事務局  2015年度年報目次 


記念講演
「戦争責任をどうとらえるか−−学校・教師の教育責任を問う」

   講師 佐藤 広美(東京家政学院教授/教育科学研究会副委員長)

*京都教育センター事務局の責任で編集しました。
 

0 なぜ、戦争責任を問うのか?

 2011年の3.11以降、私はずっと福島にこだわってお邪魔するようになりました。とにかく行かなくちゃいけないという気持ちがありました。どうして福島なのかというと、自分でもよくわからないのですが、戦争責任のことを考えていたからでしょうか。自分には何か責任があるのではないかという気持ちがあったのでしょう。行くたびに、すごい現実を見せつけられているのですが、それを見てその事実をどう分析するのか、ということも大事ですが、それよりも「あなたはどのようにして今まで生きてきたのか」をずっと問われているような気がしたのです。それが問われていて、そういうことを被災者の方に話さなければいけない、という気持ちをずっと持ち続けてきたということです。

 それからもう一つ考えたことは、福島の人たちがいろいろな思いをされているわけですが、「受難と分断」に生きるというか、保証金問題でもさまざまな分断があるわけです。そういうなかで国家なり東電という大きな責任主体を被災地のみなさんがいかに告発するかというむずかしい課題がみえてきたのです。そんなことを私たち一般の人間が本当にできるのかと思ったりもしました。そういう告発できる主体(人間)はどのように形成されていくのか、そういう人間とはいったいどういう人たちなのか。ということが、すごく気になり出し、そうした精神形成史的な難題にずっと直面してきた感じでおります。

 しかも自分は原発の危険についてほとんど何も知らないままできた。福島原発事故があって、そして自分は東京に住んで、福島の原発の電気をもらって生きてきた。そういう自分は加害者ではないのか、というある負い目を負っている。そういう自分がこの問題を考えなくちゃいけないということで、同じ所をぐるぐる回っていたようでした。


罪(モラル)の社会構造的な認識が求められている

 自分の中に罪(モラル)の社会構造的な認識が求められている、という課題にぶつかったわけです。これも直感で思い立ったのですが、水俣に行きたくなったということがあって、水俣に年に二回くらい行くようになりました。患者さん方にお会いしていろいろお話を聞くということをしてきたのです。

 水俣はとても海と景色がきれいなところで、海も穏やかなところです。ここの漁民たちにはかつては、至福の記憶というか、豊饒な海の生活(慎ましいが、張りのある人間らしい生活)があったのです。その記憶が国家やチッソを許せない、というものへつながっていく大きな力であったのではないかということを考えてきました。そういう「闘いの力」の源泉のようなものが記憶のなかに豊かにある。あるいは、さらに、想い起こすということが受苦の思想(苦しみの共有・連帯)をつくり出し、共に闘うという「赦し」の思想へと発展していっているのではないか。そういうことも水俣に行って考えてきました。

 先の戦争は、日本人の生き方の本当の姿をさらけ出したと思っています。さらけ出された日本人の罪にきちんと向き合って、敗戦後の再出発をどういうふうにしようとしたのか、ここを本気になって考えてきたのか、どうか。特に、教師や教育学者は考えてきたのか。これが最近ますます気になっています。水俣や福島の人たちの話を聞くにつけ、教育者は本当に考えてきたのかという思想の深さ・強さが気になって仕方ないのです。

 私が博士論文の『総力戦体制と教育科学』を書いたのは1997年だったのですが、その時は学会で「お前は断罪史観だ」などといろいろ批判されて、ほとんど無視されてきました。最近、少しずつ戦争責任の問題について教育学会でも論じられるような雰囲気が出て来ている感じもあって、3.11あるいは今の情勢のなかで、教師の思想あるいは教育の思想の問題を考えるうえで戦争責任を考えることが本質的な問題につながるのではないかという直感を、だんだんと多くの人が持ってきているのではないか、と思えてきています。


 

1 戦前の教育を考える―教育の植民地支配責任とは何か


国語教科書―日本語の強制と母国語の剥奪が隠されながら子どもに入る

 どういう戦争責任があるのかということでは、いろいろな語り方があると思います。私の場合、植民地の教科書の研究会に少しかかわっているものですから、教育の植民地支配責任とは何かということで、教科書を使って考えてみたいと思います。

 まず、アジア太平洋戦争が始まるちょっと前の戦前の最後の教科書である第五期国定教科書(1941年〜)の二年生の国語教科書の教材「ラジオノ コトバ」です。

 この教材のポイントは、日本の言葉は「正シイコトバ」、「キレイナ コトバ」ということになります。朝鮮語や中国語は正しくないのか、ということになるのです。そして、日本語は近代語であるということが思想的メッセージとして隠されているわけです。「マンシュウニモ トドキマス。/シナニモ トドキマス。/セカイ中ニ ヒビキマス。」ということになるわけですから、日本語の世界進出・アジア進出、日本語の強制ということと母国語の剥奪という意味が、この教材のなかに隠されています。

 アジアの子どもたちや人々が自主的に日本語を学んでいるということを巧みに織り込んでいるのが国語の教科書の中のあちこちに散見されます。つまり、一年生から六年生まで国語を習い、書き方とか漢字とかいろいろなことを覚えるのですが、それといっしょに、「あぁそうか、アジアの子どもたちやアジアの人たちはちゃんと日本語を勉強しているんだ。」ということを子どもたちは自然と覚えていくということになっているのです。

 二年生の「支那の子ども」という教材では、「子どもたちは、ちゃんと、『兵たいさん』という日本語を、おぼえているのです。」と、あります。最後のところは極めつけです。「…すると、とつぜん一人の子どもが、大きな聲で/青空高く/日の丸あげて、/と歌い出しました。それについて、子どもたちは声をそろえて歌ひました。/青空高く/日の丸あげて、/ああ、美しい、/日本の旗は」。植民地の子どもたちに日本語を覚えさせ、母国語を奪うということが教科書を通してこういうかたちで日本の子どもたちのなかにすう〜っと教え込まれているのです。ここに、私たちの罪の問題があるのです。


地理の教科書―丸暗記を排し、「語り」を大切にしたファシズム

 地理の教科書は非常に客観的な記述を丸暗記するというイメージがあるのですが、この国定教科書は全然そういうことではないのです。つまりは丸暗記の教科にはしないということで、それはそれで当時の文部省はものすごい力を入れて工夫し、子どもにおもしろく読ませる地理書を作るというねらいがありました。つまり当時のファシズムは、戦争を高揚するために丸暗記ではだめで、いかに子どもたちを勇気づけるかという語りを大切にしました。ナショナリズムというのはものすごく「語り」が上手な政治でもあるのです。

 六年生最初の教材「大東亜」の二段落目を読んでみます。「日本は、この大海洋と大陸とを結ぶ位置にあって、一見小さな島国のように思はれますが、よく見ると、北東から南西へかけ、あたかもみすまるの玉のようにつながり、いかにも大八洲の名にふさわしい、頼もしい姿をしています。北へも南へも、西へも東へも、ぐんぐんのびて行く力にみちあふれる姿をしています。」―こういう感じでやられたら、子どもたちは「わぁ、そうかぁ。」と思うわけです。続けて、「もともと、わが國は~のお生みになった尊い神国で、遠い昔から開けて来たばかりでなく、今日も、こののちも、天地とともにきわまりはなく、栄えて行く国がらであります。」といきますと、子どもたちは「おぉ」って喜ぶわけです。次の段落にいくと、「世界にためしのないりっぱな国がらであり、すぐれた國の姿をもつたわが国は、アジア大陸と太平洋のくさびとなり、大東亜を導きまもって行くのに、最もふさわしいことが考へられるのであります。」―と言って、国土の優秀性、地理的優秀性、パワー・ポリテックス思想のナショナリズム版という感じで書かれているわけですから、子どもたちは「わぉ〜、すごい」となるわけですね。


国史教科書と扶桑社『新しい歴史教科書』 (2001年)の酷似

 国史の教科書は上・下とあって、古代から今日までということで、五年生、六年生それぞれに2冊あり、六年生は現代の方です。「憲法と勅語」という教材ですが、明治憲法と勅語を並べて載せるのは第五期国定教科書の時が初めてで、憲法と勅語を並べて載せているのは今回の育鵬社の教科書も同じです。

 明治憲法をどう記述しているでしょうか。「…この日、天皇は、まず皇祖皇宗に、したしく典憲制定の御旨をおつげになったのち、皇后とともに、宮中正殿にお出ましになり、皇族・大臣、外国の使節を始め、文武百官・府県会議長をお召しになって、おごそかに式をお挙げになりました。(中略:編集部)…民草は、御道筋を埋めて、大御代の御栄えをことほぎ、身にあまる光栄に打ちふるえて、ただ感涙にむせぶばかりでした。(以下略)」―このように日本の民衆が感激して祝賀行事を行い、憲法を受け入れる記述となっていますが、憲法とはどういうものかという中身は何も書かれていません。

 実は、こうした明治憲法や大東亜戦争に関する記述が、西尾幹二や藤岡信勝が最初に出した扶桑社の『新しい歴史教科書』 (2001年)の記述と酷似しているのですね。


朝鮮の植民地教科書―韓国併合がどう記述されているか

 教科書で最後に見ておきたいのが植民地の教科書です。1920年代から30年代の朝鮮人の子どもたちが通った学校のことを普通学校といったのですが、ここに、朝鮮総督府の学務局が作った「普通学校修身書巻5」(五年生)があります。すべて日本語で書かれていて、最初に教育勅語が載っています。

 この修身教科書(全二十三課)では、第一課と第二課が「わが国」で、第一課が日本の国民の道徳(モラル)の話を書き、第二十三課が「よい国民」、第三課から第二十二課までは徳目をずっと並べて日本の修身教科書を真似て作り、はじめと終わりできちっと、「お前たちは日本国民としてモラルを身につけなさい」というサンドイッチの記述になっているわけです。今日みなさんと見てもらいたい「第二課」は、韓国併合のことを書いてあります。韓国併合、これが決定的に重要な事項になってくるわけですね。

 朝鮮はなぜ併合されたのか、併合されるべくして併合されたということをきちっと記述しています。要約すると、朝鮮は長い間自分たちの力で自分の国を治めることができなかった(停滞史観)、自立できない国であるということ(他律性史観)が書いてあって、お前たち自身が自ら日本に統治権を譲って、朝鮮人自身が植民地になることを望んだのではないか。だから日本はあなたたちを併合して治めてあげた、と書いているわけです。

 教師用指導書の方では、朝鮮が併合(植民地支配)された後に朝鮮はどうなったかが書かれています。「…朝鮮では、昔は盗賊や乱民などが人を殺したり、人の財物を奪ったりすることがあって、人民は安堵して暮されませんでしたが、今は政治が行き届いて、悪者が少なくなり、世の中が安らかになりました。(この後、インフラや文化資本の整備などすすんだこと、役人たちの横暴はなくなり、学校も立派になったと続く:編集部注)/このように、種々の事が改善され、弊政は年と共に除かれ、半島の民は等しく皇恩に浴し、世界の一等国民としてその文化に貢献する事の出来るようになったのは、まことに幸福なことです。」―教師は、朝鮮は植民地にされたからこそ近代化が進んだのだ、日本はいいことを朝鮮にしてやったのだ、こういうふうに朝鮮の子どもたちにしゃべるわけですね。

 
 

2 戦前の教育と教育学

総力戦教育論のトライアングル構造

 戦前の教育学者は何をやっていたのかということに私は気になって、戦前の教育の雑誌を復刻して調べてみると、すごいことを教育学者はいっぱい書いているのですね。それを図式化してみたのが「総力戦教育論のトライアングル構造」です。総力戦のために教育学者がいかに貢献したのか。三つのトライアングルの構造があって、ものすごく大きな構造になっていて、巨大な渦が渦巻いていて、どんどん教育学者が呑み込まれ、また自ら渦の中に入っていったのではないでしょうか。

 「日本主義教育学」が親分格なのですが、これだけではとても戦争は戦えないということで、朝鮮から南洋諸島に至るまでそれぞれの地域毎の植民地教育論があれこれ作られました。これが「大東亜教育論(植民地教育論)」です。それから戦争でアメリカと戦うわけですから、様々な近代的な技術を駆使して総力戦をしていくためには合理的な教育学を作らなければならないということで、「戦時教育改革論」が出てきました。ここで六・三制構想など限定的であるけれど合理的な改革基盤がつくられ、戦前の教育科学研究会もこの「戦時教育改革論」に絡めとられていく、という側面があります。


総力戦体制を批判する教育学とは何であったのか?!

 こうした戦前の教育学の決定的な、理論的な弱点ということで言えば、一つは国家認識―特に、総力戦体制の「革新性」批判の問題があります。近衛グループや昭和研究会のように合理主義的な人々がおり、かつてのマルクス主義者が入って何とかこの戦争の狂信性を止めようという善意も合わさっているわけですが、総力戦体制を遂行する国家の「革新性」に教育科学研究会などは期待をしてしまうわけです。だから、宗像誠也という教育学者も「天皇の下での社会主義」を本気で考えてしまう。かつて社会主義を勉強した人々が天皇制でもってみんな平等な赤子だ、それが可能となると本気で考える。

 それから植民地支配教育(侵略主義)ということもあって、ものすごい数の植民地教育論がつくられました。アジアの人々を見下す傲慢な文明史観も決定的な弱点でした。

 戦後教育学はこの二つの弱点をきちんと見据えて新しい戦後教育学をどうつくってきたのかということが問われることになります。この二つを真に批判していく核は何か。そういった時に、「教育的価値」「子どもの発見」「子ども認識」―これが重要なんじゃないかと私は思っているわけです。「教育固有の価値」ということでしょうか。

 教師が子どもを大切に思えるか、実践というものを豊かにとらえることができるかということが、先ほどの国家認識や侵略主義を真に批判できる教師の姿勢につながっていくのではないでしょうか。おそらく戦前の生活綴方の佐々木昂などにはそうしたすぐれた思想があって、教育学者よりよっぽど深いと思います。

 だから私は、社会の構造把握と人間のモラル(教育的価値の形成)を追求することが教育の戦争責任の追及だと考えています。教育の戦争責任の追及の核心が、自ずと子どもを発見することであり、教育実践の価値を豊かにとらえかえすことに繋がった、それが国家の価値を超えることになる、ということが私の結論になります。 

 

3 戦後、教育(学)は戦争責任をどのように考えてきたのか

勝田守一(1908〜1969年)の場合―戦争への加担=罪を自覚することによる希望の回復

 戦後、子どもの発見、教育実践を豊かにとらえかえすというところでどうだったのか。私は、勝田守一という教育学者がかなりがんばったのではないか、でもまだまだ深まりが足りないとも思っています。勝田をとりあげたのは、勝田が特にこの京都に関係があるということもあります。

 勝田は京都帝国大学の哲学科を1934年に卒業、松本高等学校で教師をして、それから文部省(一九四三年―四九年)で敗戦を迎えました。勝田がリーダーシップをとって戦後の社会科をつくったといわれます。その後は学習院を経て東大に。日教組の教研の講師も務められているのですが、ほぼ教育科学研究会一筋の方だったようです。卒業論文は、ドイツロマン派哲学のシェリングを研究され、『シェリング』という立派な本も書かれています。

 戦後、勝田はどのように自分の戦争責任を自己批判して、教育的価値を発見し、教育理論をつくりあげていったのかを考えてみたいと思います。

 なぜ勝田は哲学から教育学に移ったのか。戦争反省の必然が教育学でなければだめなんだということだったと思います。SEALDsではないですが、自分の言葉で自分の戦争責任を反省し、自分の言葉で国家の価値を超える内面の価値を豊かにする仕事こと教育学ではないだろうか。勝田は、教育学を自分の一生の仕事にしていく決断を行って、戦後を出発していったのでしょう。

 シェリングの哲学は、人間の悪が大きなテーマの一つになっているのですが、勝田が書いた戦前の『シェリング』という本では、この人間の悪についての記述が弱いのです。それが戦後の48年、戦争を体験して、シェリングの悪という問題を見つけます。彼は自分の中にある戦争に協力したという人間の悪ということをシェリング哲学から発見し、悪というものを見極め、それを見つめて人間性をもう一度回復していくという教育の力に希望を持っていったわけです。自分の戦争への加担という悪(=罪)を、シェリングの悪の哲学を人間性への信頼の哲学へと読み替えていくことで問い直し、勝田は二度と国家には屈服しないとする「子どもと教師を信頼する教育学」の方へ入っていったと思います。


二人の教育行政学者―宗像誠也・五十嵐顕の場合

 宗像誠也(1908年〜1970年)は、戦後すぐ自分の戦争責任論をいろんなところに書いて、それが彼の国民の教育権論(人間の尊さを打ちたちる教育)につながっていきました。戦争責任論を深めたからこそ、宗像は国民の教育権論を作り上げたということです。
五十嵐顕(1919年〜1995年)は逆で、ほとんど自分の戦争責任は隠していたわけです。民主教育論、社会主義教育論、レーニン教育論までやった人ですが、最後は戦争責任論に移っていきました。宗像とは一見逆なのですが、どうしてもやっぱり戦争責任論にいかざるを得なかったのです。戦争責任を深めていくことがどうしても必要なんだということを二人の教育行政学者を通して考えたい。特に、五十嵐の場合、論文そのものは難しい論文ばかりだったのですが、エッセーでユーモアを交えたものを書いていて、おそらくユーモアを交えないと自分の戦争責任に届かないところがあったのではないでしょうか。そんな「ユーモアとモラルと戦争責任」の関係を深めてみたいと思っています。


 「京都教育センター年報(28号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(28号)」冊子をごらんください。

  事務局  2015年度年報目次 


              2016年3月発行
京都教育センター