事務局 2009年度年報もくじ
プレ集会講演〈第40回研究集会〉
私の歩んできた戦後60余年の子どもの変化と教育(講演要旨)
−−戦後のレッドパージ弾圧にも抗して

  講師 関谷 健 さん(元 京都府立田辺高校)
   2010年1月23日(土)午前10〜12時
 本記録は2010年1月23日に行われた「京都教育センター第40回研究集会」で行われた関谷健先生の記念講演をセンター事務局の責任で編集したものです。見出し等は編集者がつけました。


はじめに

 関谷健です(拍手)。私はレッドパージを受けて教職を追われました。その後、10年余り組合の専従をし、最後は京教組の執行委員もしました。この中で、私の歩んできた戦後60余年と、その中での教育や子どもの変化について話をしたいと思います。特に、田辺高校で開校2年目に学校が荒れて学校の信頼が失われた時機に、それを立ち直した教育実践や、私の研究テーマでもある技術、手の労働が教育にどのような役割を果たすかについて触れられればと思います。日本では特殊な分野になっていますが、この分野は教育にとって本来は重要な分野であると思います。


戦前と戦中の思い出

 私は大正末期の1923年に生まれました。世の中は大正デモクラシーの時代で、一応平和であったといって良いでしょう。しかし雲行きも怪しくなりだした頃で、関東大震災の3ヶ月後に生まれたわけです。兵庫県で生まれましたた。

 父親は教員をしていました。転勤の関係で兄弟の3人は違った所で生まれましたが、4歳に愛媛県にうつります。文化的なところで、中江藤樹(注1)の家もありました。父親が教師をしていた関係で、家も雰囲気として文化的な感じがあり、いろいろな人が出入りしていました。

 戦争中は、父親は軍国主義バリバリでした。それで息子には海軍兵学校に行くことを望んでいました。男兄弟が3人いましたが、兄は近眼だったので兵学校を落ちて、他へいきました。また、私は音楽家になりたいと言って、オヤジからは軟弱だと言われていました。それで、弟だけが海軍に行ったのですが、彼も敗戦で帰ってきました。

 小学校の頃から戦争を見聞きしました。戦争に行く兵士も送りました。夜中に日の丸を持って送ったこともありました。また遺骨を迎えにいったりもしました。中国の関係で、日本の虐殺などについても中国へ行った人から聞いて、少しは知っていました。

 敗戦の日本はショックだったと思います。そのとき、戦争末期の政府や軍部がどういう状態であったのか。敗戦の年の4月のはじめのことですが、それから4ヶ月後には敗戦が決定的になったわけですが、当時、宇和島で親が中学校の校長でしたが、そこで空襲も受けました。

 どしゃぶりの中の空襲で、ほとんどが焼けました。そのとき父親は天皇の写真を守るということで、奉安殿に飛んでいきました。私たちは防空壕へ逃げました。母親と私が防空壕で待避していて、空襲が終わって外にでると家が焼けていました。とにかく町は全焼していたのです。私はその時、アメリカがこれほどにまでできる、その技術はどこにあるのかと、不思議に思っていました。レーダーでそこまでわかるのかと思いました。

 敗戦の年の4月に豊後水道から艦隊が出ていくのを見ました。当時、私は学校を休んでいましたが、豊後水道はるかかなたに航空母艦、駆逐艦がでていくのも見ました。あとからわかったのですが、戦艦大和でした。そのときの艦隊は南シナ海でほとんど全滅しました。そのころ私の兄は技術将校で呉にいました。たずねにいったときに、「一年たつかたたないかで負けるからそのつもりをしておけ」と言っていました。私は当時旧制松山高校の学生で会いに行ったのですが、そういう日本の状況でした。


戦後まもなくの頃−−大学時代

 敗戦後すぐのことですが、父親の郷里にいましたので、近くの松山空港へ見に行ったことがあります。父親の郷里の家から松山の町までは、電車で15分ぐらいでした。歩いて松山に行って、兄の実家に見舞いに行ったとき、旧制高校の校舎も全焼していました。

 それで松山空港にでかけた時、たしか敗戦の8月15日の一週間後ぐらいの時でしたが、空港には、ほとんど逃げて帰ったのか人影がありませんでした。貯蓄されてたいろいろな生活のための食料その他をみなトラックで持って、逃げて帰っています。司令官も逃げて帰っていました。当時の司令官は、戦後に参議院議員になった人でもあり、自衛隊の空軍の司令官になった人物でもありました。当時は海軍基地の指令をしていました。空港には飛行機も残っていましたが、ほったらかしにされていました。僅かに残っていた人がいて、その時はガソリンで洗濯をしていました。聞くと、練習機で家に帰るといいます。降りられるのかと聞きますと、砂浜に降りるといいます。また兵器類は散らかしたままでした。その時は「こんな軍隊の解散の仕方があるのか」と残念でした。私は、松山空襲、宇和島空襲など、いろいろな経験を経てこの道に進んできたと思います。

 レッドパージに遭ったのは大学卒業後、半年たってからのことでした。私は、旧制高校に行っていたのは2年半で、9月に京大の物理学科を受験しました。当時は高校を出ていればどこかの大学に入れた時代です。入試の競争率も1・2倍ぐらいだったと思います。京都にきた理由は、母が「お前は、寒いところでは体を壊す」と言われたので、比較的温かいと考えられた京都へきたわけです。戦後、復学してから京都へでてきたのは、戦後2年たってのことでした。

 当時「2・1スト」というのがありました。まだ宇和島にいた時でしたが、見てきました。「2・1スト」というのは、1947(昭和22)年2月1日の実施を計画されたゼネラル・ストライキに対して、決行直前に連合国軍最高司令官マッカーサーの指令によって中止となり、戦後日本の労働運動の方向を大きく左右した事件でした。国鉄の伊井弥四郎共闘委員長の話(注2)の中で、なぜ止めなければならなかったのかを知りました。そして私はその年のメーデーに初めて参加したのです。それから1年半、実質は2年半ですが、京大の理学部の物理の学生でした。まじめでも遊び回る学生でもなく、教室民主化運動と学生運動をやっていました。

 当時、京大には湯川秀樹さんも教員でいました。湯川さんの講義は、だまってあらわれてきて、黒板にいろいろ書いて、積分方程式を3つも4つも並べていました。2〜3回はがまんしてそれを写していましたが、後に、湯川さんの本が出て、その内容が講義と同じだったので、それを見て、それきり出席をしなくなりました。ただ友だちは出席していました。先生と交渉して「試験をやめてレポートにしてくれ」といって、そうなりました。私はレポートを友だちから見せてもらって、それに付け加えて書き、レポートを提出しました。

 当時、京大にはの同学会というのがありまして、これは自分が出ていってやるというような組織で、佐藤昭夫などもいました。佐藤昭夫とは、レッドパージを受けた時、翌年、佐藤さんがやってきて、「あんたの後に赴任することになった」と言っていましたので、私がパージされたあとを、佐藤昭夫が行くことになったことを知りました。


レッドパージの嵐

 大学を卒業して、就職試験はは3つ受けました。たまたま3つとも合格しました。合格通知が最初にきたのは京都府委員会木津高校で、次に京都市日吉ヶ丘高校、最後に総理府でした。それで、左京区に住んでいましたので、一番近い所がところというので、日吉ヶ丘に行くことにしました。そこでレッドパージに遭ったわけです。

 一昨年、「レッドパージへの保障」の運動続いていて、日弁連が勧告をだしたというのを知りました。そして昨年1月から5月にかけて、この京都でも署名運動に取り組みました。多くの方から署名をいただき、5月には国会請願もしました。運動を担っている者は、みな年がいっています。

 偶然というものは人生にあるもので、レッドパージについてもそれが言えます。基準に照らして、皆を正確に「追放」しているかというと、そうでもないのです。

 私は、突然、授業中に校長に呼び出されました。そしてレッドパージです。職場を去る時には、生徒に挨拶もさせてくれませんでした。これは、校長が役所の指示どうりにやったものでした。レッドパージに遭ったのは、現場出身では私一人でした。中にはレッドパージを免れた人もいたのです。実にいいかげんな基準でした。昨年から実態を調べているのですが、京都市役所などでもたくさんやられていたようです。人員整理、合理化と兼ねてやられた所が多くあります。全国的には、1万何千人がやられています。

 レッドパージの遭った、その年には7月頃から、共産党がやったと言われた奇怪な事件が続いていました。国鉄総裁の変死事件、三鷹事件、松川事件などが続き、「国鉄労働者がやった」「共産党がやった」と言われました。しかし、事実は未だ究明されていない事件でもあるのです。

 そうした状況の中でのレッドパージでしたから、私が首になっても、反対運動がなかなか保護者に理解されません、なかなか協力してもらえませんでした。私は、最後に民商などを自分ひとりで回って訴えました。当時は、つくられた反共のなかで運動が難しい状態でした。


レッドパージとの闘い

 京都の教員関係のレッドパージは、最終的に9名が懲戒免職になりましたが、1人は事情があり、実際は8名でした。その1人は学校は大将軍で、休職となり、一年後に退職となりました。他は組合専従でしたが、現場で私だけが2年間失業したということになります。神野七五三男という組合書記長もパージされ、この人は後の市会議員になった人です。弁は立つし、戦略家でもありましたが、市会議員にでるときには「なぜ俺が出なければならないのか」とぼやいていました。もう一人、左京から立候補させるというので、神野七五三男がでることになったわけです。選挙の結果は安井真造が1位、で神野七五三男が2位になりました。

 レッドパージ2年後に当局と和解しています。懲戒免職だったら退職金もでないし、年金もでません。私は和解に反対していましたが、「一人でも反対していたら和解はできない」というので、仕方なくハンコを押しました。

 依願退職という形になりました。京大の頃、講義の前などで演説をしたいので知られていたのでしょうか、京大の物理の教授など数名が、「なんとかならんか」ということで、生活できるほどの賃金ではありませんでしたが、世話をしてくれて、学生の指導に通ったことがありました。あと一年は「生活養護会」の書記をしていて、左京の税務署にケンカにいったこともありました。これも一年だけです。2年後に組合書記に入りました。その間に、蜷川さんの選挙、市長選挙などが続いていました。

 この時期、私が書記をしていた府立高教組は、2〜3回ハンストをやっています。学校が終わって、6時頃から夕食をして、議論し、夜の10時頃から「これからハンストだ」と言って、ふとんを用意して、府庁の囲いの西側に教育委員会があったのですが、そこの1階にふとんを敷いてやりました。私は、夜の10時ころから、その用意をしました。当時はみんな元気ですから、「ハンスト」と言っても、どうしてもウロウロして、みんな寝ていません。「ハンスト」だからと、昼間も横になってもらってやりました。

 当時の府立高教組はそういった闘争をしていました。ふとん持ち込んだのは2回はあったと思います。そうやって一応団体交渉をしました。決着がつくまでに2〜3日はかかっていました。

 書記である私の給料については、10年間ほど、私がそれぞれの組合を回ってもらってくるという形でした。その後、何年かしてから佐藤昭夫さんも入ってきました。

 本来は市立高教組になりますが、市立高教組は難しいところがあって、はじめは入れてもらえませんでした。本来、市関係の給料でしたが市労連の関係で、当時は「レッドパージには二次がある」と言われ、市立高教組から「ちょっと遠慮してくれ」と言われ、結局、府立高教組に籍を置いていたわけです。

 組合には、若い人たちも多く、青年の横のつながりがありました。当時は高校生討論集会が発展していった時期でしたが、これも、はじめは半分遊びで、討論集会のあとフォークダンスをして楽しんでいました。初めは青年部がなかったので、青年教師懇談会をやりました。私は組合でおもしろがってやっていたのは映画鑑賞会でした。「エデンの東」という映画がありましたが、そうした鑑賞会をやり、また写真展もやりました。「エデンの東」は、高島屋の裏に映画館があって、組合の鑑賞会ということで、私が事務局長をして、4〜500人の席をいっぱいにして見てもらいました。上映の前には、推薦委員会というのがあって、上映映画を決める際、みんなでお茶を飲みながら推薦を決めていました。

 組合書記は、普段はしんどい仕事でした。反米的な文書を配布すれば、「沖縄で軍事裁判を受けて強制労働何年」とか言われていて、「へたなことをして捕まってはいかん」ということで、注意しながら活動をしました。例えば、熊野神社の塀にスローガンを書いて貼るというのをやったこともあります。これは、夜中に這いずり回ってやりました。選挙当日朝になったら、蜷川のポスターしかなかったというわけです。また、「捕まっていたら軍事裁判」でしたが、簡易裁判所の中で反米のビラを撒いてまわったりしました。二人で行ってビラを撒いて、窓から走って逃げました。たいへん危険なことですが、「アピールをしなければいけない」ということでやりました。アメリカの占領時代には、反米的なことは言えなかった中で運動をしていた、そんな時期もありました。


職場への復帰

 そういう組合運動のあとで、やっと職場に帰ることができました。

 田辺高校に行ったとき、学校の先生方は「京都の高校らしからぬ高校」をつくろうとしていました。組合をつくることに苦労しましたが、なんとか2年目に組合をつくることができました。その時にいっしょだった人は病気で倒れています。田辺高校時代の実践は、地域と共に、荒れた学校をどうやって建て直すかということでした。大平勲さんが近くの中学校にいて、組合役員をしていて、「荒れた学校をどうやって建て直すのか」ということで話を聞いたり、学校の建て直しに綴喜教組などに助けてもらったこともあります。そうした苦労がありましたが、しばらくして田辺高校が男女共学になって女子が入るようになってから、学校がいっぺんに静かになりました。私は新しい教科をつくって、選択科目でやらせてもらいました。学校をつくっていこうということで、みんなと取り組んでいましたが、いつしか田辺高校には退職まで世話になりました。

 高校生も荒れるというのはよくありましたが、その中で協力してくれる先生も何人もいました。先生方にとっても課題が多く難しい学校だったと思いますが、異動に当たっては、率先して赴任して来てくれた先生も多かったのです。




会場からの関連発言(要旨)

Aさん

 今、関谷先生からなつかしい話を聞かせてもらって、大変うれしいです。私は田辺高校で、関谷先生といっしょでした。、もう、40年前の話になりますが、府立田辺高校は総合制、地域制はありましたが、男女共学ではなく、最初は3原則を逸脱して工業科だけでした。電子科、電気科、機械科、自動車科の4つが置かれ、中堅技術者の養成が目的とされた学校でした。

 当初はエリート校的でしたが、M高専ができてから生徒がそこに取られて、それから荒れてきて、紛争が起こりました。今から思えば生徒は正当な要求を出していました。それまで学校は徒弟制度のような教育でした。生徒は放送室を占拠して、体育館で校長と交渉をしました。そして、その過程の中で事故ですが、校長が怪我をするということも起こりました。

 組合の分会は私が分会長でした。関谷先生が書記長で、学年主任でもあり、学校改革を進められました。紛争が起こったのは6月でしたので、「6月危機」ということで、学校は組合管理のようになりました。

 夏に何泊かで奈良の「正暦寺」で組合合宿をしています。そこで、学校をどうやって建て直していくのかを徹底して議論して、その論議をもとに職員会議で「三原則の回復」を提案しました。また地元への説明にも行きました。

 O書記長や綴喜教組などの支援を得て、74年に地域制・総合制・男女共学制に変わり、現在に至っています。


Nさん

 私は29歳で京都に移ってきて、はじめて就職したのが田辺高校でした。そして組合にさそってもらったのが関谷先生でした。関谷先生には、教育の原点を教えてもらいました。振り返ると、京都の教育運動の中で育ててもらったと思います。職場では仲間とよくおしゃべりをしました。学校の様子を話し合い、ニュースを交換しました。そして、おしゃべりをして情報交換をする中で、力強い運動がはじまったと思います。私が京都に来て、納得できる教育実践ができた元に関谷先生がありました。関谷先生は、おだやかな先生で、「闘士だった」と聞いても信じられませんでした。ビラ貼りにはエピソードがあって、3人でビラ貼りにいって一人捕まったけれども、関谷先生は、その場所ににいたけれども、おっとりしていたので、警官がまさかそうだろうとは思わず、捕まらなかったというのがあります。関谷先生には、職場でいろいろ教えてもらいましたが、今日の講演でもいっぱい教えてもらいました。

 今、職場で若い人と過ごしていると、2010年が安保の改訂の年であっても、問題にすらされません。安保が当たり前のように続けられるという、今の国民の思想があります。また、日本には占領されていた屈辱の時期があるということが忘れられています。占領されていたこと自体も知らない人があります。レッドパージがいかに許せない人権弾圧があったかということを、関谷先生はとつとつと話されたが、現在でも大事なことであると思います。日本は占領されていた時期があったということ、それを改めて自覚させていただいた日になりました。

Uさん(元田辺高校長)

 私は、1975年に田辺高校に赴任しました。その時、ひさしぶりに関谷先生に出会い、頼もしい先生に出会ったと思いました。田辺高校をいかにして総合制をするかということで、私の前の校長であったY先生が、よい先生を集めてこられていて、頼もしく感じました。田辺高校は工業高校でしたから「手の労働」が大事でした。そうした点で関谷先生の実践には大きなものがありました。田辺高校は、当時はまだ地域からはあまりよく思われていませんでした。ひとつのエピソードですが、生徒が荒れていたとき、私は校長室の鍵を閉めていたことがあります。そんなある時、校長室の鍵がかかっているので、横の入口から入ったときに、関谷先生が黙ってその鍵をあけていきました。たとえ荒れていたとしても、生徒を拒むなという意味でしょう。それから私は校長室の鍵を開けるようになりました。


(注1)中江藤樹(なかえ とうじゅ)1608〜1648年。近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者であり、近江聖人と称えられた。

(注2) GHQから2・1ゼネスト中止を命令された伊井弥四郎は、NHKのラジオのマイクに向かって「声がかれていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。・・・・(中略)・・・・ 一歩後退、二歩前進!」と、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙しながら発表し、「日本の労働者および農民万歳!、我々は団結せねばならない!」と締めくくった。

 「京都教育センター年報(22号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(22号)」冊子をごらんください。
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