなければならないことから校則がめちゃくちゃ厳しいです。

 受験学力をあげるのに必死で、どうやって最短距離で名のある大学に受かるようにするかで一生懸命です。部活の実績を上げたいと思っている先生がいっぱいいて、土日もテスト前もずっと部活をやっていますから、教職員は土日もなくクラブに駆り出され、授業の準備とかもたいへんです。そうなってくると、同僚どうしがすごくギスギスしてきます。「あの人、仕事しやらへん、サボっている」とか、ギュウギュウ仕事するのが偉いみたいな感じになっています。「新採1年目で妊娠して産休をとるとやっぱりまずいですよねぇ。」などと若い女性教員が言ったりするというしんどさもあります。

 文化祭は年々貧弱になり、生徒会の担い手も減少しています。「生徒会役員をやっているのは調査書に書いてもらえて推薦に有利になるから」みたいな本音を言う役員もいます。

 そういう中で何ができるのか、どんなことをやってきたのか。

 私は英語科の主任をやっていて、英語科の教科会議でいろんな意見や愚痴も言い合ってきました。英語科としては習熟度ではなくて少人数がいいとか、定数の要望も出してきました。

 生徒会では、学校生活を変えていこうとアンケートの取り組みをしました。自動販売機を屋根のある所に置いてほしいなどのおもしろい要望も出てきて、それらをまとめて生徒部長や副校長と懇談をしました。生徒総会で役員が報告すると、生徒から拍手が起こりました。向日が丘支援学校と年一回近隣の学校が集まる「交流のひろば」の取り組みでは、素の自分が出せる、支援学校の中ですごく子どもたちが大事にされているという空気の心地よさが伝わり、交流にはまった生徒もいます。

 週一回の分会ニュースを出していますが、原則的な中身ばかりではなくて、生徒指導がうまくいかないとか、同僚の愚痴なども聞きながら、それに応じた内容も載せたりしています。若手の先生の中には他の仕事をしていてもパッとニュースをとって読み始めてくれる人や「組合への認識が変わりました。」などと言ってくれる人もいます。

 うちの学校には、何のためにあるのかわからない理不尽なルールもあります。「規律正しさ」も必要ですが、お互いに居心地よく過ごすためにルールがあるんだという理解に基づいてルールを守るというものにしたいと思います。

 私の感性の維持は組合に入っているということが大きいですし、新英語教育研究会というサークルに入っているということもあります。時々はちがう世界に出かけていって自分をリセットすることが大事です。

 「生徒の本音と勝負」という言葉を私はよく使います。人権学習などの後に「感動した」とありきたりの感想文を書く生徒がいますが、私は本音がどこにあるのかと突っ込みます。そういうやりとりを生徒とするのがすごく楽しい。生徒の本音が垣間見れたと思う時が快感で、本音の部分、根本を揺さぶらないと仕事のやりがいはないと思っています。

 私は、文法を教えるのが大好きです。生徒からも、「先生は文法を教える時が生き生きしている。」と言われるのですが、子どもの前で生き生きして、生き生き学んで、自分が楽しく生きるってすごく大事。楽しく学ぶという姿勢をきっちり生徒に見てもらうことが一番大事な仕事かなと思っています。

○神代健彦さんのトーク

 テーマの「もっと自由に、もっと人間らしく」は、非常に深い言葉です。なぜなら、自由であることは、人間であることとかなり重なっているからです。人間と動物の違いは、自由であることだと言われます。動物は、置かれた環境の中でしか生きることができないが、人間は、環境に規定されるだけではなく、積極的に働きかけて生きていく。広い意味での環境を、自由に選ぶとか作り変えるということが「人間らしさ」だというわけです。あるいは自由には、「欠乏からの自由」や「圧政からの自由」のように何かからの自由、そしてそれだけではなく、憲法の幸福追求権のように自分がなりたい自分になるという積極的な意味の自由もあります。ともあれ、「人間を育てる」ということには、「自由な人間を育てる」ということが、必然的に含まれているということです。これが教育の大事なところです。そして、そういう自由な人間を育てるためには、育てようとしている人が自由でなければいけません。子どもの自由な育ちに伴走することは、伴走者がなにかに縛られていては難しいからです。

 ところで、私の仕事を一言で言えば、学生たちに「よい教育って、こういうことでは?」という教師(の卵)としての自由な探求を保障すること、と表現できます。しかしこれは簡単ではありません。これが難しいことの理由の一つに、学生たち(あるいは一般社会の、といってもいいと思いますが)が持つ、「よい教育」についての、強固な、しかも非常に貧しい先入観の存在があります。その先入観によれば、「よい教育」とは、「子どもがきちんと座って話が聞ける」、つまり「規律が成立している」ということ、そしてもうひとつ、いわゆる「テスト学力が高い」ということに―それだけ、というわけではないにしても―に非常に強く焦点化されています。これを保障するのが教育だというわけです。

 これは、豊かな子どもの育ちのイメージを欠いた、非常に貧しい教育観と言わざるを得ません。子どもの育ちは、さまざまな寄り道、回り道、逸脱、間違い、衝突、葛藤、反抗、不合理などといったもの、つまり、「規律」の思考がまさに排除したいと願う事柄(「悪」)を拭い難く含んでいます。リアルな子どもの育ちとは、そのような「悪」に触れる、「悪」を経験することによる成長というものを―非常に厄介なことに―含んでいるわけですが、あまりにも強すぎる「規律」の思考は、それらを排除しようとするあまり、子どもの育ちを貧しくしてしまう危険性を持っています。学生たちには、このことに敏感であってほしいと思っています。

 また、「学力」という語の理解が、いわゆる受験のテストで点数がとれる力という意味に矮小化されていることも問題です。子どもたちにどんなちからを保障すべきか、テストで求められていることを超えて、それを探求する自由で主体的な精神は、優れた教師に欠くべからざる資質だと思います。学習指導要領や学力テストという体制を前提とした合理性の追求ではなく、枠組みそのものを、子どもたちに保障すべき学力はなにかという観点から捉え返すちからを付けてほしいと思っています。

 しかし他方で、大学の教育研究のあり方自体が、かなり危うい状況になりつつあるということも、指摘しておきたいと思います。例えば、防衛省の「安全保障技術研究推進制度」が去年から始まりました。国立大学の運営費交付金削減で基礎研究の継続を厳しくさせておいたところに、防衛省の方から大学の研究者に軍事にも転用できる研究に対してお金をつけるという制度です。研究予算を糸口に、大学における研究の「動員」が始まりつつあります。大学人の研究意欲が、日本社会の平和・人権・民主主義を抑圧する方向に「動員」される前に、どこかで押しとどめなければいけません。

〇コーディネーターの終わりの言葉

 トークの中で、子どもも教師も不自由な、人間らしくない環境の中に置かれていることがリアルに報告されました。では、手も足も出ない状況なのでしょうか。教師の仕事に裁量権がないといえるのでしょうか。できることいっぱいあるではないか。トークの中で語られた数々の瑞々しいエピソードは、私たちを励まし、勇気づけてくれるものでした。こんな教育をしてみたいという願いを持つならばいろんな知恵とか工夫が生まれる。自分らしく生きていくという挑戦がもっともっとできるのではないかということを、今日のパネリストのみなさんお話を聞きながら思いました。学生の状況についても決して問題意識がないということではなく、学生の今の生活のあり様そのものが、ものを考えることができなくさせられているという神代さんの指摘は、今の教師の現状そのものであり、重なっています。

 教師自身が自分たちの生活と権利を守り、教育の自由を要求することが大事です。教職員組合の大切さ、教師自らが学ぶことの大切さを、もっともっと声に出していく必要があるのではないかということもあらためて考えました。3人のパネリストのみなさんに感謝とお礼の大きな拍手をお願いします。

 
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              2017年3月発行
京都教育センター