事務局  2015年度年報目次 


第2分科会

「子どもたちの生きづらさをこえる生活指導実践と教師の仕事」

   横内廣夫(生活指導研究会事務局)

 

T. はじめに

 昨年度から生活指導研究会と発達問題研究会は独自分科会として開催している。生活指導研究会の会員が発達問題研究会の運営委員としても活躍されている。そのこともあって本分科会への参加を呼びかける独自ビラも作成した。しかし残念なことに有効にそれを活用できなかったことが悔やまれる。FaceBookに投稿し一定の反応はあったものの参加者の大幅な増加には結びつかなかった。次年度の課題である。参加者は延べ11名の教員(内私立中学高等学校勤務の新人教員1名含む)と教師を目指している立命館大学の学生2名であった。新しい参加者を迎えることができたことは喜ばしく、今後の参加に期待できる。

 生活指導研究会事務局編集による教育に関する新聞記事並びにデジタル配信集(『第2集9月26日〜10月16日』、『第3集10月21日〜12月12日』)を配布した。以下分科会の概要をまとめることとする。


U. 基調報告

「生活指導・教師の仕事を問う」 横内廣夫(生活指導研究会事務局)

 「基調報告」を2つの柱から構成した。それらは「1.今年度の生活指導研究会の報告内容」と「2.生活指導・教師の仕事を問う−私たちに必要な学びと安らぎのアソシエ−ションを−」とである。「1」については「教育センタ−と各研究会年間計画・生活指導研究会」の項を参照して頂きたいが、生活指導研究会で何を課題としてきたのか、またそこから見えてきた教員が抱える「問題」を再度整理し吟味する目的があった。従って教育実習を経験した学生たちの報告、教育実践に悩み問題を自己へ内閉化し責任の内面化だけをいたずらに進行させがちな新任教師の実践報告(特にIH先生の報告)、そして子ども理解を深め子どもの危機(傷つき)を子ども自らが克服しようとする(自らを肯定できる)力の芽生えをうながしていとする教育実践(海田先生の報告)、それらすべての報告を収めている。

 「2.生活指導・教師の仕事を問う−私たちに必要な学びと安らぎのアソシエ−ションを−」の概略に触れる前に、「1」に所収した10月18日実施の公開研究会での「基調報告」の一部を紹介しておきたい。

 2014年11月27日日本教育学会会長藤田英典氏は岩波書店から『安倍「教育改革」はなぜ問題なのか』を出版した。この著書には、「緊急出版!政治の暴走がもたらす教育の危機−安倍政権による教育政策<5本の矢>で子どもと学校はどうなる?」と記入された帯紙が付けられている。

 第一の矢:思想統制−教科書改革実行プランなど

 第二の矢:人格統制−「こころのノ−ト」改定と道徳の教科化

 第三の矢:教育機会の制度的格差化(制度的・市場的統制)−小中一貫校の制度化などの学校システムの制度的再編

 第四の矢:教育統制−全国学力テストの学校別結果公表や大学入試改革

 第五の矢:財政的統制と行政的統制−教育軽視の財政と政治の暴走を促進しかねない教育委員会制度改革

 藤田氏は、この<5本の矢>を「いずれも、偏見・先入観や特定のイデオロギ−に立脚しており、憲法や国際的人権規約の理念・規定と教育の条理を無視し、日本の教育の適切性・卓越性と将来性の基盤を歪め掘り崩す極めて危険なものである」と位置づけている。同時にこれらの教育政策が「教師たちは教師としての仕事ぶりを問い、迷い、たちつくす日々を送っているのではないだろうか。そればかりか、教師としてのアイデンティティを根底からゆさぶられているのではないだろうか」(竹内常一『生活指導とは何か』全生研常任委員会企画 竹内常一・折出健二編著 高文研 2015/8/20 p.5)という深刻な事態をひきおこしてきている。そしてこれらの教育政策がますます深刻な教育状況をうみだし、子どもたちの健全な成長・発達の土壌を縮減し略奪していっていると思えるからである。これらの教育政策が何よりも学校、教員、子どもたちから「拒否できる自由」を奪いさり、「拒否できる自由」に目覚めさせない管理主義教育の徹底の様態を示しているからである。2015年7月16日文科省教員養成部会中間まとめ「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について(中間まとめ概要)」は、そのことを示すものである。

 かかる状況下で生活指導は何を大切に取り組むべきなのか。

 折出健二氏は、前掲書第三節「<弱さ>と向き合う生活指導・集団作り」のなかで、幾つかの視点を挙げている。(p.182-187参照)

◆クラスの子どもたちの権利宣言(それは教室空間における平和の相互確認である)を土台にして、「初めに子どもの権利の相互承認ありき」が生活指導・集団作りの出発点になる。

◆参加を基盤とする教育実践は、まず子ども自身が権利主体として自己と他者を認めることから始まって、相互の声を出し合える対話と討議の空間を仲間と共に保持していく自治的集団作りへの参加を指導の課題とする。暴力をおこさず、暴力にうったえず、暴力を黙認しない。そういう子どもたちが育っていく過程には、規則と決まりの体系としての徳目主義道徳が中心に位置づくのではない。

◆競争の徹底によって翻弄される他者への関心と配慮、個性を認め合い守りあうという意味で、子どもの<弱さ>に目を向け、<弱さ>をバネに子どもが成長していく生活指導・集団作りである。

◆権力が子どもの生き方を指導するのではない。子どもと友に切り拓くように働きかける実際の生活が、その変革されていく生活が子どもの生き方を導くのである。しかも、その生き方は具体的な場面や問題をとおして、何が共に分かちあうべき価値なのかを問うという倫理性を備えたものである。

 だとするならば学校づくり・教師集団づくりの課題と連動しながら、かかる教員同士がいかに自覚的に仲間を増やし、仲間を増やす(育てる)のか、この問が大きな課題意識として浮上してくるであろう。その課題意識が「2」の提起と結びついている。

 某大学の教員志望の学生のレポ−ト「理想の教師像」を読むと、「1.授業が上手である 2.子どもたちに干渉しすぎずに目をくばることができる 3.子どもたちが心から反省できるように話し合いながら子ともたちを叱ることができる。着実に一歩ずつ先輩の先生方に助けてもらいながらでも少しでも自分の理想とする教師像に近づくことができるように努力したい。」という趣旨の内容が多い。子どもたちの目線にそった子どもたちが求める教員、心にぬくもりが感じられる教員になりたいと願っている。しかし必ずしも教員としてのスタ−トは上手くはいかないこともある。躓いたり自信をなくしたり、子どもたちとの関係がずたずたに切れることだって起こりうる。一般的に生徒との関係が上手くいかない時に個人レベルでもがけばもがくほど事態は悪化していくであろうし、自信がなくなればなるほど生徒1人1人と向き合うことができなくなるであろう。また支える教師集団が存在しない場合は、事態の改善につながる方針が持てないと言える。かかる悩める教師を私たちはどのように抱えていくのか、かかる悩める教師を私たちはどのようにして自信を取り戻せるようにしていくのか、そして私たちは悩んだとき、どのように事態を解決していくのか、という問いである。 「2.生活指導・教師の仕事を問う−私たちに必要な学びと安らぎのアソシエ−ションを−」では、

○「私」ではなく「私たち」でなければこれらの力を獲得できないという認識の大切さ

○「私」が獲得した力を他の人たちと分かち合うことの大切さ

○「私たち」から「私」を創り出すという勇気と謙虚さの大切さ

○「私」を「私たち」の1人として関係する大胆さとおおらかさの大切さ

 これらの大切さが、今日の子どもたち守り教師を守ることにつながり、教師の生きづらさをお互いに支えあう土壌になり、文科省の教師政策に対する地道な対抗軸になるのではないか。従って子どもに寄り添う教育実践を通じての学年団づくり、学校づくりを目指し、自分の実践を豊かにしてくれる(確信を深めてくれる)学びの場の確保していく必要があり、そしてその場が安らぎの空間になるであろうと提起した。

 【意見】若い教員と経験ある教師という図式化には疑義がある。教育現実の厳しさは経験ある教師にも重くのしかかることもあるし、また若い教員にはそれなりのすばらしさがある。機械論的に対立構図でえがくことは間違いであろう。


V. 問題提起

「子どもたちの生きづらさの現実」   高垣忠一郎先生(臨床心理学者)

 高垣氏は度々自らのFacebookを通じても問題提起をされている。例えば1月12日には以下のような投稿がある。
 「多様な教育機会確保法案」のこと いま、「義務教育の段階に相当する普通教育の多様な機会の確保に関する法律案」(多様な教育機会確保法案)が問題になっています。連休中の「登校拒否 ・不登校問題全国連絡会」の「全国世話人会」でもこの法案のことが議論されました。わたしはこの法案(法案の名称そのものが変化しており最終的にどこに落ち着くのか不明)が問題になり始めた当初から、不登校の子どもが学校以外のいろんな場で学習できる機会を確保する法案を、「多様な教育機会」と称することに強い違和感を持っておりました。「教育」を「勉強」や「学習」に矮小化することはできません。教育の目的は「教育基本法」にも掲げられているとおり「人格の完成」であり、私流に言えば、それぞれの人生の主人公になる「人格」(「生きるめあて」と「生きるちから」を兼ね備える)を育てるのが教育です。その「教育の目的」に多様性などありえません。誰もが「人生の主人公」になれるように手伝うのが教育であるべきです。また多くの不登校の子どもたちがみんなと同じように先生やクラスメートとの楽しい学校生活ができることを願っているのです。その親たちの多くがそんな子ども時代をわが子が送ってくれることを願っているのです。そのためには、ふさわしい「時間」「空間」「仲間」が必要です。ならば、国が為すべきことはおカネも人もかけて、そのような学校が実現するように援助することです。少人数学級を実現し、教師の数を増やし、学校統廃合などやめることです。学校教育にかけるカネや人を削るようなミミッチイことをやめることです。
 為すべきことはエリート「人材」を養成するという国家目的に合わせて、学校以外の多様な「学習」機会を与えることで誤魔化すことではありません。この法案の「正体」が暴露されるほどに、この法案は結局、安倍政権の提唱する「一億層活躍」路線のなかに、不登校の子どもも巻き込み、12万人の子どもたちのなかに埋もれた「エリート」候補生を網にかけて掬いあげ、活用する狙いをもつものであることが明らかになってきています。いじめや不登校問題に苦しむ子どもたちのためを思うかのような偽装のもとに、大多数の不登校の子どもやその親たちの願いをミスリードし、犠牲にすることはゆるされません。 

 高垣氏は「誰もが『人生の主人公』になれるように手伝うのが教育である」と強調されている。昨年度本分科会では「奥行きをもってその子どもの本質を観る」こと、「世間相場と生命相場の両面から子どもをしっかりと見つめる」ことが大切であり、子どもの心・気持ちの代弁者として存在するのが教師なのだから教師が生まれ変われる必要があり、自浄グル−プをどのように作っていくかが大切である、と提起された。

 今回の問題提起の大筋は以下のようになる。

 教師も追い込まれ、子どもたちも追い込まれているこの現状をどう見るのか。こんなに走っていてどんな意味があるのかと自問する機会も奪われ、「みんな頑張っているのに」と強迫観念にとらわれ取りあえず走らされている教師と子どもたち、そこには脅し、見捨てる アメとムチの世界が支配し、心と心との響き合い(共感)の世界が萎んでしまう。子どもたちは「見捨てられる」という不安、ある特定の部分だけで比べられて優劣が決められるという傷つきやすさを抱きながら生きている。時には自分を傷つけ、相手を傷つけ心に地雷を抱えながら生きている。相手の立場に立ってものごとを見ることができず、自分の立場と相手の立場の違いが理解できず、またそれを理解する練習(経験)することさえできなくなり、自己中心性から脱皮できないまま思春期を迎えている。伸び伸びと自分を表現することができにくく、自分の思いを自分の言葉で語れない、訴えることができないままで生きている。しかし教育は、子どもたちの主体性を尊重しそれぞれの子どもたちの「生きる目当て」と「それを実現していく力」を育てていく営みである。それが「人格」を形成するということに他ならない。そこで大切なことは、教師は子どもたちの「意見」=viewを尊重することである。

 ところでviewを英語辞書で引いてみると、「意見−見方、眺め−視野」と説明されている。高垣氏は、子どもたちの「意見」 = viewを「子どもたちが見えている世界」、「子どもたちが感じている世界」ととらえ、教師はそれらをどのように理解していくかが重要なのである。そしてそのことが「子どもたちに寄り添う」ことであり、子どもたちが人間的に成長しているかどうかという評価と子どもたちに共感する「二つの目」で営まれる教育実践が求められていると提起された。

 教師は「声を聞き取ること」が困難な子どもであればあるほど学校的価値や世間の常識を相対化し、子どもの言葉にならない言葉を「聞き取れる」ようになることが期待されているのである。


W. 実践報告(1)

「今じゃなくていいよ、あまえていいよ」  瀬戸有佳子先生(府内小学校)

 瀬戸先生の報告は多くの研究会で学ばれている。それは登場する小学校4年生の明君と俊君に対するアプロ−チに示唆を受けるからであろう。自分の気持ちを上手に訴えることができない子どもは、行動の中にあふれ出てきたり身体にあふれ出てきたりするものだが、それらの現れをいかに受け止めていくべきなのかを具体的に示しているからであろう。

1.明君と俊君

 明君−2年生の春に弱視であることがわかり、「視神経萎縮」という診断。それまでの経験や学習の積み重ねが乏しく、やりたくないことはしない。立ち歩く。注意されるとキレて殴る蹴る。反面機嫌がいいときは1対1での関わりを求める。家庭環境はとても複雑。俊君−不安が強く、初めてのことやできるかどうか分からないこと、負けそうなことを前にするとね「無理!」「いや!」と拗ねてしまう、立ち歩く。物を投げる。教科書を破る。

 明君も俊君も荒れが深刻になっていった。


2.瀬戸先生の戸惑い

 学年会で明君と俊君がうろうろし始めたら教室から出して、3人で囲んで指導するという方針がたったが、「対処療法で絶対うまくいかない」と思ったが、自分のクラスのことだという負い目で何も言えない。今年度の学年団では昨年度のように自分の悩みを出し合えないという戸惑い。

3.明君と俊君の見立てと取り組み

 瀬戸先生は、5月の合同生指サ−クルで方針を確認した。それは彼らの生い立ち、家庭環境、背負っているものは何かを分析することである。

 明君−離婚、再婚の経過の中で一人目の父親の暴力によって「小さい頃に親に甘えやわがままを受け止めてもらう経験が乏しかった」、だから「人に頼ったり甘えたりすること」が明君の成長に必要である。やりたくないことにはとことん付き合う。「イライラする」と言ってきたときには何かを職員室に持って行くなどの手伝いをしてもらう。「ありがとう」「助かったわ」とお礼を言う。「キレ」た時は、後ろから抱きしめるようにして腕を持つ。

俊君−父親の暴力、離婚の経過の中で母と姉の精神的不安定。「小さいときにたくさん失敗して助けてもらってできるようになるという経験をしていない」。自信は無いがプライドは高く素直に助けを求めることができない。俊君の言葉「無理!」を「手伝って!」と解釈する。机の上を片付けたり、ノ−トを少し書いてあげる。用事があるときはなるべくお願いして「ありがとう、助かった」と言う。開き直って宿題を減らす。

4.明君と俊君の変化

 明君−暴言が減って後ろから抱きしめると赤ちゃんのようにしくしくと泣くようになった。手をつないだり膝にのったりしてくるようになった。

 俊君−居残りが嫌いなのに、居残りをして勉強し、宿題をしてくるようになった。

明君も俊君も6月の体育の時間に初めてリレ−を走りきった。9月の運動会では練習で拗ねることもあったが、励ましを受け俊君はビックアップリレ−では今までに無い成長の姿をみせた。

5.瀬戸先生の実践が提起すること

 報告に聞き入る参加者の心を熱くさせる実戦である。「発達を取り戻す」という瀬戸先生のスタンスは明君と俊君との新しい出会いを可能にしている。彼らが抱えている苦悩に寄り添い、彼らの心の内面−言葉にならない苦悩を読み解き、彼らの気持ちを代わりに言葉として表現し励ますことで、彼らとの信頼を確かなものに積み重ねている。彼らの心とは裏腹の苦しみの表現を彼らの本音の言葉に置き換え共有することで、彼らに「納得」と「意欲」の感情を喚起し、自己中心性からの脱皮の芽を育むことができている。


X. 実践報告(2)

「本音で語り、信じ合える集団づくりを目指して」 石川信先生(府内中学校)

1.報告の概略

 今年度大規模校に着任された石川先生の強い思いに溢れた実践報告であった。「学級経営も担任裁量の部分が異動前の学校よりあるので、自分のやり方は周りの教師にも見られているであろうが萎縮すること無く明るいト−ンで目の前の生徒たちと語るようにした」。この石川先生の姿勢は生徒間同士のトラブルの解決にも貫かれている。K男に「無視すんなよ!」とからまれて困っているS男の母が訴えてきたときも、石川先生は介在して当事者同士話し合わせ、お互いがどのように思っているのかを理解させて解決しようとする。J男がS男に暴力を振るったときにも、その場に居合わせた生徒たちも含め6人で状況を確認しながら、批判だけに終わるのではなくそれぞれ個人の人物評価も絡めた話し合いによる解決に成功している。生徒指導部の指導にまかせるのではなく、トラブルには原因があり必ず関係生徒たちを本音で話し合わせることで解決できるという信念が垣間見られる。クラスで別のいざこざが起こったときにも「男子会議する!」と宣言すると、そこにはK男も出席しS男とJ男が司会をする。「行事を通じて、リ−ダ−大活躍!(9月)」の項は割愛させていただく。

2.石川先生の実践が提起すること

 何よりもトラブルの行為のみにとらわれないでその奥に潜む感情や気分をお互いに表現しても安心できる関係性をつくっていることである。お互いに安心感が存在しないところでは本音は出せない、従ってお互いの理解を求めることは不可能だ。「男子会議」は、お互いの存在を承認し、お互いの自己表現を保障し相互理解に結びつける磁場として機能している。同時にその話し合いは、お互いの行為を奥行きを持って見つめ直す訓練としての働きをしている。【基調報告】で折出氏が指摘する生活指導の視点を引用したが、その二つ目の内容と関連づけて石川実践を、きめ細かに分析していく必要がある。その意味でも実際の生徒たちの「声」・「思い」・「意見」がさらに読み取れる報告を要望しておきたい。


 
 「京都教育センター年報(28号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(28号)」冊子をごらんください。

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              2016年3月発行
京都教育センター