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京都教育センター第47回研究集会 記念講演


「憲法が生きる国・教育へ──個人が尊重される社会を──」

                 佐貫 浩 (法政大学・教科研委員長)

※記録は、教育センター事務局の責任で編集しました。
 

(一)現代を捉える

(1)資本主義の展開とその新自由主義段階の始まり

 私は現代認識について、学生と議論をするときに、まずは現代の格差・貧困問題がなぜ起こっているのか、ということから話します。そのためにも資本主義とは何かから話します。

 資本主義というのは、250年間ぐらい展開してきましたが、それは、市民革命の時代に生まれました。同時に市民革命は、議会制民主主義という国民主権の上に立った、国民が基本的人権を行使して自ら世の中をつくっていくという政治の仕組みも生み出しました。

 この資本の力は非常に強力で、人類は資本主義という経済システムにおいて、より豊かさを求め、よりたくさん儲ける情熱に突き動かされ、全力で人間の生産力を発揮する時代に入った。ところが資本は、儲けのために徹底して労働者を搾取し、命をも搾り取っていった。ですから17時間労働だとか、低賃金、児童労働、女性の過酷な労働が展開された。

 資本の利益のためだけに社会の仕組みが展開していくと人間は生きられない。そういうときに市民革命が生み出した議会制民主主義の権力が、この資本の横暴に規制を掛けるようになった。児童労働の禁止、労働時間の短縮、最低賃金の保障、勝手な解雇の禁止、等々。

 今、よく「規制緩和」と言われますが、規制というのは人権と労働権を守るために、議会制民主主義の力でもって、資本・会社の力をコントロールするものです。そして1945年戦後、その規制がさらに強められて、非常に強力なヨーロッパ福祉国家が建設された。そういう国家の仕組みが、1990年ぐらいまで国民国家の議会制民主主義の力の発展を伴って、展開した。ただし米ソ冷戦という資本主義と社会主義の対抗はこの説明からは省いていますが、逆にいえば、資本主義が社会主義と対抗して支持を獲得しなければいけないという意味では、社会主義に負けないような福祉を実現することは、いわば資本主義の引き受けざるを得なかった使命であったわけです。

 ところが1980年代から、資本がグローバルな形で展開しはじめた。それまでは一国単位において優れた商品をつくり、外国と競争すれば勝てるという経済競争が基本だったのですが、このグローバル化の時代になると、資本は一国の条件ではなしに、世界各地の最も有利な条件を全部集めて世界的な戦略として国際的に勝利できる商品を製造し、販売するようになった。そうすると人権のための規制が強い国家──人権水準が高い国、先進国がそうですが──の仕組みが、世界競争にとってマイナスだととらえられるようになってきた。

 先進国はどうして豊かさを実現したかといえば、強力な軍事力をも確保し、日本やヨーロッパの先進国は世界の植民地支配を行い、戦後においても、経済競争で勝利し、莫大な利益を蓄積しました。しかし、資本だけがそういう莫大な利益を手にするというだけではおかしいじゃないかと、皮肉ないい方をすれば、先進国の国民は議会制民主主義を利用し、その富の分捕り合戦を行い、その結果、先進国の国民は資本の戦略で世界から蓄積した富を、国民の豊かさとして享受し、それが同時に高い人権と福祉の水準を支えた。それが実態です。

 ところがグローバル化の中で、そういう人権が保障された、それ故に賃金の高い人間を雇い商品を生産することでは世界競争で不利になってしまった。なぜワーキングプアが生まれるか、ということを考えると、グローバル資本にとっては、できるだけ安い賃金を実現しようとすると、当然ながら日本の工場労働や一般的な技術が高くない事務労働は、発展途上国の賃金と同じ水平面で競争をさせる。しかし、国家によって最低賃金水準は異なる。日本国憲法はその25条で生存権を保障している。それは日本社会での「最低限度の文化的な生活」を保障している。しかし、発展途上国で賃金が5分の1ぐらいの国の労働者と同一平面で競争したとき、日本人の賃金は、日本人の最低限度の文化的な生活を保障するところよりも大きく下がってしまいます。その結果、先進国の中においてこそ、ワーキングプアが構造的に生まれる。多くの国内企業は工場を海外移転し、安い現地労働力で生産するようになった。その圧力で、日本国内でも、雇用政策が一挙に変化し、発展途上国なみの低賃金、非正規労働、派遣労働等が広まり、ワーキングプアが働く5人に一人にまで、急増していった。そして、グローバル資本はその経済力を行使して、国家権力そのものを、グローバル資本の戦略を実現するための「しもべ」へと変えつつあるのです。

 サッチャーからレーガン、小泉、そして安倍というラインは、グローバル資本が世界競争に勝利するために、国民国家権力を掌握し、新たな質をもった国家──それを新自由主義国家と規定するわけですが──へと改造しつつあるのです。
 安倍首相が国会の所信表明演説で「日本という国を企業が一番活動しやすい国にする」と宣言したのは、国民の人権と労働権を実現するための国家を、グローバル資本が勝利するために、国民の生活を低下させても改造するという方向へ踏み切ったということです。

(2)資本主義の未来と国民国家の関係の変化

 今日、起こっていることは、単に安倍首相がとんでもない悪いやつだから起こっているわけではない。グローバル資本というものが今日、世界競争に勝つために新たな戦略をもって先進国と発展途上国の両方、すなわち世界そのものを改造しようとする戦略が展開しているがゆえに、こういう事態が起こる。別ないい方をすれば、資本主義は生まれてから200数十年の間に、だんだんとその富を蓄積し、力を蓄えた。しかし、1990年代まではやはり国家権力の方が強かった。ある意味で市民革命が発明した「国民主権」権力、議会制民主主義の方が力があった。従って国民主権権力の側が、経済世界をある意味でコントロールすることができたが、それが逆転した。NHKスペシャルの「資本主義の未来」(2016-11月放送、3部作)は、国家と企業の経済規模を一緒に混ぜて、その額の多い方から順に並べてみると、上位100位までに企業が70,国家はたったの30だというデータを紹介していました、そこまで力関係が逆転したのです。

 一国単位における人権や労働権の水準の到達点は、まさに憲法として決められてきた。しかし、この憲法に従えば、先進国の蓄積してきた労働権や人権の水準を切り下げることはできない。これをなんとか変えたりその規制を取っ払ったりしなければいけないというところに来て、その大元である憲法そのものを変えようという動きが非常に高まってきた。確かに改憲の動きの背景には、安倍首相の特殊なイデオロギー、軍事大国化をめざす野望もありますが、財界からすれば、日本のような人権を保障されたシステムでは国際競争ができない。人権というものについてもっともっとレベルを切り下げることが可能になるような国家をつくりださなければダメだという事態が今、グローバル資本の総意から生み出されている。 そういう意味では私たちは今まで、単一国民国家において、とくに先進国においては国民主権というものを国内において機能させて、どんどん世界を人権や平等や豊かな社会に向けて発展させていく、そして日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国が世界の歴史を切り拓いていく先頭に立つことができるという、ある種の国民国家幻想に依拠して政治を考えてきたが、それがほとんど幻想に転化するような事態になってしまった。

 人々が働いて創り出した富が資本に蓄積され、資本に膨大な富が集積する。大企業には300兆円の内部留保があり、世界中でもっとも強力な富を資本が集めている。しかし、地球温暖化、世界の貧困の問題、地域産業の衰退、失業者の増加等々の、地球的な困難という問題に対して、資本はその富を投資する意欲はもっていない。例えば日本でリニア新幹線なるものをつくり、巨大な金を投資するが、日本国民の利益にはならない。その資本が何のために支出されるかは企業の重役室で決まる。確かに、ある程度の国家の許可が必要とはされる規制はありますが、その規制が緩和されるわけです。社会の富をまず資本が蓄積するという資本主義制度のものでは、その資本の蓄積した富を、議会制民主主義の政治がコントロールしなかったら、巨大な富を国民へ配分し、また必要な社会投資をすることもできない。

 そういう意味では、人類史上うみだされてきた資本主義の富の蓄積の最高の段階において、その富を、人権と平等、格差と貧困の克服、平和、地球の持続のためにどう使い、どうコントロールするかが問われている。例えばタックスヘイブンの仕組みによって、OECDの調査では年間約26兆円を企業が脱税している。現実には、それらの富は、もはや個別国家のコントロールを離脱し展開している。異常気象等の問題や地球温暖化を阻止するために、これらの富を使って対処していく道も奪われようとしている。このシステムに対してもう一度、国民主権国家が連帯し、EU、東アジア共同体のように国家が連帯していく、そういう新たな21世紀をつくりださないと人類は生き伸びていけない時代に直面している。現代をそういう時代として把握することが必要になっていると思います。

(3)補足=現代社会をとらえる認識枠組みの欠落

 このように考えてみると、今日、高校性をはじめ、多くの若者は、現代社会の激変、格差・貧困化の急展開をどうとらえたら良いのかの認識枠組みを持たないままで、不安と競争の中に投げ込まれているのです。高校の先生方は、生徒に現代をつかむことのできるどんな認識枠組みを提供されているのでしょうか。私は、現代の学校教育ではようやっと、帝国主義という概念は、提供されていると思います。帝国主義はなぜ第一次世界大戦、第二次世界大戦が起こったかということまでは説明ができます。しかしそれだけでは新自由主義、現代社会の急激な破壊の進行の理由は説明できないのではないかと思うのです。先進国で規制緩和で人権や労働権がどんどん奪い取られ、ワーキングプアが出現する必然性を捉えることができる認識枠組みは、現在の学校教育ではほとんど教えられていないのです。

 そう考えると、学校教育は、若者を認識において無知のまま、無防備なままに社会に送り出しているとすら言えるように思うのです。だから若者は劣悪な雇用しか得られなくても、それは社会のせいではなく、自分の競争力がない「自己責任」の結果だと受け止めてしまうのではないでしょうか。

 加えて、「知識基盤社会」という現代・未来社会像が、強力に押しだされてきています。例えば、中教審の答申の元になった文章の中では「今から20年ぐらい先には、今、展開されている労働の半分ぐらいがロボットになってしまう」とし、新しく求められる知的な労働に対応できる高学力を身につけないと、君たちの仕事も未来もないと、恫喝が掛けられてきています。この「未来像」もまた、君たちがであう困難は、学力をつけてこなかったせいだ、世界競争に勝ち残れる高度な知識を形成しないあなたは価値がない人間になってしまいますよと、すべての矛盾を個人の「自己責任」へと背負わせる作用を果たしています。

 しかしいま必要な認識は、なぜ社会の激変、人権の切り下げ、安心していきられる社会の仕組みが急激に壊されつつあるのかをとらえることであり、社会の矛盾=社会責任の問題というベクトルにおいて、問題の本質をつかむことなのではないでしょうか。


(二)道徳と憲法

(1)道徳性とは何か──道徳性の三つの段階

 安倍首相がいう最大の問題として、道徳教育ということがあります。この道徳についても考え方の根本をひっくり返して考えないといけないと思うわけです。そのためには、道徳性とはそもそも何かを考えてみる必要があります。

 クリストファー・ボームの『モラルの起源』は「人類は大型動物を狩るようになったときに初めて道徳性を身につけた」という説です。アフリカの東と西に地溝帯が分かれていく。その西側に行ったのが今の類人猿、東側に行ったのが人類。そして熱帯雨林は西側にある。動物というのは、労働なしに手と口で、直接食物を摂取するわけです。食物がなくなれば死ぬ。そこで争いはするが、それはエサのある場所の縄張り争いです。ところが人類は、エサをその個体の力で獲得するという方法ではなく、このサバンナで、協同の労働をしなければ生きていけない生物として出現した。そしてその労働はみんなで協同してやらないと高い成果を上げられない。逆に言えば、高い協同性を実現する方法を獲得した集団こそが生き残ったと考えられるのです。

 小さな人類の集団が生き残るために、メンバー全員の力を引き出す、それがサバイバル戦略と考えれば、素朴な民主主義が必要になる。ボスが食料やメスを独占するのではなく、みんなに平等に配分する。すなわち利他主義をもったリーダーが登場する集団がもっとも強力な集団としてサバイバルできたのではないか。そうでないボスに対してはボス殺しが、下級の雄によって、弓矢や石器を使って行われてのではないかと、ボームは考えるのです。そこに人類の道徳性の起源があるのではないかと主張するのです。私はそれをなかなか説得的だと思っています。それが人類の第一段階の道徳性なのです。

 もちろん哺乳類が子どもを育てる形を獲得する中で、親は犠牲になっても子どもを守るという、そういう子どもを思う心をもつ集団のほうがよりよく子どもを育て、サバイバルすることができる。そこにも人類の道徳性のも一つの起源があると思います。しかし決定的なのは、労働というものを協同労働としてみんなでやれるかどうかということだったのではないか。そういうものが道徳性の起源だとボームはいっているのです。

 ところが1万年ほど前、人類は農業を発明し、富を蓄積し、その富をめぐって争いをし、やがて私的所有が展開し、その私的所有をめぐって争いが起こり、軍事システムができ、国家ができ、階級国家ができるわけです。その段階では道徳性は第二段階に移る。そこでは形成された国家の正統性、永遠性を道徳観念によって与える。現存する支配の秩序が永遠に正しいものであることを示す理念として道徳秩序が作られる。そういう第二段階の道徳性が、農業が始まって以来、市民革命のときまで続いた。

 ところが市民革命の時代に、そういう秩序は、実は非人間的であり、人間の合理的理性からしても理不尽なものであるという認識が生まれた。差別的な身分制度や、日本でいえば切り捨てご免などがあったが、それはおかしいとなった。人間は平等のはずで、そしてお互いが言語を介して了解しあい、人間の理性に依拠して、多数の意志によって政治が行われること、そのために議会制民主主義という制度を作り、武力ではなく、多数者の意志に依拠して政治を実現していくことが政治的正義であるとなった。そしてそのことによって、国民による権力の選択は、武力と切り離され、平和の方法に拠って営まれるものへと転換したのです。そしてこの新しい平和の政治の方法の発明と共に、道徳性は、権力がその内容を決めるのではなく、一人ひとりの人間存在の尊厳こそがもっとも根源的な価値として把握され、人権や自由、平和、民主主義、生存権、国民主権などが規範として共有されることになったのです。それが、人類の第三段階の道徳性なのです。

(2)現代の道徳性の規範としての憲法

 戦争ではなしに、議論をし、言語の力によってみんなの主体的な一人ひとりの判断力を働かせ、議論し、その判断力の合意された形として、どんな政治をつくるか、どんな政権をつくるかということを決定していくことこそが最も人間的であるということをみんなが承認した訳です。だから、それを侵すものはおかしいものとして批判、排除され、平和的な秩序ができ、維持されているわけです。それは武力の脅しによって維持されている秩序ではなく、人々の中の正義観念や道徳意識によって支持され、維持されている社会の秩序なのです。すなわち現代民主主義政治、人権や平等の政治が維持されているのは人々の高い道徳性に依拠しているのです。そしてその集約された理念が、日本国憲法の基本的理念となっているのです。それは人間が、暴力に依拠しないで、平和的に、もっとも望ましい社会選択をしていくための方法を規定したものとして、歴史的に合意してきた到達点なのです。

 そういうふうに考えてみれば、実は政治というものこそが道徳性をつくってきた。そして第三段階の政治のありようというもののなかに人類が到達してきた最高の道徳性が実現されている。生存権、基本的人権、みんなで富を分かち合う精神、困っている人を助ける連帯の精神なども入っている。幸福追求権も憲法に入っている。そういう意味では道徳教育の根本は、日本国憲法の中に政治のありようの規範として明記された社会的正義、人間の尊厳を実現していく方法をどう継承し、発展させていくか、それを担える人間性や正義の観念をいかに一人ひとりに認識させ、獲得させるか、これが道徳教育の一番根本だと思うわけです。

 ところが今、起こってきていることは何かといえば、自己責任論であり、競争に勝つものしか生きられない、知的に低い人間は労働力として役に立たないというような差別的な価値観が広められ、格差・貧困が拡大し、「自己責任」なんだから困った人間がいても助ける必要はない、というような考えすら広まっている。それこそ道徳性の後退というべきではないか。 例えば企業の道徳性とは何かを考えてみましょう。企業の中に労働者の健康を気づかい、賃金を気づかう、そういう道徳性の高い経営者がいっぱいいるから企業の道徳性が高まるかといえば、それはウソだと思う。そうでなしに、これ以下の賃金や待遇で人を雇ってはいけないという基準がちゃんとあるがゆえに、その基準の上で競争しないといけない。もし基準がなかったら勝ち残るために非正規雇用者をいっぱい雇う企業が出てきたら、そんなことしてはいけないと考える「道徳性」の高い経営者の企業は負ける。しかし企業は生き残らなければならないわけで、生き残れないのに「道徳性」などというものにこだわっていることはできない。しかし、法的「規制」があれば、いくら競争をしようと思っても、その禁じ手を使うことはできない。そうなると雇用された人たちはみんな生存権を保障できるようになる。つまり規制があるから企業は道徳性を維持している。その規制が取り払われたら企業の道徳性はなくなる。だから今、「規制緩和」政策が進む中で、ブラック企業がいっぱい出てきている。そういうことを考えるといま、道徳性の水準を、政策がつぶし、企業がつぶしている。この事態に対して、国民や子どもたちの道徳性を高めれば、今日の社会の道徳性が高まるというのは、全くのすり替えであり、ウソだと思います。

(3)個人が道徳性の主体になるということ

 もちろん、個人の中に道徳性を担うことができないような人間性の破壊が進行しているということがあります。それについては、私は、一人ひとりが道徳性の主体になることができる条件の問題として考えるべきだと思います。

 若者が無差別殺人を犯すという秋葉原事件(2008年)がありましたが、その青年は、「もはや俺がこの世に存在する価値を誰も認めてくれない。もうこんな世界に生きている意欲もない。しかし、俺をこんなふうにしたこの社会に対する怨みをはらさないでは死ねない」というところへ追い詰められて、無差別殺人を犯した。人間が道徳性を引き受けるということは、他者と一緒に生きて行くためのマナーを引き受けるということであり、それは他者と一緒に生きてくことが自分にとってもこんなにすばらしいことだという関係と実感がある中で初めて、人間はそういう道徳性を引き受けようという意欲を自分の中に維持できるわけです。子どもたちにしても、小さいときから大事にされ、期待され、励まされていく中で、自分も他の人を支えようという気持ちになる。しかし、それが奪われたときには、もはや子どもたちの中に道徳性などというものを引き受ける意欲が奪われる。「自己責任」の論理で社会から見放される人々が多くなればなるほど、心から他者のことを考え、憲法的な正義に依拠してみんなが生きられるような社会を創り出すことに責任と意欲を感じる人々が減っていくほかありません。

 新自由主義の論理は、「そういう道徳性はいらないです。あなたが勝てばいいのです。勝てないのは自己責任です」という考え方を広めているのです。そしてそういう社会意識を剥奪された人々の「非行」を、規範と罰則の強化で取り締まろうとしているのです。

(4)安倍政権の道徳教育のねらい

 安部政権はどのような意図で、道徳教育の教科化を進めようとしているのでしょうか。

1)「自己責任」で生きる構え──社会矛盾への認識を閉ざす

 文科省の『私たちの道徳』を見れば分かりますが、あの中には「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」などの「お前がやっていないからダメなんだ」という格言がズラリとならんでいます。また中学1年生の1学期には、「あなたのいいところは……」「あなたは将来、どんな仕事に就きたいですか」「克服しようと思っていることは……」等々、「自分」の決意をいっぱい書かせるものになっています。これは河合隼雄氏が、心理主義的に、自分の内面に向かって自分の弱点を分析し、ある部分はカウンセリングで自分を慰めて、主体性を回復することが道徳の方法だという、そういう心理学主義的な道徳方法論のゆがみを組み込んだということも大きく影響をしています。新自由主義社会に生きるには「自己責任」意識の形成が不可欠というわけです。

2)「人権」意識を封じるー国家という共同体のために生きる

 二つめは、基本的人権をちゃんと主張することを断念させる。これは日本国憲法「改正」草案に非常に明確に出ている。おそろしいことに表現の自由、結社の自由なども「公益」や「公の秩序」に反する場合はそれを制限することができることが書かれている。また、日本国憲法は「日本国民は…」となっていたが、「改正」草案では「国家は…」となっている。そして「国民は国家を守り実現するために…」と書かれているという、国家のために国民が存在するという、基本的人権と国民主権理念の全く反対の、とんでもないものです。

 “人権を主張すると利己的になる”ということが、あたかも当たり前のように道徳教育の中で語られていますが、これはまったくのウソです。基本的人権を主張するということは、何も自分の人権だけを主張するわけではない。すべての人間の人権をどうやって維持するか、人権を本当に普遍的に理解すれば、それは他者の人権も尊重し、他者と共同していく人間が形成されるわけです。

3)愛国心の形成、そして地球世界の持続を考える視点の欠落

 安倍首相の求めるナショナリズムの意識の形成、「国を愛する心」の形成が意図されています。また、もし畏敬の念をいうならば、自然の再生可能エネルギーを使い、過疎になっている農村地域でもエネルギーが自給できるシステムをつくる。そして、若干の国のお金を提供することで、地域のもっている農業、林業、漁業、地場産業など、生存していくために自分の働く場として機能するようなシステムをつくる。そのために富を再配分していく。そして、地球世界全体が生態系を維持しつつ、人間が生きる場所として維持されていくことをどう進めるかをもっと本格的に考える。これらは人類が直面している最も重要な将来に対する選択の問題であり、これを進めていく考え方を高めていくことが今日の人類の道徳性にとって決定的に重要だと思う。しかし、そういう視点がこの道徳教育には全く入っていない。


(三)声を上げる民主主義と表現──フーコーの「生政治」

 現代の基本的な支配の方法は、ひと言でいえばPDCA敵目標管理によるものとなっています。具体的には、@教育基本法の2条に「教育の目標」が定められ、Aその目標に沿って文科省が勝手に学習指導要領を決め、Bその具体的な中身は何かということも文科省が教科書検定でやり、教科書ができる、C教育行政は教育の目標を定めて、それらを達成目標として、教育委員会や学校に押しつけ、D学校は管理職等がその目標を実現しますという約束をさせられる、Eその目標を実現するためのPDCAサイクルを組み込む、Fその達成度に応じて教員評価と人事考課で、給与の差までつけられ、Gまたこどもた、どれだけ目標を達成しているかと学力テストで点検される。

 これらは突出した抵抗する人間が圧力や制裁を受けるのではなく、全ての人の日常的に遂行していく仕事や業務の全過程が評価と監視にさらされ、そのすべてのプロセスに「こうすればもっとも利潤が獲得できるはずだ」という行動様式、方法論があてがわれ、それに従って行動しないと批判をされるというシステムです。

 ミシェル・フーコーという人は今日の支配は「生政治」の方法だという風にいいました。それは、それぞれ人間が自分の持っている能力、体力を資本として、この世界の中で競争して生きていき、よりよい富を自分にもたらすように自分に投資するという、今日の新自由主義的な競争世界の中で、競争できる主体として自らを形成していく、そういう新自由主義社会に即応して生きられる人間にするような環境をつくること」、すなわち主体化の権力というわけです。実に日本人はそうなっているわけです。自分の子どもがどれだけ高い学力をつけて、競争の世の中で生きていくかというために、多い場合は収入の半分ぐらいを教育費として注ぎ込んでいる。まさにそういう主体化を強要する権力的な「生政治」が展開している。そして学校教育ではPDCAのシステムが支配している。

 そこで何が起こるかというと、一生懸命に働いても、本当に自己実現しているという実感がなくなっている。しかもそういう目標をPDCAでまわしているときに、それに違反する人間が出てくると成果が上がらない。「私たちは一生懸命やっているのにお前は何をしているのか!」というふうに仲間同士の間に批判が向いてしまう。そして、抵抗する間は生きられる空間のシステムから排除されていく。それこそが今日の新自由主義的な支配の方法論です。だからこそ私たちはもう一度、自分たちの生活の現実に立ち返り、何が人間的な生き方であるかということをお互いに確認しあって、そしてお互いが困難をもっているその困難を「君もそうか…」というふうに了解しあい、「これじゃ生きられない」と声を上げていく。

 そういう意味ではこの「生政治」というか、目標管理社会、評価社会という中では、自分の感じている違和感、生きられないという身体感覚とでも言えるものを、声にしてあげる民主主義が絶対に必要です。今日において必要な民主主義は、一人ひとりがもっている生活の実感と思いそのものが重要な意味を持っているということを承認し、それを声にし、そこに共感しあい、それがなぜ起こっているかということを、お互いに解明していくような連帯をつくり出すものであることが求められているのです。そのことにおいて本当に一人ひとりが尊重されなければならない。これは子どもたちにとっても必要です。


(四)アクティブな学び(ラーニング)とは

 アクティブ・ラーニングというのがあります。

 人間というのはその心の根底で、必ずバイタルに生きている。そのバイタルという意味は、生き死に関わる問題として、毎日を生きているということです。いじめの中にいる子どももそうでしょう。勉強ができなくて将来が見えない子どももそうでしょう。非正規で困難な生活に陥っているのも、そのことを、自分の生命にかかわる深刻さとして生きているわけです。

 そうするとそのバイタルな思いに、いったいどういう意味があり、どうやったら克服できるか。それをつかむことにおいて、主体的な人間として生きていける。だからその思いに働きかけるアクティブな学びが本当に実現されたら、その人間はバイタルで、アクティブに生きてける。そういう学びの回路こそが最もアクティブ・ラーニングであるわけです。

 主権者教育というのもそういう意味では、本質的にアクティブでなければウソなわけです。「いろいろ勉強したら、政治の仕組みがわかりました。でも選挙は関係ありません」というのではダメなわけです。今の政治は許せないという認識になって、どう変えていくかというふうに、主体の姿勢が変わることが大事なわけです。

 そのためにはその人間が表面的に議論しているかどうかではない。その人間が抱えている最もバイタルな問題をどうやって自己認識にし、どうやって生きていったらいいのか、その回路を発見するという学習が創り出されなければならない。

 そういう点でいえば、アクティブ・ラーニングというのは、例えばある生徒を前にして、その学びを本当に活性化しようとしたら、まず、その子どもが抱えている内面の困難、矛盾、なぜ元気がないのか、つかまないといけない。子どもをつかむという行為なしには、その子どもが直面しているもっとも中心的な課題は発見できません。そしてその子どもをどういう認識、どういうところへ到達させていくかという、獲得させるべき、その子どもが生きていける到達目標を持たないと教育はできません。

 そしてそのためには、それに必要な教材をつくらないとダメです。そしてその教材を押しつけるのではなしに、どうすればその本人自身が主体的に学ぶかという方法論は必要ですが、今、いわれているのはこの形式的な方法論だけです。そうでなく、子どもをつかみ、目標を設定し、それに必要な教育内容を自分でつくり、そしてそれを一方的ではなしに子ども自身が主体的に学ぶような学びの過程の方法が必要です。これら全体を持たないアクティブ・ラーニングの構想は偽物だと思います。


(五)主権者教育と中立性の問題

 私から見れば、安倍政権が展開しようとしている教育の政治化は、まさに政治の力で、権力の力でもって、教育を彼らのいう政治の道具にする。その意味で教育が政治化される事態が展開していると思う。だからその議論は相当怪しい。こういう時代になるとそういう政府の政策を支持する議論が研究者からも出てくることを警戒しなければなりません。しかし、本当の意味で教育というものが深い意味で政治的意味を担っている。

 今日、真実を探究するということ自身が、政治的な意味を持っているわけです。しかし、真実を探究するということ自身は、教育的価値の探究なわけです。学問的真理や科学の方法は教育の世界においては、教育的価値として働くわけです。

 子どもたちが真実を知るということに、権力は介入してはならないのであり、まさにそれは教育が遂行すべき課題なわけです。だから、たとえば、憲法改正という事態が起こったときに、教育は黙って見ているということではないだろうと思う。憲法はどのようにして歴史的に蓄積されてきたか。そして今日の政治が立憲主義という土台に立って行われている、立憲主義とは何か、ということを知らせ、立憲主義を発展させる姿勢を育てることが、教育の責務となると思います。そして、それらはまさに子どもたちが今日の政治を主体的に担っていくために必要な知識であり、それらは教育的価値として、教育の自由のもとで遂行されるのが当然だと思う。さらにそれに対する干渉が許されてはならないというのが、まさに教育の中立性の基本です。

 もちろん教師は一方的に子どもたちに特定の価値観を押しつけ、政治的態度を強制してはならないことは当然です。それは教育の方法における配慮、中立性の原則です。そういうことを考えながら、しかし、これだけ大きな社会の変化があるともとで、私たちは教育というものを、本当に工夫することにおいて、必要な教育を創り出していく。だから私の本は『現代をどう捉え、現代を生きるか』となっているのですが、そういう問題に答えるような、教育を、教育の論理において追求する。そこをおそれてはならないし、勇気を持って取り組むことが必要だと思う。

 以上で終わります。

 
 「京都教育センター年報(29号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(29号)」冊子をごらんください。

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              2017年3月発行
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