事務局  2015年度年報目次 


戦後70年企画
「戦争をくぐり、教師として戦後を生きた証人の語り」 

   お話 安井 亨 ・ 黒田 壽子 さん

*京都教育センター事務局の責任で編集しました。
 
「学徒動員による被爆体験から─自分にとっての戦争とは」

 安井 亨 さん(元京都府・小学校長  宇治市在住・86歳)

 
 

はじめに

 今日は戦争をくぐったと生き証人ということでお招きを受けたわけですが、戦争をくぐるというのは、戦争時代を生きた人びと一人ひとりによってかなりくぐり方が違うと思うし、またそれはその人にとってはかけがえのない体験ではないかと思います。私はその一人として、学徒動員の舞鶴海軍工廠での実体験を中心にお話をさせていただきます。「私にとって戦争とは?」ということについては、お聞きのみなさん方からお話を伺いながら自分でも考えていきたいと思います。


舞鶴海軍工廠へ再動員令

 舞鶴海軍工廠へ動員を受ける前に、10カ月間名古屋動員へ出ており、そこを引き揚げてきた直後の再動員が舞鶴の海軍工廠で1945年7月11日のことでありました。まさに終戦直前の動員であったわけです。
舞鶴海軍工廠というのは、明治22年に対ロシア戦略として日本海側に設けられた軍港に併設をする軍事工場でした。私たちが動員されたときには、そこで働いていた人たちは数万人もいたと言われるような工場でした。私たちはその中の第二水雷工場というところへ配属をされました。水雷工場ですから、潜水艦の魚雷発射に関するいろんな部分を担う工場でした。そこでの19日間が経ち、運命の7月29日を迎えました。


運命の7月29日

 ちょうどその日は日曜日で本来は休みなんですが、半舷上陸と言って半数の人達は工場へ出ました。私たちはいつものように40分の道のりを歩いて出勤し、前日に続いてスパナをつくる仕事に取りかかった直後、私の耳にザーッと雨の降るような音が耳に入りました。この音は、名古屋動員でイヤというほど聞いてきた音で、爆弾が落とされる時に空気を切りながら落ちてくる波動音で、「危ない!」と私は思いました。しかしそのときはすでに遅く、目の前のガラスの奥に強い閃光がパーと広がり続いて大きな爆発音です。目の前のガラスの破片が私に向かって吸い付いてくるような錯覚に襲われたと同時に、ものすごい爆風を正面からうけて私は床の上にたたきつけられました。「痛い!」と思って顔や手を上げると血のりが手につきましたし、ガンガンとした耳鳴りでした。早く防空壕へ逃げなげれば次の爆弾が落とされたら私は生命がないとの思いで、すぐに立ち上がりました。あたりはものすごい粉塵と煙がモウモウと立ちこめて視界がほとんどきかない状況でしたが、ともかく手探りで階段を下りて、前の道を横切りトンネル状の防空壕の中へ大勢の人たちと共に逃げ込みました。

 警報が解除され外に出ますと、もう大勢の人が右往左往し小走りであちこちに散っていく様相がありました。道路には爆風によって吹き飛ばされたものが散乱する中を私は診療所へ向かいました。チラッと自分の工場に目をやると屋根も壁も全部が吹き飛ばされ鉄骨が残るだけの無残な姿になっていました。幸いにも私のケガはガラスの破片を顔にうけるだけの軽傷で、少し大きな傷のところには絆創膏をいくつか貼ってもらう程度で済みました。

 私の被爆はそれだけですが、被爆40年後に同級生全員でそれぞれの『被爆体験』というものを手記にまとめたものがあります。その中から一つ、ある友だちの手記を紹介します。

 「昭和20年7月29日晴れ、午前9時前、自分は柴田の前でいつものパイプ治しをやっていた。サイレンと同時に突如ゴーッという音。同時に耳をつんざく爆発音。自分は椅子の上から吹っ飛ばされた。外に出て吹き飛んだトタン板などを飛び越え夢中で壕に入る。壕の奥へ奥へと行く。小川は顔をやられていた。久保がやられて担架で運ばれつつある。自分はすぐに応急手当の処理に行く。なかなかやってくれないので包帯と綿をもらい、傷をくくってやった。盲腸のところを後ろから貫通されていた。加藤も頭をやられ倒れている。労災病院に着くと同時に空襲警報、ともかく病舎へ運び入れて応急手当をし、裏の壕内に入れる。防空壕の中で再び手当をする。空襲警報解除後、また病院内へ運び、三度目の手当をして寝かせた。

 その間、常に久保は『足がだるい』と言っていた。『喉が渇いたから頼む、ちょっとだけでもよい。水を飲ませてくれ』と言う。『ダメだ』と言っても聞かない。看護婦に尋ねて水をやる。少しすると『足がだるい』『背中が熱い。火の中にいるようだ。水をくれ』と言う。そのたびに聞き入れてやったがだんだん弱ってきた。一時半頃だった。『阪原の顔が見えなくなった』と言う。『そんなはずがあるか。目を開けてみよ』と言ったがやはり衰弱して見えないらしい。そうするうちにだんだん苦しみ始める。『水をくれ』『ダメだ』『少しでもよい。死んでもよいから頼むで、飲ませてくれ』。こんな問答が何回繰り返されたことか。そうするうちに呼吸が激しくなり、やがて遅くなる。やがて腹で呼吸するようになってきた。至急医者を呼ぶ。医者は傷口を見て注射をしたが、そのときはもうすでに久保が痛みを感じぬところまでいっていた。かくして2時10分、わが友、久保は五名の同僚に見守られ帰らぬ旅に立った。自分が着せてやったシャツも血まみれとなり、白衣も血に染まった。自分は心から久保の死後の冥福を祈り、体を拭き腹帯を巻いて白布をかぶせた。高橋が連絡に帰り、吉岡と山内が来た。彼らの話によると七名死んだと言う。その日は、吉岡と二人で久保の傍らに寝る。話しかければ彼の特徴のある笑い方をして話しそうな気がしてならなかった。夜はいろいろと久保の生前のことを思い出し、哀惜の涙にくれた」といったような内容です。

 中にはこのとき、結果的には右足を太ももから切断した友だちもいます。彼の手記によりますと、爆片によって右足の足首のところから吹きちぎられるような格好で傷を負っていたようで、その日に足首から切断しております。ところが切断したところから、何日か経つうちにだんたんと腐り始め、膝の辺までがナスの色のように真っ青に腫れ上がり、これでは命に関わる問題だということで、今度は、膝の上から第二回目の切断をします。その手記では、「一回目も二回目も大根切りという手術だった」ということです。切断をする場所の肉片を切り取り出てきた骨をノコギリで切断をしていくというものです。彼はその後、自分の町の病院に帰って治療を続けますが、切断をしたところの筋肉というのが徐々に縮んでいき、結果的には骨だけが突出するというよう状況になり、そこの病院で三回目の手術はその太ももの骨にそって肉を切り開き、やや奥からまたノコギリで切断する。そういう残酷な手術の状況を頭に思い描きますと、今でも身の毛がよだつような気がします。その彼は戦後、義足をつけて教壇に立ち、障害児教育の立派な実践を残しています。

 結局、19日の一発の爆弾によって、工廠全体では私たちの友だち9人を含む97人の生命が奪われ、百十数人という人たちが重軽傷を負いました。

 被爆五日後に、最後まで見つからなかった一人の友達の遺体ががれきの中から発見されました。急いで駆け寄って見ますとまさしく探していた平岡君の姿です。彼は五日間、夏の暑い日に埋もれていたためか、顔がふやけて真っ白であったことが今でも印象深く残っています。私たちはすぐにみんなでかけより、遺体を棺に納めて安置所へ運びました。そして、その日の午後4時頃だったと思いますが、担当教官の方から「これから仮設の焼き場があるからそこへ平岡の遺体を運んでみんなで茶毘に付す」という話がありました。そこで私たち六人は車に遺体を乗せて山の中に入り、仮設の焼却場に棺を乗せ、用意されていた木材を積み重ねて火を放ちました。

 暗い森の中でしたけれども、火が燃え盛る中で私たちは涙もなく、固唾を飲んで一つの生命が消えていく様子をじっと3時間あまり眺め続けておりました。火はやがて小さくなっていき暗闇の中で火が消えるのと同時に、彼の命もまた遠くへ旅立ったのです。


終戦(1945年8月15日)

 そして8月15日の終戦を迎え、8月19日に私たちは動員解除を受けます。それぞれの家へ帰ることになったのですが、私ともう一人の友人で平岡の遺骨を胸に抱いて、彼の生家のある加悦町を訪れました。玄関に立ったご両親に会うなり自分の体の深いところから吹きあがってくるような、悲しみ、苦しさといった感情が一気に噴きあがって、ご両親に「平岡くんの遺骨を届けに参りました」というのがやっとでした。そして、私たちはご両親とともに涙にくれるひとときを過ごした、あの辛さは今も忘れることができません。こうして私たちはやがて復学をします。そして、1949年3月卒業。憧れの教壇に立つことになりました。

 これが私の戦争体験の主なものです。この研究会のチラシに、小さい女の子が防空頭巾をかぶった挿絵が出ていると思います。これはあまんきみこさんの『ちいちゃんのかげおくり』という作品の中の一つの挿絵です。その『ちいちゃんのかげおくり』については時間の関係で端折ってお話をさせていただきます。この作品は、教科書教材にもなりましたから私も現職の時に何度も取り上げましたし、多くの人たちによって実践されました。(その実践についての部分は紙面の都合で割愛させていただきます:編集部)

 私たちは、この作品によって、必死の思いでお母さんを探し求めるちいちゃんは、空に消えていくことでしかお父さんやお母さんたちとの再会を果たせなかった。痛恨の思いとともに、そうさせた戦争への不条理などについて改めて考えさせられます。そして同時に人びとは、戦争の莫大な惨禍をも越えて、幸せな営みを築いていくという人間への強い信頼、そして生命への尊さを歌った人間への賛歌にも強い感動を覚えます。

 私たちは、これからもこうした人間賛歌を歌い続けていきたいと思っています。亡くなった九人の友達のことを思いながら、これからも私たちは日々の実践を続けていきたいと思っているところです。

 
 
「昭和」を生きて

 黒田 壽子さん(元京都市・中学校教員 宇治市在住・89歳)
 
 

はじめに

 私は大正15年生まれで、「サクラ読本」の第一期生です。私の一期上は「ハナ ハト マメ マス」という小学校の教科書です。私たちから色刷りで、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ コイ コイ シロコイ ススメ ススメ ヘイタイススメ…」となりまして、バリバリの軍国少女に育て上げられた世代です。


昭和初期のくらし

 私の田舎は伊勢鈴鹿市で海に近いとこでした。私の村何百軒の中で新聞をとっていた家は十軒もなかっただろうと思います。電話があるのは学校と役場と村長さんの家とお医者さんの家、そして金持ちの家数軒でした。私の家は貧乏なのに女学校へやってくれました。村中の笑いものでしたが、両親は学歴がなかったのが切なかったのだろうと今、感謝しております。

 そういう時代で、身分差別は当たり前のことでした。学校で履歴書に、士族、平民とか書かなければいけない。朝鮮は朝鮮人に対する蔑視の言い方です。叔父の工場で働く朝鮮人の賃金は日本人の半分でした。中国人はチャンコロ、ロシアはロスケと呼び、日本人は神の国の人。そのようにして他民族を軽蔑するように育てられたのだろうと思います。


戦争時代

女学生時代(開戦後一年の変化)

 私が頭に残っているのは二・二六事件です。「大変なことが起こった」らしい。小学校五年生のときに日支事変が始まりました。女学校三年生のときから、愛国行進国というのが国語の教科書に載ってくるようになります。

 三年生になると愛国百人一首のカルタ会が行われました。開戦は12月8日の朝。朝ご飯を食べている最中にラジオで聞きました。「能」にまでも手が入ったということです。勧進帳の中に「天皇が奥様を亡くして悲しみ」という場面がありますが、「そういう女々しい天皇は日本にはいない。書きかえろ」と言われた時代です。

 四年生では、防空演習。私は学校の防衛隊長でした。「死守セヨ」という命令が下る。校門を入ったところに線が引いてあり、そこで最敬礼、小さな小屋が建っていて、天皇の写真と教育勅語が入っている。これが奉安殿。それを死守するのが一番の名誉であったのです。

 物はすべて配給。戦前の食生活は米中心で私でも一日三合〜五合食べましたのに、一人一日二合三勺、それが二合一勺になりだんだん欠配になり、しまいには200日ぐらい欠配になりました。四年生の国史の授業で、「日本神話を信じますか」と言われました。みんなが「信じない」と手を挙げたのですが、私は先生がかわいそうなので「信じます」と手を挙げたら喜ばれました。答案のどこかに、「鬼畜米英、撃ちてし止まん」と書かないと公民、歴史、修身の先生は点数をくれませんでした。卒業式の朝、「別れの歌」が突如「海ゆかば」に変っていました。「山に行っても、海に行っても天皇のために死のう。後悔しない」と涙をポロポロこぼして歌いました。


女専時代

 雨の中、学徒出兵も見送りました。今、テレビで見る明治神宮の学徒出陣は、自分たちが見たのとダブり、なぜかしら涙がこぼれます。今から考えればあの中に私の恋人になるべき人もいたかもしれない。私の年代は自らの家族を持ち得なかった独身者が多いのです。

 本科一年生になりますと学徒動員。私たちは島津三条工場で旋盤を握り、飛行機の部品であるピストンをつくっていました。空襲警報がなったら双岡まで逃げるのです。時間がないときは工場と工場の間に掘った防空壕へ。

 昼休みに源氏物語ぐらいは読もうではないかと先生がおっしゃって輪読をするのですが、みんなくたびれて寝てしまうのです。今、五条通、御池通は広いですね。空襲のための強制疎開だったんです。私は五条通に動員されまして、大黒柱を切って、上に綱を付けて馬車で引っ張ります。メリメリと檜建ての家が壊れました。

 東京が3月10日にやられ、3月13日に大阪がやられ、次は神戸だと、姉の一家を助けに行った日が3月17日(神戸空襲)でした。
空襲警報。B29は圧巻でした。爆弾が落ちたときにバーンと空中で破裂すると、何万という火の粉に変わるのです。ザァ〜とアラレが降るような形で迫ってくる。隣近所の子どもたちがギャ〜と一斉に泣き出す。庭の立木にピタッとくっついたらそのまま立木が燃えていく。みんなで必死に消しました。消えたと思ったら、隣の町内の空き家から燃えだして、もうこれはダメだと思いました。私はモンペの上に義兄のズボンを二枚はいて、オーバーを着て、水に浸した防空頭巾をかぶって、姉の四才の男の子を背負って、姉妹と五人で逃げました。空は火がゴーと渦を巻き、地獄そのものでした。小さいときお釈迦様のお祭りで見たあの地獄図よりもっとひどかった。あれは生き地獄だったと今、思います。

 所々にある水で頭を突っ込まないとダメなんです。誰かが「山へ逃げろ」というのでみんな山に逃げ、また「山ではダメだ。海に逃げろ」というので海に逃げた。やっと朝になって姉の家を見に行ったら、風向きに助けられて無事でした。

 午後、須磨から元町まで焼け野原の一本道を歩きました。その途中、電線に引っかかって真っ黒になっている人やら、いっぱい人が死んでいた。生暖かい臭い風が吹いていて、人間というのはそういう状況のもとでは人間性が喪失するのですね、悲しいとも、あわれとも思わず、ただだるくなり、とぼとぼと歩きました。電車があるというのを聞いて「神戸で焼き出されました」というと京都の四条大宮までタダで乗せてくれました。四条大宮から家までまた市電をタダで乗せてくれました、家に帰ったら、「もうダメだ」と思っていたと母が泣きました。

 そのあと、食料がなく大変でした。私のすぐ上の姉がお産で帰ってきました。家は六人になりました。配給がなくなり、おかずも、主食も何もなくなりました。あるとき配給があるからとよろこんで行ったら、九条ネギ二本でした。それで一週間六人がどうして食べられますか。田舎ならなんとかなるだろうと母と姉たちを田舎へ帰らせて、私は寄宿舎に入りました。寄宿舎も大変で、馬町が焼夷弾でやられて、小松寮も大変だったのに、箝口令で一切何も知らされない時代でした。


敗戦後

 敗戦後の生活は食料がなくもっと惨めでした。満州から三番目の姉が一歳と三歳と五歳の子どもを連れて帰ってきました。夫はソビエトに抑留されていました。一歳の子はもうどこがお尻か分からないぐらい痩せていました。

 「米糠が自由に買えるようになったから安心して帰省してきなさい」との母の手紙を見て、満州から引き揚げてきた姉が、「壽ちゃん、米糠で何をするの。ニワトリを飼っているの?」「違うよ、私たちが食べるのよ」。米糠を入れないと菜っ葉だけではドロッとしない。糠をたくさん入れるとその晩、下痢をするのです。姉は「満州のほうがまだ食べるものがあったよ。内地は塩がないというから持って来たのに、お砂糖もないの」というから、「お砂糖なんてもう何年も見たことない」という時代でした。


戦争でわかったこと 〜気がついたときにはもう遅い〜

 戦争ってパッとくるもんじゃないということです。気がついたら戦争になっている。気がついたときにはもう遅い。そのときにはこっちが戦争を欲するように仕向けられています。治安維持法がありましたが、あれでみんな何も言えなくなり、山宣はそれで殺された。

 2012年秘密保護法が成立したとき、「これは危ない!街頭に立とう」と言い出したのは85歳の友だちと私です。12月年末、宣伝カーで訴えてもみんなケロッとしている。戦争をからだで感じてきた私たちと、理論的に知っている60代、70代とは違う。それ以後、毎週、街頭に立つようになりましたが、今夏以降、やはり年齢のせいか一回立ったあと何もできなくなりました。

 教育、マスコミが支配者にとってどんなに大切なことか。今の安倍さんのやり方を見ていたら分かりますね。NHKにまで文句を言ってそれは恐ろしいことです。私はいまNHKの受信料を払っていません。「安倍さんがやめない限り、NHKの運営委員を代えない限り払いません」。教育、秘密保護法、戦争法それらは全部お膳立てされていて、とうとう来るものが全部来てしまったという不安がいっぱいです。私達が市民に訴え、クビをかけてたたかってきたのは、みんな今日のためだったのです。


終わりに 〜教員になってよかった〜

 私が変わったきっかけは、「教え子」という未来の歴史を築くいのちを預るという大変な仕事についたことです。教員になって本当によかったと思います。

 お寺の縁の下から通ってくる子、戦死者の子もいれば、家庭教師がついている医者の子どももいる。その55人が同じクラスでいて、そこで矛盾を感じて私はいろいろと鍛えられたと思います。

 第23回「血のメーデー」が初参加。「卑怯者去らば去れ 我等は赤旗を守る」と、それだけ自分に言い聞かせながら歩きました。

 教師であった私はいっぱい生徒から教えられて鍛えられました。もう一つは京教組のたたかいです。これは誇り高いたたかいで、京都の民主陣営を築いていったのは京教組だったと言っても言い過ぎではありません。

 今労働者組織、ことに教職員たちのたたかいが見えないし、聞こえてこない。「絶望に生きしアントン・チェホフの晩年をおもふ胡桃割りつつ」という短歌が毎日新聞に出ましたが、今名作『桜の園』のタイトルに喜劇と書かなければならなかったチェホフの深い悲しみと無念さを思い、私の心はゆれます。「教師の任務は…」という話について、私がやってきたことを本にも書きました。私が京教組におったから、教員だったから、変わり得たこと、だからこそ誇り高く胸を張って今を生きておれることについてもう少しお話をしたかったのですが…。これで私の話は終わりです。

 
 「京都教育センター年報(28号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(28号)」冊子をごらんください。

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              2016年3月発行
京都教育センター