事務局 2009年度年報もくじ

第8分科会

「今、子どもたちの力をのばす国語教育の創造を」
〜国語教育をめぐる状況をたしかにとらえ、私たちの実践を豊かなものに〜

             浅尾 紘也(教科教育研究会・国語部会)



課題提起

「大阪の『学力テスト』をめぐる状況、実態と抗するとりくみ」 三野和生(大阪・加納小)    

豊かな文学教育の創造をめざして、実践に学び、論議を深めよう

実践提起 

@ 文学教材「夕づる」の実践と文学教育 得丸浩一(京都市・梅津北小)      

A 文学の授業と文学教育       吉田淑子(福知山・昭和小)

【教科教育研究会・国語部会】

【運営担当】

  西条昭男・浅尾紘也・得丸浩一・九野里信夫・吉澤はつ江


「今、子どもたちの力をのばす国語教育の創造を」
  国語教育分科会で、何が提起され、何が論議となったか


 上記のテーマのもと、国語教育分科会での報告と討議が進められた。

午前の提起と討議

国語教育をめぐる状況をたしかにとらえ、私たちの実践を豊かなものに

 午前には、大阪の「全国一斉学力テスト」をめぐる厳しい状況がもっとも鮮明に顕現化している大阪から講師を招き、その状況の詳細とそれに抗するとりくみと展望について話を聞き、討議を深めた。


課題提起/大阪の「学力テスト」をめぐる状況、実態と抗するとり くみ
           提起/三野和生氏(大阪)

 三野氏の提起は、大阪の「学力テスト」をめぐる状況、それが意味するものを具体的に示すものであった。

 その状況は、「テストの問題内容が問題とはならず、どれだけやらせるかが問題」とされていることを基盤として、その「結果」もさまざまに使われていることが最も大きな問題であることを指摘された。さらに、「大阪の学テ対策」は、@「[小坂の教育力]向上にむけた緊急対策」として、塾との提携やゲーム機などの活用まで含んだものによって、国語教育としての内容がスポイルされたものになっていっていること、A「学習指導ツール開発・実践事業」によって、研究体制・内容が、「モデル事業」や「単元別テスト」「ワークブック」「模擬テスト(府学力テスト)」によって規定され、偏って進められていること、さらにB「市町村支援プロジェクト事業」なるもので、IC活用として、デジタルテレビや電子黒板などの導入が進められていること等、それが教育内容・体制・方法の大きな枠組みの中で進められていることを提起された。

 これは、私たちが問題意識としてもっている「改訂学習指導要領・国語科」で示された言語処理能力を訓練でつけていくという国語教育を変質・崩壊させる構想が、「学力テスト」によって具体的に提示され、それがさらに国語科指導を規定していくということを端的に示すものであると考えざるを得ないものであった。それは、インターネットによって、この「学力テスト」の類似問題がどこの学校でも引き出せ、指導が出来るように、教育産業と契約して膨大な量を作成させ、それをプリントして授業に使うということを進める状況があるという事例からもそれが大きく広がっていることが解る。

 さらに、各学校に「研究推進リーダー」をおき、具体的に進めていく体制を強化し、それを「教員評価制度」と連動させ、教師をS・A・B・C・Dとして「評価」し、低評価(C・D)から高評価(S・A)へと賃金も差別化し、年間三十数万の差が出るという状況を作り出すことによって、それらをとりくまざるを得ないことにさせていることなど、それは意識的なものであることも指摘された。

 この「全国学力テスト」から「大阪府学力テスト」へと進められているとりくみは、総括的に、次のような重大な問題点をもつことを指摘された。それは、@教材選定権の侵害、Aテストのための指導による教育内容の歪み、B教育計画への圧迫、C数字(結果)だけがものをいう世界になることの四点であった。

 討議の中では、具体的な問題がさらに討議され、これらの大阪で端的に出てきているものは、大阪だけのものではなく、それは京都でも進められ、全国的に進められているものであることが指摘された。


午後の提起と討議

豊かな文学教育の創造をめざして、実践に学び、討議を深めよう

 午後には、午前の討議を受けて、具体的に「文学教育」について、どのような実践をめざしていくことが大切なのかを論議した。

 まず、ふたつの提起・実践報告を受けた。


実践報告/文学教材「夕づる」の実践と文学教育
   提起/得丸浩一(京都市)


 三年生の子どもたちとともに、「夕づる」の授業にとりくみ、その中で子どもたちがどのように作品を読んだかが報告された。

 この木下順二の「夕づる」は、戯曲として書かれたものが子ども達向けに「民話」形式で書かれたこと、そこでは人物形象の描き方に具体体のないところがあること、作品として高学年での実践と低・中学年での実践に読みの深さに違いが出てこないかなどの作品論も出た。

 現在、しばりのきびしい京都市の学校では、文学の授業はほとんどない状況の中で、作品を子どもたちとともに読みながら考えていった実践であった。

 得丸氏の問題意識としては、「モチモチの木」で、最後の場面にじさまが作品のテーマとなるものを語ってしまうことがある中で、斎藤隆介の作品の弱さとなっていること、「おおきなかぶ」でみんなでかぶをぬこうとすることが不自然でつまらないものであり、嫌いであることなどを例としてあげながら、現実の子どもたちが何を考えながら読むのかをたしかめたいということも提起された。


実践報告/文学の授業と文学教育
           提起/吉田淑子(福天)


 つづいて、吉田さんから、「ことば・文に着目して国語力をつける」と題して、「ちいちゃんのかげおくり」を三年生の子どもたちと実践した報告を中心に、文学教育について考えておられることを提起してもらった。

 提起は、文学教育の魅力、文学教育のめざすもの、文学教育で大事にしていること等を柱として、実践報告をされ、文学の授業の方法にも言及してのものであった。

 授業実践の報告は、20時間以上をかけた緻密に読むことを進めたものであり、文学教育についての理論的提起は、それらの実践に裏打ちされた説得力のあるものであった。


文学教育についての論議

 討議は、ふたつの提起をまとめて進められた。

 文学教育についての論議はさまざまにあり、提起自体がさまざまな問題意識や立場からされることもあって、すべてがかみ合い、深め合うものではなかったが、論議自体は作品論・教材論・作家論・実践論など、多岐にわたるものであった。

 そのすべては書けないが、いくつかを取り上げたい。

 まず、文学教育とはどのような教育活動であるのかについては、まだまだ「ことば・表現を形象として読むことをとおして、ことばによって『世界』を創造し、現実をこえていく」ことと、「子どもたちが背負わされている『現実』を深く見る目を作る」こととの関わりと文学教育独自のしごとが論議しきれず、噛み合わないことが感じられた。

 さらに、「形象を読む」ことと、「現実に立ち返る」ことが混同され、ともすれば読みが現実に規定されて、知らず知らずに道徳的読みになっていく危険性をどう考えるかが、「夕づる」での「自分の生活を振り返る」という視点をもたせての「終わりの感想」は、道徳教育に使われる手法と酷似していることの指摘などとしてあった。

 また、「作品の弱さ」がことさら強調されて、文学を読むおもしろさを半減させたり、もともと「虚構」という独自の手法をとる文学の本質を狭めたりすること、さらには文学作品が戦前・戦中のように軍国主義に利用されたり、思想統制に使われたりすることを「作品の責任」にすることなどについてどう考えればいいのかなど、課題も多く残った。

 さまざまに論議することをめざした分科会であるので、もともと結論を出すことを意図するものではなかったが、文学教育についての論議しなければならないことは多く出され、意義があった分科会討論であったと考える。

 さらに、これらの論議をできるだけ共通認識・共通理解して、たしかで豊かな文学教育実践が進められていくためには、これまで私たちが積み上げてきた実践・理論をもう一度たしかめ、それを基盤として、さらに論議をすすめていく姿勢をもつことが大切なのではないだろうか。


 この国語分科会には、広島・大阪をはじめ、遠くからの参加者もあった。この広がりを大切にしながらさらに活動をすすめていきたい。

 「京都教育センター年報(22号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(22号)」冊子をごらんください。
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              2010年3月
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