事務局  2015年度年報目次 


第9分科会

「京都の障害児学校『授業づくりで大切にしていること』
~「教科別の指導」「合わせた指導」について考える~ 」

   西城 信幸 (京都障害児教育研究センター)

 


Ⅰ. 基調報告

「障害児教育とは何か? 今、改めて この問いかけを!」  木下博美(京都障害児教育研究センター代表)

1.「障害児教育とは何か? 今、改めて この問いかけを!」

 即時的な成果が要求され、子どもの表面的な行動変容を求める「強い指導」が全国的に広げられ、キャリア教育が、学習指導要領作成の中心的研究者も次のように憂慮する事態になっています。

→ 職業的自立に向けた職業教育一辺倒に!?

→ 教師の号令による集団訓練のような授業!?

 その中で、教育目標や評価が「できる」ことばかりに偏重し、短期的に「測定可能なもの」に限定されてきているのです。文化的なもの、人間的なものが、どんどん薄められ、教育目標から消されてきています。果たしてこれは教育なのか!教育に名を借りた差別ともいえる事象さえ生じています。

2. 教育の目的とは何か?

 学習指導要領では、教育の目標を「生活に生きる力をつける」としています。その中では、社会適応自体が目的となり、就労(率)に合わせた行動変容への直結指導となりやすい傾向を生みます。一方、教育基本法では「人格の完成」が目的とされています。それは、生徒自身が社会資源を活用(創造)して、生きていく主体者(主権者)としての人格を育てていくことが目的であると私たちは考えてきました。行動の内面にある人格発達を目指すこと、そこにこそ教育の目的があると考えています。

 教育は、人として豊かに生きていく力(人格)を育んでいくことが目的です。「社会適応」を目的とする指導の中では、「人間性」、「人格の発達」が軽視されやすくなります。教育計画の中に、集団・自治・育ち合いの視点を込めることが大切であることは、それが人格として育つために必要であるからです。

3. 教育のトップダウン化が進められると

 子どものアセスメントから個別の指導計画・授業作りまで教育のマニュアル化が進められ、学校運営の方針も教育活動そのものもトップダウン式になる中で、成果主義が持ち込まれています。教育を生産性の論理で評価してはなりません。人格の育ちを教育目標から切り離したら、それは学校教育ではなくなるのです。

 教職員集団の中の自由な討論が失われ、「育ち合う仲間」意識や同僚としての学びが薄められてきています。教職員の自由な発想が奪われた学校では、子どもたちの「育ちの自由」もまた奪われるのです。

4. 京都で大切にしてきた「発達段階別の基礎学級」と「多様な学習集団」

 京都の養護学校では、発達や障害に基づきながら基礎の学級編成を行い、学習集団は多様な質の集団を編成してきました。基礎学級によって、子どもたちの育ちを発達的に見ることができ、発達課題を指導者間で共通認識し、教育目標を科学的で的確なものに練り上げようとしてきたのです。またその上で、発達段階や生活年齢など質の異なる学習集団の持つ教育効果を「集団のうず」と表現し、様々な文化的集団的学習活動の場を設定した教育内容を大切に創り上げてきました。

5. 私たちが大切にしてきた伝えたい教育理念

 「学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに合わせた学校をつくろう」
それは、与謝の海養護学校設立の実践の中で生み出されてきた言葉であり、同時に京都の障害児教育の中で共通の理念として大切にされてきた科学的障害児教育の在り方です。今まさにこの言葉の持つ意味が重要になってきています。

6.「共通言語化」とは

 京都府の行政主導で学習指導要領に基づく授業名の統一(共通言語化)が言われ「領域・教科等に分けない指導」(「合わせた指導」)への統一が図られてきています。その中で「(知的障害児教育に)教科は必要ない。」との声までも出されてきています。果たして本当にそうなのか。これまでに積み重ねてきた「教科」の実践、また教科に分けない実践(「課題学習」など)を実践的に検討する中で、授業づくりの大切な視点を明らかにしていきましょう。

 そして何よりも「共通言語化」を図ることが、思考の停止や教育目標の形骸化をもたらすことになってはなりません。その意味でも、この10年ほどの間に強められてきた指導計画や教育目標等に対する文言チェックと繰り返される添削の強化が、「教育目標を、子どもたちではなく管理職の意図に添うものとして作成する風潮を職場にもたらしている」という重大な問題点を生み出してしまっています。

 子どものことを語ることなく、教育目標が表記上の整理としてのみ作られている。子どもたちの姿を見ることもない4月当初や3月末にさえ、年間指導計画を立てることが求められている場合すら出てきています。

7. 伝えあい学びあえる場として

 子どもたちの姿とその生活をまるごとにつかみとり、その発達に真摯に向き合う中で、ひとりひとり(個別の教育的ニーズ)に合わせた教育を、集団の育ち合いの中で生み出してきた京都の障害児教育の実践を、大切に伝えあい学びあえる場として本日の分科会を進めていきましょう。


Ⅱ. 実践報告

1.「教科」学習

 理科/社会科「わたしたちの くらしと しごと」の授業づくり

2.「課題学習」

 課題学習「仕事しらべは 自分しらべ」


Ⅲ. 京都市の総合支援学校の教育課程について

 「職業学科」と「ユニット学習」


Ⅳ. 論点整理

「京都の障害児教育が大切にしてきたことと、学習指導要領にもとづく教育課程の現状」 安井芳幸(京都障害児教育研究センター)


Ⅴ. 分散会での話し合い

1. 第1分散会の話し合いの概要

 各校、それぞれで「発達」という言葉を使っていますが、発達検査上の数値での子どもの見方、評価とすることが多くなっています。「発達」という意味合い、子どもの発達が形成されていく原動力のようなところからとらえていく必要があります。このあたりのところが難しくなってきています。

 京都府の支援学校の場合、各校がそれぞれの教育課程をつくってきました。各校それぞれの子どもの実態から各校の実践にもとづいて自主編成してきた教育課程だといえます。その教育課程の総括、具体的には担任間の話し合い、指導グループでの話し合い、全校での話し合いなど従来行ってきたことが難しくなってきていると話し合いました。

 京都府の支援学校でも若い世代の先生方が多くなってくると、「中心課題」のことを考えたり、教育課程の問題に気づいたり、そのことと子どもの話が結びついたりすることも難しくなっています。こうなると、前につくられたものを踏襲することになり、教育目標を設定していくことが難しくなってきている状況もあります。

 従来から「子どもの生活をまるごととらえる」ということを大切にと言ってきました。「生活をとらえる」ということで、与謝の海が「民主的な地域づくり」、「学校づくりは箱づくりではない」と言ってきました。「地域づくり」ということが大きな課題になっていました。各校で「作業所づくり」を始めとして地域社会の福祉機関、事業所、医療機関などとの連携を深めてきました。これが学校が地域のセンターとしての役割を果たすという事だったのではないでしょうか。教員は必ず地域に入り、地域の関係者と一緒に子どもたちの生活向上のための活動をしたり運動を創り上げたりしてきました。ここの所が近年弱くなってきています。「子どもの生活をとらえる」ということが教員の実感として受け止められていないということが最も現状の困難な点だと話し合いました。

2. 第2分散会の話し合いの概要

 前半の話し合いでは、中間的に4点の論点についてまとめました。

 まず、府教委が進めている「授業を共通言語で合わせた指導としてまとめよう」ということについて、若い世代の先生たちにも理解できるような、モデルとなるような授業をハンドブックなどにしようと進められていることの問題点はどこにあるのかを話し合いました。

 二つ目は今日の授業実践は、どちらも子どもに良く合った授業・指導で「学習形態論の違い」の問題ではないと言うことです。

 三つ目は、「授業づくりは子どもの実態からスタートする」のが良いということです。子どもたちをどのように発達的にとらえるのか、そして、学習の目標をどのように設定するのか、その中で教材や教育内容をどのように設定し、展開していくのかが重要だということです。その後に「学習形態」が決まっていくという教育課程づくりが基本だということです。

 四つ目は、何を大切にしているのかということについては、子どもの人権ということだなとしました。

 後半での話し合いは、さらに踏み込んで、名古屋氏の論文や全国の各学校での話、指導助言の内容についてです。名古屋氏の話は実践者の話ではないので、「名古屋氏の言葉」の受け止め方に関しては私たちの論議が一層必要だと話しました。

 報告の教科実践については、授業を行ったことによって「ちくわ」について知った知識や「働きたい」という気持ちが湧いてきたこと、そして、ある生徒が自分のつくってきたちくわについて「貴重なちくわ」と話したことなど、楽しい気持ちになったことなどから、教科も作業学習の視点も置いたものにして、労働教育の視点がある実践だったと話されました。

 京都の教育課程の中で特に集団編成の方法が教育課程づくりの大きな柱になっていること。

 後半の話し合いで大事だったことは、私たちが「子どもを育てる」や「教育をする」という中で人間を育てること、人格を育てること、内面を育てることという難しい教育課題、府教委に言わせると共通言語ではない視点をどのように教育課程の中に反映させていくのかということでは、教科の視点である「国語的」、「音楽的」というような視点で進めるのが教師の仕事ではないのかなと話し合いました。


Ⅵ. 全体討論

① 学習指導要領は指導の形態について「合わせた指導」でも「教科別の指導」でもどちらでやってもよいということになっている。今なぜ「合わせた指導中心」の教育課程が言われているのか。

② 全特連の雑誌などには「合わせた指導」と「教科別の指導」を対立的に考えず、関連させながら教育課程に位置づけることとしている。その中で現在の全国の授業の実態をみると「合わせた指導が中心の教育課程」の方が良いとされていのだと思われる。

③ 学習指導要領はあくまで授業の方法を拘束されるものではないと考えて良いのか。

④ 一番の大本は、教員が子どもにつけたい力を考えて、授業づくりをするとき、教科的に指導するということは、発達の視点で考えるということにつながり、このことが大切なのかなぁと思う。生活の中から買い物学習をするということが悪いわけではないと思うけれど、単に経験させれば良いというのは目標論がぼやけるような気がする。本当に子どもに力がつく授業になるのだろうかと思います。

⑤ そもそも教育目標を決めるときに教職員集団で話し合ってきたとは思うが、どこに依拠するのかということだと思う。ここにいる先生たちは学習指導要領には依拠していないと思う。でも教育基本法には「人格の完成」と書いてあるし、このような道筋で子どもの授業について考えてきたというベテランの先生の話に若い世代の先生たちが納得して代々引き継がれてきた学習目標に依拠すれば良いのか。私たちは学習目標がおかしいと感じでも反論する材料を持っていない。何かに書いてあれば、ほら、ここに書いてあるでしょうってお互い理解しながら話せるのですが。「話し合って決めます」だけでは上に立つベテランのトップダウンになりそうで不安です。

⑥ 初任者なので初任研でも、今日も、いろいろ話しを聞かせていただいて頭の中が一杯になっています。これまでの授業で、子どもが「楽しみが止まらない」と話したことが印象的です。教育課程や教え方などいろいろあるのですが、「楽しみが止まらない」と言ってくれるような授業をしたいなと思います。そのためにまた、たくさん勉強したいと思います。

⑦ 名古屋さんの論文をそのまま読むことの危険性を感じています。始めの基調提案にもつながると思うのですが、これまでの発達の学びやたくわえもあり、教科の系統性のある学校が、「合わせた指導」という言葉や枠組みがプラスされて育っていくものや整理されていくということと、校長が「発達は要りません」と言い放つような学校で「みんなが生き生きとしていればよい」とか、「自分から動いていれば良い・・・」、「それなりにみんなが一緒にいる感じがあれば・・・」というようなことを言うと授業の中味が全然違ってくるのだと思います。学年制で幅のある集団でも、しっかりしたクラスでは同学年の友だちと共に育って良いように言われますが、そうではないクラスではとても悲惨なことになります。やはり発達とか教科の系統に 「合わせた指導でやりましょう」というのは各校それぞれで引き取り方や問題意識によって違う響き方や違う課題提起になることを押さえておくことが大切だと思います。

 今後、京都にも新設校ができ、学年制になっていくのかどうか・・・。

  高等部は今でも学年制になっていることもあり、子どもの集団編成のあり方によっては、適応主義的なキャリア教育が「主体的に」、「自分で動いている」・・・というような「子どもの行動の自動化」を伴って行われることに強い危機感、危惧を感じます。


Ⅶ. まとめ

「これからの教育を考えていく上で 指標をどこに置くのか」 西城信幸 (京都障害児教育研究センター)

1.「教科」をどうとらえるのか

 実践報告がされた2校の学習のスタイルは同じで体験的な学習内容です。

 何が違うのかと言えば、学習目標(ねらい)の置き方が教科の視点が中心的な目標となるのか、生徒たちの発達課題が中心的な目標になるのかが違うことになります。

2. 量の保障が質的転換を生む ~ 日課、時間割、週時程の問題

 授業展開を教育課程で考えていくときに「量」の問題は大きいのではないでしょうか。「横帯の設定」であったり、同一の視点で単元を連続的に行い、量を保障しています。

3. 京都市の「職業学科」、「ユニット授業」

 障害が比較的軽い生徒は「職業学科」で学習する、それ以外は「合わせた指導」で学習ということになります。つまり福祉と企業就労で学校での学習を分けるということになります。

4. 京都の「教科」学習と学習指導要領の「教科別の指導」

 教科とは、「人類の文化である科学、芸術を発達段階に応じて習得させるよう系統的に組織したもの。」です。知的障害者には通常学校の「教科」をそのまま教えることはできないというのが学習指導要領の結論です。向日が丘の「課題学習」も、ここからスタートしています。

 これに対して与謝の海は「どんなに障害の重い子にも教科学習を」というスタンスを取りました。障害があって発達的に違っても、人間として発達していく道筋は変わらない。障害があるからこそ科学的認識を育てていかなくてはならない。系統的で緻密な実践を進めなくてはならないとされています。そして、科学的な認識・認知をもって主権者として育てるという教育目標を持っているというスタンスです。

 ただ、重要なことは、与謝の海の教育課程が示しているように「普通教育の教科をそのままするのではありませんよ」ということです。ここが重要です。

5. 実践を読み解くポイントは「(教育)学習目標」の違いです

 学習指導要領の基本は「特殊」、「特性」です。「特殊教育」であり、「障害特性」です。ですから教育目標が「民主的な人格の形成」ではなく、「自立と社会参加」になってしまうのです。それは、障害者と健常者でねらいを変えてしまうのです。「障害者教育は特殊な分野です」というスタンスから抜けきれないでいます。

 重要なことは、学習指導要領の文言は国家の政策として読み取るべきものであって、使われている言葉をきちんと読み取らなければ実践が混乱します。このような意味で私たちが実践を語るとき、学習指導要領の言葉で考えていくべきはないと考えています。

6. どんな教育目的観、目標観を持つかが核心的な問題

 窪島氏はこのことを「教育目標は生活の中における子どもの具体的姿から の発達論を媒介としての一般化としてある。」と述べています。

 そして、「目の前にいる子どもたちを念頭に置いて、この子どもたちの全体的発達を見通したとき、次の段階において これこれの力を獲得することが期待される、或いは教師の側においてどういう力を子どもに育て上げたいのかという要求に照らしたとき、認識発達、自我―社会、性の発達、運動―操作機能の発達等々の課題は何かが明らかになり、そこからの授業時間、単位時間、教科内容と時間、訓練等の必要性の根拠が生まれてくる。」と述べています。

【「障害者教育科学」10号、20号】

 先ほどの分散会での論議にもあったように、現在の社会との関わりの問題、家庭の生活実態の問題、その展望の問題に言及しています。

 「教育実践がいかなる教育目的観、目標観を持つかが核心的な問題である。一方で障害・発達に関する科学的認識が、他方で親、教師を含む関係者の社会認識、とりわけ今日の日本の資本主義における障害者とその家庭の生活の実態と展望の中で子どもの成長、発達の事実、課題を位置づける力量が、更には、成長、発達の全面的保障と位置づける力量が、更には成長、発達の全面的保障という 教育的価値が正しく受け止められる教師、親の連帯をどう築くのかということが、教育目的、目標の設定において問われているのである。」 【窪島氏】

 ここで重要なことは、教育課程というものは、各学校における共通の教育目標の設定のもとにつくられなくてはならないということです。それは、その学校の教職員集団の討議の深まりとともに合意されて作られていくべきものであるということがとても大事になってきます。

8.「生活」、「学習観」について

 私たちも学習指導要領でも「生活」という言葉をよく使います。加えて、名古屋氏は「自然と・・・」、「自ずと・・・」という言葉をよく使います。「本来の生活を丸ごと活動として展開すれば自ずと各教科の内容が含まれる」としています。

 学習指導要領は、その生活を変えられないもの、そこに適応していくしかないものとして捉えています。問題は実践する教師自身が現実を肯定、黙認することで現状の社会、生活に適応させることを教育の目標にしていることです。

 私たち教職員が教育を行うとき、どのように社会を認識して、どのようにあるべきなのかという主体形成の問題です。子どもたちが卒業して移行する労働現場の実態はどのようになっているのか。本当に子どもたちの人権や労働権が守られているのか。そのことに対してどのような立場を取るのかということが重要な問題です。生活そのものが学習の手段となり、現実に対し、耐えることを求め、耐える力をつけることを求めてしまっていないかということが問題です。

 もう一つは先ほどあった「自然と・・・」、「自ずと・・・」ということで学習と言うことを単なる生活経験の中でどのように行動変容したかということだけに着目し、認識の系統的・計画的な指導がおざなりになっているのではないかということです。このような中で教育の意図的指導があいまいになっていないのかということです。ここが学習のとらえ方として、例えば「自由あそび」と「設定した遊び」の違いが不明確になり、「主体的」、「意欲的」に遊んでいれば良い。そうすれば「自然に」、「自ずと」力がついてくるということで説明が終わっています。このような意味で、教育の果たす役割、教員の果たす役割、教育独自の固有性が欠落しているのではないかと考えます。ここに学習指導要領や名古屋氏の限界があります。

9.「ハンドブック」などによる × と ○は教員の思考停止を生む

 「ハンドブック」には学習目標の書き方が示されています。「内容は具体的だが、教科や技術的なねらいになっているから×」や「漠然としている・・・」などと理由があげられています。この学習目標がどうなのかという論議の前に、こっちが × で、こっちが ○ ですということをハンドブックにして教員に押しつけることが問題です。

 今後、府内の各校で「共通言語での統一」が行われ、論議のせめぎ合いになるだろうと考えます。さらに、電子化システムの中で文書管理の統一が行われ、どんどん硬直化が進むものと考えます。それこそが教員の自由な発想や豊かな実践を阻害している元凶なのです。

10.「科学的な障害児教育」とは何か、具体的な実践・授業の中で深める

 私たちはもう一度、「発達の主人公は子ども」であること。そして、「発達理論に立脚した実践の展開が必要である。」ということを噛みしめる必要があります。「科学的障害児教育の創造(発達や権利の総合保障)」ということが大事な問題だと考えます。

 そこで「科学的障害児教育」の内実は何か分からないという話も出されました。田中昌人氏が当時の科障研集会の中で話された言葉があります。「人間発達の共通性を前提にして、各種の個別性を科学的にとらえる。」そして、「障害のある人の発達の原動力を内部矛盾として科学的にとらえる」これができないと科学的とはいえませんというわけです。障害のある人の発達の原動力を内部矛盾においてとらえ、そしてそこに科学的な発達の源泉を組織するということです。どこでその人がつまずいているのかをきちんととらえ、それがどのような発達関係があって起こっているのかをとらえることによって具体的な人間とその人格をつくっていくということです。

 それと「弁証法的認識論」の問題です。「教育の関係は相互浸透です。」ということ。矛盾をとらえた上で、そこに統一を実現していく。そこに豊かな相互浸透がある。先生の人格、クラスの雰囲気・・・、「クラスの中で何でも言えるような対等平等の雰囲気」というような友だちどうしの関係。それが相互に浸透していく中で育っていくということです。このような安心感があってこそ、自分に対する信頼感も獲得していく。これが「科学的障害児教育」ですと話されました。私たちはこれからも「科学的にとらえることの意味」を具体的な実践や授業の中で深めていく必要があります。

 今後問題となる点は、「教育課程」の問題です。窪島先生がまとめておられますが、「教育課程というのは子どもに働きかける教育実践の総体の計画化、構造化である」とされています。私たち京都障害児教育センターは、この間、「何を目指して」「教育目標」の点に着目して研究を進めてきました。更に、具体的に「何を」、「どのように」という教育内容や教材、方法というところでは「ワンコイン学習会」などで実践を交流してきています。

 次は「集団編成」の問題です。教育課程を基礎づけているのは集団編成です。京都府内ではまだ、焦眉の課題としては上がってきていませんが、今後、問題になるところです。


 
 「京都教育センター年報(28号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(28号)」冊子をごらんください。

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              2016年3月発行
京都教育センター