事務局  2013年度年報もくじ


第8分科会
子どもたちに「人格の完成」につながる言葉の力を!

               得丸浩一(教科教育研究会・国語部会)

 

 今年度の京都教育センター教育集会「国語部会」分科会は、「子どもたちにたしかな日本語の力を」をテーマとして開催した。
 報告された内容を、その順番に概略し、分科会報告としたい。

1.基調報告に代えて「これでいいのか国語教育 〜国語教育の現状と課題〜」 得丸浩一(西京極小)

 まず学習指導要領の「国語」と、その前提となった「中教審答申」がどのようになっているのかを改めて資料で確認した。「総則」で強調された「言語活動の充実」が学校現場にも少なくない影響を与えている。全体として「言語技術主義」と「道徳」への傾倒が特徴である。言葉による自己表現や、批判的な読みなども含む現実認識の面は極めて薄弱と言わざるを得ない。このような中で行われるある国語の研究会は、文学教材を読み合う授業、説明文教材を読み合う授業、自分の生活や思いを書いたり読み合ったりする授業は皆無で、「物語を読んで紹介する」「説明する文を書く」「作家になって工夫して書く」「エッセー集を作ろう」などが並んでいる。

 次に、ある教科書会社が作成した「デジタル教科書授業実践」のDVDを視聴した。教材は小学校五年生の「大造じいさんとガン」である。おそらくプロと思われる人物の朗読の違いを聞き、話し合う。本文が大写しになり、ラインを引いたり、書き込みができる。過去の学年で学習した教材文がすぐに出てくる……など、デジタル教科書ならではの使い方は便利なものかもしれない。しかし、本文の表現にこだわって読み進める授業にはなっていなかった。

 学習指導要領が変わり、それに合わせて全国一斉学力テスト体制が敷かれ、デジタル教科書のようなはみ出せないツールが用意される中で、文学を文学として読み、生活を綴り、論理としての言葉の力を育てることをどのように実践していくのか、課題を提起して報告は閉じられた。

2.「全国学テ小学校国語問題は真に言葉の力を診断しているか」 石澤雅雄(つづり方の会)

 急用で参加できなくなった西條昭男(つづり方の会)氏の資料も使って、2013年4月に行われた全国一斉学力テスト「国語」の問題について、石澤氏の分析が報告された。

 B問題にある「ごんぎつね」に関する発問には「ごんぎつね」の本文は一切登場せず、「すいせん文」の「比べ読み」となっている。石澤氏はこのことを取り上げて「文学教育そのものが情報処理教育の一つぐらいにしかとらえられていないからであろう」「これは、文学教育の軽視というよりも、変質というべきであろう」と指摘している。またその「すいせん文」そのものについても「いかにも『学力テスト』のために問題作成者が書いた、不自然な『すいせん文』である」と批判する。西條氏はその資料の中でA問題の選抜高校野球大会開会式での選手宣誓を問題文にしたものを取り上げ、「この『宣誓文』の調子は、戦前の『お国のために』とする国民精神総動員と重なる」と、厳しく指摘している。

 全国の学校現場では、この全国学テの点数が唯一絶対の評価基準としてまかり通っているのが実態である。授業中に過去問題をやらせ、「傾向と対策」を示した問題集をやらせることは珍しいことではない。ならば、「ごんぎつね」を「ごん」や「兵十」に寄り添って、時間をかけて読み進めるような授業が軽視されることは容易に予想がつく。そしてこれは現実になっている。

3.作文教育「困難・不安をかかえる子どもたち」審良光昭(第2向陽小)

 一年生から持ち上がった(3クラス・クラス替えあり)小学校二年生の学級の子どもたちとの実践である。様々な課題をかかえる子どもたちが、一人一人の個性を出しながら、自分の生活を綴り、自分の思いを綴っている。そしてそれを読み合うことで、少しずつ言葉・生活・集団が育っていることが感じられる実践であった。

 「きょうりゅうにかまれた」経験を書いた男の子。怒られると思ったのか、家族には内緒にしていたのだと。でも、手には確かにその時の傷跡が残っている。「周囲とずれる・登校を渋ることも」ある男の子。家のチャイムを鳴らしてもなかなか母親は出てくれない。チャイムを鳴らす度に風が吹く。四回押すと、風が四回吹く。実に豊かな時間を生きているのである。「賢いがんばりや・繊細な感覚・でも母親は心配して担任に相談に」来たといいう女の子。「でも〜でも〜でも」と逆説をつなげて、自分の思いを書いていく。こうして書きながら考え、考えながら書くことで自分を育てているのだ。

4.文学教育「子ども達と文学作品を読むことを考える〜『ちいちゃんのかげおくり』の授業から」  鶴尾和広(本梅小)

 「『文学を文学として読む』ことを大切にして『授業』を考えたいと思っています」とした上で、「『だれでも楽しくできる実践を』という提起(京都教育センタ国語部会)…を基本に、様々な方法で『文学を読む実践』を広げていくことをしなくては、なかなか現状を変えることは大変なことだと思っています」と、課題意識も明らかにしている。

 鶴尾氏が大切にしたの「子ども達が主体的に読むこと」と「読みをみんなで交流すること」である。一時間の授業は、前の場面の「場面の感想」を読み合い、本時の場面を読み合い、最後に「本時の場面の感想文」を書くというように進められる。場面の丁寧な発言記録も提示され、場面の感想とともに子どもたちの自由な読みが保障され、文学作品の世界に入っているのがよくわかった。

 「お母ちゃんたち、ここに帰ってくるの」と尋ねられた「ちいちゃん」は「深くうなず」く。ここで「本当に帰ってくるのかなと、おばさんは心配していた」「まだ、お母ちゃんとお兄ちゃんが、完全にここに帰ってくるとは決まっていなろいけど、帰ってくると信じて深くうなずいた」「お母さんとお兄ちゃんが早く帰ってきてほしいと思っている」と発言が続く。授業の中では、発達障害を持つ児童も発言し、その発言を鶴尾氏はうまく全体に返している。

 鶴尾氏の授業は教師の発問はほとんどなく、児童の発言を取り上げて、確かめる程度。この点が少し議論になったが、決して無理な読ませ方はさせたくないという鶴尾氏の意図は大切にしなければならない。鶴尾氏はこう言っている。「読まない文学教育を問題にしてきましたが、今は、ある一定の読み方に無理に引っ張る文学教育になってきているような気がします」と。

5.高校の説明文教育「原子の火ともる 菊村到」 久野里信夫(東山高)

 「説明的文章(科学論説文)や記録文、現代社会や科学の問題(原発問題)を考える授業」というのがレポートに記されたテーマである。久野里氏は、「説明的文章の授業で身につける力とは」として、「自然科学、社会科学の認識の基礎を育てる」「事実や論理を読み深め、論理的に理解する力や思考力をそだてる」「論理言語の獲得」「筆者の認識についての理解とともに、筆者の主張や論理について吟味検証する力を育てる」の4点をあげている。

 授業は伝説的なアニメ「鉄腕アトム」から始まる。1951年から始まり、1億冊の売り上げを記録している。「アトム」「ウラン」「コバルト」「プルート」は原子力用語である。そして1957年に読売新聞に掲載された「原子の火ともる」の読みに入る。

 説明文教材は「論理性」「科学性」「教育性」から吟味され、教材としての価値が計られてきた。この意味で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の今、「原子の火ともる」をあえて教材に選んだ久野里氏の実践は注目されるべきである。

 「輝かしい未来の予感にあふれている−。太陽の火なのだ」と結ばれるこの「科学的説明文」の「筆者の主張」を生徒は「反対」「賛成」の立場を表明し、感想を書いている。久野里氏は、「原子の火ともる」の他にも1975年に朝日新聞に掲載された「安全神話」そのものとも思われる「原子炉が爆発しないのはなぜか(前川力)」と、東電福島第1原発事故を扱い「『安全神話』はもろくも打ち砕かれた」と結ばれるNHKの「メルトダウン」を生徒に提示し、最後に「意見文」を書く。少なくなかった「賛成派」の意見文も大切にされている。
 主体的に読むことの大切さと、その方法を丁寧に教えることで論理的なことばの力をつける実践である。

 
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              2014年3月発行
京都教育センター