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野中一也さんプロフィール
 京都教育センター代表。教育学者。大阪電気通信大学名誉教授。元大阪私大教連委員長。
著書「教育実践への招待−若い教師たちのために−」(法律文化社)など多数。
宇治市在住。
第1部 問題提起

京都における教育運動から学ぶ (講演要旨)

−−京都教育センター45周年記念集会 京都教育センター代表 野中一也先生
 記念講演より −−

                                2005年12月18日(日)
 ここに掲載した記録は、2005年12月18日に開催された「京都教育センター45周年記念集会」の中で行われた野中一也先生の講演を、当日の記録にもとづいて京都教育センター事務局の責任でその要旨を編集したものです。文責は、京都教育センター事務局にあります。


司会からの挨拶:

 今日は朝からこの冬一番の大寒波で大変な中ご参加いただきまして、ありがとうございます。例年ですとこの時期は教育センターの冬季の研究集会があるのですが、今年は趣向を変えまして、ご案内のようになっています。今年がセンター45周年に当たっているということで、今、社会情勢としては憲法や教育基本法をめぐって重大な局面にかかりつつある所なのですが、そういう時期に、次の50年という大きな節目を見通しながら、この時期、教育センターのこれまでの歩み、あるいは京都における教育運動の大きな蓄積から学ぶ機会にしようと言うことで、今日の会議の準備をすすめてまいりました。

 この間、センターの方では一昨年の春から前代表の小林先生がお亡くなりになって、昨年は小林先生を偲ぶ会を兼ねて学習会を持させていただきましたけれども、それに先立ちまして昨年の一月に、今日このあとご挨拶をいただく野中先生に代表という形で就任いただきました。

 本来であれば、教育センターの集まりでありますので、冒頭に野中代表の挨拶と言うことでしかるべきなのですが、今日は野中先生、代表自らがご講演いただくということで、挨拶もして講演もするというのはいかがなものかということで、私(築山)が司会を兼ねてのご挨拶と言うことにさせていただきました。

 そういうことで、野中先生が代表として、もうじき一年になるわけですが、それに少し先立ちまして一昨年の三月には事務局長のほうも淵田先生の方にバトンタッチをして、淵田先生は「わしはワンポイント・リリーフや」といつもおっしゃいながら、約2年半、神谷先生の後を受けて精力的に取り組んでこられて、教育センターが今の時代にふさわしい形で発展していけるようにと言うことでご尽力いただきました。

 そして、この事務局長の方もこの11月から、長年、京教組の方でご活躍いただきました大平勲先生にさらにバトンをわたすということで、すでにスタートしています。

 そんなことで、センターの方も新しい体制に代表、事務局長も引き継ぎや交代をしながら活動を続けてきております。なかなかこういう節目に、今までの経験に学びながら出発をするという機会が持てるということは、今日のこの場をそういう機会にしたいということで、行いました。

 これから野中先生にお話ししていただくのですが、教育センターの創立は、45年前と言うことで1960年ですが、それから、それほど時間がたたない1966年から教育センターに中心的に関わってこられていますので、そういう意味では、教育センターの誕生から今日に至るまで関わってこられていて、その中で京都の教育運動に関わる多様な経験もされて、またご自分でも深めておられますので、今日はそのあたりを、ご自身のさまざまな経験を織り交ぜながら、タイトルのように「京都の教育運動から学ぶ」という学習の機会にしたいと思いますので、よろしく最後までご協力をお願いしたいと思います。




講演 京都における教育運動から学ぶ


                    京都教育センター代表 野中一也


 どうも今日は、野中です。

 代表を引き受けまして一年ちょっと終(す)んだのですけれども、大きな任務を背負わされています。

 今日、みなさんにお話しすることが適切かどうかはわかりませんですが、簡単なレジメを書かせていただきましたので、それに即しながらお話をさせていただいて、これからの京都の運動をさらに、どのように発展させていったら良いのか、みんなで考えていただいたらありがたいと思っています。

地球滅亡(「地球温暖化」など)の危機(略)

私的な関わり(略)

京都教育センターの意義

 1950年代の教育の反動化に抗しまして、実践と理論・研究の統一が必要だということで、日教組の全国教研が生まれてまいります。1958年に日教組の組合員が月1円だったでしょうか、拠出して国民教育研究所を設立して、当時の所長さんが上原専禄さん、そして宗像誠也、宮原誠一さんらが参加をしていきます。全国に教育研究所ができてまいります。京都教育センターは1960年に発足をいたします。山本正行さんらが中心になって、学者を説得をしていって、設立しました。

 そのいきさつをお伺いしますと、「研究所にすると、学者は研究所に閉じこもってしまう。もっと運動と関わっていかなければならない。そのためには研究と教育とを結合したセンターとして、新しい学者が座らなければいかん。」と言うことで、全国的には研究所という名前だったんですけれども「センター」という名前にしたのは京都だけなんです。後に、大阪などもセンターという名前をつけていきます。これは細野先生の「先見の目」があったというべきでしょう。そんな中でセンターと関わらせていただきました。

京都教育センター活動から学んだもの

 センターと関わって、いろんなことを勉強させていただきました。大きくいうと、@「生き方を考えさせられる」という問題、A京都を中心とした「地域とはどういうふうに考えていったらいいんだろう」と、B細野先生は非常に「原則」ということを大事にしたんです。改めてその原則の大事さということ、C「教育論」の大事さを学びました。そんな4点を、感想めいた話になるかも知れませんが話したいと思います。

@「生き方」を考える

 まず「生き方を考える」から始めます。私の親父の問題、それから私の病気の問題、そういうものを通しまして、私の内面の中に、いつも非合理的なものを持ちながら、しかし、「揺れない自分」というものをどう作っていくのかという、そういう問題にぶつかっていました。非常に考えさせられたのは高坂(正顕)先生との出会いの中です。「人間とは何か」と問うと、高坂先生は、「人間は謎、謎的存在である。」と言われます。ドイツ観念論の中にこういう捉え方があります。それから「魔的な存在だ」とも言われます。「そういう部分もあるけれども、本質はそうじゃないでしょう」と言うと、「君の言う『理性的存在』という部分もあるでしょう。だから『人間はどのようにでも定義される存在』というように位置づけたらいいだろう」と言われます。これは、定義しないことといっしょですね。私は「これで良いのだろうか」と考え、マルクスをきちんと勉強しなければいけないと思いました。当時ソビエトの哲学や経済学教科書など、さまざまな本が出て、それで学生の中で読書会があちこちで学部の壁を越えながらやりました。

 「人間とは何か」を追う中で、最初に躓いたのは、マルクスの「ドイツイデオロギー」の中の最初の方に出てくるところなんです。「人間とは何なのか」というと、「第一の歴史的行為である」という。それは何かというと衣食住を生産をしていく、そういう生産労働の行為、これが第一の歴史的行為だと言うんです。そして、もうしばらくすると、また「第一の歴史的行為」が出てくるんです。高坂正顕氏は、常に3つのタイプに分けるんです。「この問題は3つに分けられるだろう」と3つに分けるんです。ぼくの頭の中でも3つに分けると、落ち着きがいいのです。3つに分ける癖みたいなのがついているのですが、・・・。

 「第一の歴史的行為」と言ったんだったら「第二の歴史的行為」となるはずなんですが、ところがそうはならないんです。「第一の歴史的行為」とまた「第一」が出てくるんです。それは第一の歴史的行為、つまり衣食住の生産をしていく行為が充足をして、さらにもっといい生産活動に発展していく、欲望なんです。欲望の再生産。そしてよりよいものを作っていくというふうになる、これまた「第一」というふうにつかっているんです。そこで改めて、物事は、1、2、3という捉え方ではなくて、総体としてものを捉えていくのが大事じゃないだろうか、そして、次に出てくるのは、確か、翻訳は松村一人さんのドイツ・イデオロギーだったと思いますけれども、ここに「第一の関係」というのが出てくるんです。そういう人間の二つの歴史的行為として捉えて、そこの最初から「関係」として入ってくる。それは何故かというと、「人間は集団的存在である」。はじめから人間というのは、お父さん、お母さん、そういう中で子どもが生まれてくる。「関係」は最初からあるんだという、第一の歴史的行為ね、そしてその中から「自然的分業」が出てくる。その自然的分業が、歴史的発展の中で階級的分業になる、そこで生産関係と生産力との矛盾が出てくる。これこそ「揺れない」思想形成の大事な原点になるのではないかなと考えていました。

 京都の実践から学んだのは、みなさんご存じでしょうけれども、川上小学校の「労働教育」という取り組みです。後からまた地域のところで触れたいとは思っているのですが、私が教育センターの事務局長をやっている時に、『民主教育』(民衆社)という本を編纂致しました。その中に書いています。川上小学校の「労働教育」というのは、きわめてわかりやすいんですね。「校庭内の木登りを奨励する」・・・木登りすることが労働教育だと言っているんですね。2つ目、「小刀を使用させる」・・・労働、手ですね。小刀でものを作っていこうとする、3年生以上です。3つ目、「男子は半ズボン、女子はショートパンツ、またはスカート」、薄着を奨励するということですね。また「体育の時間は、なるべく裸足にさせる」。また、「学校園・学級園を拡張し、学級単位、グループ単位の労働日を設定する」。「地域文化の継承、発展を図る」。こんな点を重点課題として、川上小学校が取り組んでいたんですね。私も何回か川上小学校の渋谷忠夫先生をおたずねして学びました。

 もう一つ勉強になったのは与謝の海養護学校の設立運動です。青木嗣夫先生が中心になって、障害児のお父さん、お母さんたちといっしょに学校づくりをされました。このとき青木さんは、先生方と「読書会」をされていたんです。自然弁証法をやっていたんですね。私も2〜3回呼ばれて「猿から人間への労働の果たす役割」を中心的に勉強しました。障害児の子どもに労働教育をというのは、どう考えているのかと、最初は、そんな思いで行ったんです。私は改めて頭を打ちました。障害児の発達というのは、決して特殊なものではない。原則はきっちりふまえて、ゆっくりと発達する。先生方が、自然弁証法を学んで、一行一行読みながら、「労働とはどういうものなんだろうか」「発達・進化とはどういうことなんだろうか」と追求され、それを与謝の海の子どもたちに合わせながら考えていくという姿に、本当に胸を打たれました。

 青木先生は、どういう先生なのかと思って、青木先生の後をくっついて、いろいろ先生から学びました。京都教育センターとのかかわりでは、私が教育学ではじめてなんです。それまでは、政治学とか物理学とか、教育学以外の方々でした。そんな中で、「君、奥丹を担当せよ」ということで、「北に行け」と。「あそこから学ぶことがいっぱいあるぞ」というわけです。それで行きました。それから機会あることに丹後にでかけて、そして与謝の海に寄って、そして「人間とは何なのか」ということを、まだまだわかってないのですが、勉強してきました。

 私の結論としては、大きな流れとしては、人間の非合理主義的側面を、労働によって理性的存在に発展をさせていくという、こんなプロセスじゃないかなと、大まかなところでおさえています。

 それから二つ目に生き方で考えさせられたのは、研究者のあり方の問題なんです。だいたい大学院を出て、ペーパーをいっぱい書いて、それで象牙の中に閉じこもっていて、余り学外に出ないと言うのが当時の姿だったと思うのです。そんな中で細野先生は、どちらかと言うと外の活動でも大きな役割を果たされたように思うのですが、「センターという名前を付けて、そして新しい研究者が、センターから出て行くのが大事なんだよ。」と、言われておりました。私は大学の方に就職致しましたけれども、後輩の大麻南君は、ソビエト教育学をやり、コロロフという人の研究をやった人です。ちょっと体をこわしてから早く亡くなってしまいましたけれども、新しい研究者の典型を作ってくれるのではないかと、私なんかは思っておりました。

 安永先生から、最初に、私が「丹後に講演に行きなさい」と言われたんです。何の話をしたのかは忘れましたけれども、いろんな話をして、それで話が終わって、いろんな質問があったんです。それで、私が未熟ですし、まだ勉強不足でして、「東ドイツの総合技術教育ではこういう方法をとってやっています」と言ったんです。そしたらある先生から「ここは東ドイツではない。京都の奥丹後である。奥丹後の我々に適切なアドバイスをしてほしい」と、そんなことを言われて、大ショックでした。渋谷先生が「奥丹後というのは、きつい所でしょう。」と言って、城ノ崎に行って酒飲んでなぐさめていただいたことも思い出します。

 ここで改めて、京都の地について、教育理論をどう展開するのか、その先生、非常にきつい言い方をされましたけれども、ぼくにとっては非常な刺激になった。それから横文字は一切使わないようにして、地域の人の言葉で語れるような、そういう学者にならないといかんやないかと、酒を飲みながら自分に言いきかせました。

 3番目に生き方で考えさせられたのは、(レジメに)「主体的とは」と書いたんですけれど、生きていく際に、どこにでも地域というのはあります。その「地域」、あるいは「バック」と言っていいかも知れませんけれども、そこからエネルギーを吸収していきます。そんな時、全国教研で宮本憲一さんが、記念講演されたんです。こういうことを言われました。「足元を掘れ、そこに泉が湧く!」と、すばらしい言葉で、ぼくも地域に根付いて新しい泉を引っ張り出していくような、そんな生き方をしなけりゃいけない、というように思いました。

A「地域」とは

 次に「地域とは」という問題について述べてみたいと思います。

 地域というのは「暮らしの場」だと思います。1958年に国民教育研究所の上原氏は「地域・日本・世界を串刺しに」というようなことを言っています。今、地域の問題を考えていきたいなと思っています。

 京都の学校の歴史を考えてみましょう。明治2年だったでしょうか、第27番小学校が京都にできます。そして学制が発布するまでに四十何校、小学校が京都にできます。学校は区や町の文化センターとして位置づけていく。非常に大事な自分たちの資産の、非常に大事な部分を学校として自分たちで作り上げていったといいます。同和校なども作られていきます。今、地域の教育力が衰えているという中で、もう一度地域を、暮らしに役立つ地域に再生していくという視点で未来を考えていきたいと思っています。

 二つ目に、京都の革新的伝統ということで書かせていただきました。田辺朔郎が好きで、彼の書物を一生懸命に読みました。疏水を作った男です。手をいろいろ怪我して、指をなくしたり、部下を何人か亡くしています。その中で、「暮らしに役立つ技術は何なのか」ということを彼は真剣に考えたわけです。改めて、京都の革新的な技術というのはイデオロギーなしに、民衆に役立つ技術というものを田辺朔郎は考えたわけです。疏水の横に「哲学の道」があります。京都の縮図みたいなものをあそこで示しているのではないかと考えているのです。そういう意味では、京都は革新的伝統を強く持っている地域ということで、京都を見つめていきたいなあと思っています。

 京都は一方では、高坂正顕氏のような人もでているわけです。さらに石井四郎という京大の医学部の出身で、731部隊の中心で、その下の内藤というのが、ミドリ十字に行くわけです。日本の薬害、エイズというのは731部隊、戦争と結びついているマイナスの部分を持っております。そのマイナスの部分は徹底して批判をするということが大事であります。もう一方では、京都には谷善(谷口善太郎)のような民主的な人物を輩出しるような伝統も一方ではある。ここに勝田守一さんの文章が書いてあります。「魂において頑固であり、心において柔軟、精神において活発でなければ、この困難な状況を切り抜けることはできない」。これは、安保のあとの厳しいときに、彼はこう言っているんです。非常に考えさせられます。魂=ソウル、心=マインド、精神=スピリッツ。この3つが、頑固で、柔軟で、活発であれと、こ提起しています。そういうことを参考にしながら、京都の革新的伝統を前向きに発展させていったらいいと思うんです。

 それから、第3番目に、「地域に根ざす教育」ということを書かせていただきました。これはさきほどちょっとふれましたけれども、奥丹後が郷土教育と言うことを提起していました。「郷土教育」というのは一般的に言うと労作教育というのと結びついて、畑を耕しながら、朝のご来光と結びついて、非合理主義と結びついていく。しかし丹後に行って郷土教育というのを見たら、そうじゃないんです。大地に足をきちんとつけている、そして先生方の中には丹後生まれの人が区長さんをやって、地域のオルガナイザー、組織者になって、地域改善事業、そして地域政策づくりをしている。つまり丹後をどう見通していくかで悪戦苦闘しているというそういう姿に出会いました。香川県の五色台教育のようなあんな郷土教育ではない郷土教育を丹後でやっていた。地域というものを考えたときに非常に役に立ちました。

B原則・原理の重要性

 第3番目に「原則・原理の重要性」ということを書かせていただきました。主として言いたいのは、細野さんのことです。

 細野さんというのは、私はセンターで66年からいっしょだったのですが、センターの会合が終わると、赤ちょうちんで飲んだり、春になると散歩して円山公園に行ったりしました。私が職場で首切りの対象になったときなども、いろいろ世話になったもので、「なあ野中君、人生というのはなかなか見通しをつけていくのは難しいもので、なるようにしかならんのと違うか」とかね、彼に言われるとほっとするんです。人格の影響と言うのでしょうか、私が「なるようにしかならん」といっても、そうは行きませんがね。そういう意味では人格から出てくる言葉というのは同じ言葉でも相手に伝えるコミュニケーション能力というのは違うということを細野さんから感じた次第です。

 細野さんを簡単に紹介します。彼は松本高校出身なんです。そこで自然弁証法を勉強しているんです。その件で放校処分になります。一年して戻ってきまして、それで東大に行って新人会に関わるんです。新人会に行って、そこで停学処分をくらうのかな。何年か遅れるんです。東大の卒業が遅れて、そこで、石橋湛山に救われるんです。そして東洋経済新報社に入って、そして会社四季報とか、そういうのに関わるわけです。そして、末川博さんに救われて、立命に行くという、簡単に言えばそういう人なんです。非常に包容力のあるすばらしい方でありました。

 あらためて細野さんから人間的な中味と理論的な原則を教えていただきました。「国民教育」について三度提言をして、全面発達・集団主義・科学的認識という、三つの原則を提言しました。その三つの中心が科学的認識だと細野さんはおっしゃっていました。この「三原則」に基づいて国民的共通教養というそんなものを、すべての高校生に身につけていくことが必要なのではないかと思います。蜷川さんの時代に、私学を含めて、高校三原則の理念を京都で実現をするということで、府政審議委員会で議論したそうです。これは非常に大事な教訓で、後期中等教育を私学を含めてどう保障するのかということです。そのときに反対したのは、私学の方々だったそうで、改めて無償制の原則を通すことによって、もう一度未来への展望を考えていくことが大事なのではないかと思います。高校三原則の問題から未来を提起していきたいと思っています。


C教育論


 「教育論」のところに移らせていただきます。

 「教育論」でも、先生方からずいぶん勉強させていただきました。まず第1に「子どもは伸びる」という考え方です。先日、田中昌人さんを呼んで大学のシンポジウムをしたのですが、その時彼は病院からかけつけてきてくれて、「老人も発達するよ、その保障が大事だ」と。病院から出てきて話しました。非常に難しい話で、「わかんない、わかんない」と言っていた人も多かったけれど、ぼくは非常に大事な提起を彼から受けたように思うんです。子どもの誕生から生涯教育で発達をどう見ていくのか、理論的な問題と同時に与謝の海養護学校の実践から子どもの捉え方とを学びました。

 それから二つ目には、「学校とはどうなのか」ということです。京都の歴史から、学校とは地域の文化センターであるという、住民が学校をつくってきたわけですけれども、そんな中でご存じだと思いますけれど、蜷川さんが和歌山の教研で「学校っていうのは、朝、子どもが起きたら いそいそと愛人に会いに行きたくなるような学校にしなけりゃならん。数学の先生が三角形の絵を描いたような学校にしちゃならんよ。」とユーモアたっぷりに話をしてくれました。「地域住民にとって学校とは何なのか」、「子どもにとって学校とは何なのか」、それから「教師にとって学校とは何なのか」ということも大切で、これは職員会議として、学校の全職員の意見を練り上げるような機関として職員会議を位置づけたい。この提起も与謝の海の青木さんなのです。青木さんが教頭になりまして、ずいぶん私も彼から不満を聞いたのです。京教組の一部の中に校長「敵」論があって、「ぼくなんかは、決して敵にはならない。でも、若い先生方はぼくを敵に見ている。管理職敵論がある。何とかしてや。」と言われて、それで『教育運動』誌に私が「民主的管理職はどうあるべきか」などを書いたことがあるんです。改めて、職員会議というのは「練り上げ機関」として位置づける。その前には「教育の自由」とというものを作っていかなくてはいけないわけですが。

 それから教師とはどういうものなのかについて触れます。1961年に日教組の教研で中国の方明氏がメッセージを送って、教師論の提起をしているわけです。そのときに「教師は専門家である」、「労働者である」と、それから「知識人である」と、3つの提起を方明氏が言うわけです。それを京教組は、教師は「教育の専門家」「教師は労働者である」「教師は組織者である」と位置づけます。中国では教師は知識人としての役割があるのですが、日本では知識人という言い方よりは、やはり組織者としての考え方の方が適切ではないかと思います。私もここからは非常に勉強になりました。教師の組織者として、学校の組織者であり、同時に地域の組織者である、そういう意味では、教師は3つの任務を持っているのではないでしょうか。

 舞鶴の荒木巖先生と出会ったときのエピソードです。海岸に行って荒木先生がショートパンツをはいていて、家庭訪問して、裏玄関の所に入って「やー、今日は」とさーっと入って、勝手に台所の冷蔵庫を開けて、お茶をとりだしました。「家庭訪問とはこういうことなのか」と思いました。裏玄関から入って台所でみそ汁を飲んで帰ってくる、これが教師の家庭訪問の姿なんだと荒木先生から学びました。教師というのはそんな組織者ということではないでしょうか。そして与謝の海の教師集団は「内部規律」というのを言っておりました。「教師は、やらんならん時にはやらんならん」と。こういう内部規律を作って、子どものためにがんばらねばならないという規律をつくっている。ですからそういう意味では「聖職論」というのは間違いですけれども、教師は聖職者的側面を持つという存在として考える必要があるのではないかと思います。

 4つ目には「学力論」の問題です。これも非常に大きな問題だろうと思います。愛知の私学の場合は「大きな学力」という言い方をしているわけです。高校生フェスティバルをやったりして。私は「大きな学力」という場合には、だいたい内容はこういうものだという定義をして、そして勝田さんの言うような測定可能な学力を学力として測定するのは「小さな学力」と言っているのでしょう。測定可能な学力、これを「小さな学力」として、そして「大きな学力」「小さな学力」を総合的に追求していく、こういう形で構造化すべきではないのかと思います。1975年に、到達度評価「試案」が出てまいります。府教委の遠藤指導主事が中心になってがんばられまして、能力主義に対抗する思想的エネルギーというのでしょうか、軸を持ちながら学力を考えていきたいと思います。そしてその中で、加藤文三さんの「100点運動」というのが出てくるのです。そのときに九条中学の多田孝敏先生が「おれは加藤文三さんのような実践はできっこない。でも80点ぐらいならできるかな。80点運動をやろうか」。そして、すべての子どもが80点をとる実験をする。そしてきちっとした大事な知識を身につけさせようやないか、ということを言われて、「なるほど」と勉強になりました。あらためて多田さんの実践なんかを通して、教えたその子どもたちが学力がきちんとついてきて、そして家の中で夕食が明るくなってくる。力がついたら家は明るくなる。親を変化させるという。

 影山さんなんか最近おかしいと思うけれども、学力保障とはああいう学力じゃなく、本当に国民として大事なものをきちんと身につけさせて、そのことで家庭も明るくなり、未来の力もそこで蓄えさせられていくということじゃないかなと思っています。

 それと関わって5番目に、「生活指導」の問題です。「生活指導」について、ぼくはあんまり勉強してなかったんですけれども、京教組に関わってから勉強するようになりました。特に68年の第17次新潟教研で、奥丹後の下戸明夫先生といっしょに「生活指導」の分科会に行きました。城丸章雄さんと竹内常一さんとが共同研究者でした。そして大西忠治氏が司会をやっていたんです。そして「班というのはこういうものである」と、「討議づくりはこういうもので」「寄り合い班(前期班)はこういうもので」と、「切って」いくんですね。そういう日教組の教研でした。これはおかしいぞ、と、下戸さんも不満そうな顔をして、昼飯のときに、竹内さんと城丸さんといろいろ話をして、「もう少しつながりを持って考えたらどうですか」と言うと、城丸さんは「京都は労働の論理があって、教育の論理がないんだよ」と言いました。そのことを『教育運動』誌に書きました。あらためて、東京の学者も関西の学者も、もっともっと日常的に交流を密接にしないと、「ずいぶん違うな」という感じがしました。非常にすばらしい学者ですよ。そうだけれども、当時そんな感想を持ちました。私は、あつかましかったものですから、そういうことを言われたあと、午後からの分科会で、下戸さんに「こんなこと言われたんですよ」と言うと、下戸さんは「野中さん、よく言ってくれましたね。」と言っていました。ぼくは気になっていたんですよ。実際、スパッ、スパッと切っていて、はじめから全生研方針であって、どうかなと思いました。それから小川太郎さんと出会って、しっかりと勉強することになって、小川太郎さんの家に行って、そこで読書会を毎月やったりしました。彼の『教育と陶冶の理論』とか勉強して、終わってから小川さんといっぱい飲みました。あらためて生活指導のいろいろな問題を考えさせられました。京都で特に考えさせられたのは、教科の論理と生活指導の論理の接近領域というのがあるんじゃないか、例えば「学習の構え」とかね、それなんかは新しい領域として設定していいんじゃないかというのがあったと思うのです。この議論は今どうなっているのかわかりません。ある意味では大事な領域論として、京都から提起があったと思います。

 6番目に、「民主府政・教育行政」の問題にふれてみたいと思いますけれども、やっぱり教育行政、行政と言うのは助言行政ですよね。蜷川さんの時に、いろんなことを蜷川さんやりましたけれども、「ポケット憲法」がよかったですね。そしてぼくは宇治ですけれども、宇治でもポケット憲法をつくりました。地方地方に根付くようなポケット憲法をつくって地域の特色なんかも織り込めるようなものですね。だから行政というのは、ろばた懇談会なんかもそうですね、やはり住民と接するところが一番、公務員でも変わりやすいんじゃないんでしょうか。住民と接しないところでは官僚主義になりやすい。そういう意味では社会教育なんかは大いに住民の所に引っ張り出して行くことで府庁を変えていくことが大事なのではないかと思います。

 それから「同和教育」の問題が7番目に書いてあります。
 私のいた大学で、ある学生が、「私の講義は差別講義である」と言って私を糾弾いたしまして、当時、助教授だったと思いますけれども、大きな立て看板をつくりまして「野中教授、差別発言、徹底糾弾」と一年間こう立てかけました。ぼくがどこを差別しているのか、・・・やっぱり解放同盟を批判するからですね。

 「どじょうのうた」という実践記録があります。「おとうちゃんとおかあちゃんがけんかをした/おとうちゃんはおかあちゃんをなぐり/おかあちゃんは太郎をなぐる/太郎は次郎をなぐり/そして三郎は泣く」と、非常にすばらしい詩であると紹介した。するとそれを「敗北主義だ」なんてね。泣くのはダメなんです。闘わなければいけないというんです。「君、何言ってんだよ」と議論したらね、「差別者だ」と、ぼくは「差別者」だと言うんです。こうして糾弾されて、けんかになったんですが、ぼくは屈しなかったんです。ぼくの研究室の所に紙貼ったりね、解放同盟が大学に押しかけたり、いろんなことがありました。幸い組合や京教組のみなさんとも関わっておりました関係で、あんまり動揺していませんでした。「ああ、またこの看板、今日もたっている」というような感じでした。戦前から差別をはねのけてきた歴史と伝統をもとに、子ども会の自主的な力を育てていくこうした京都の実践にも学びながら、同和教育からの遺産を継承していくことが大事だなあと思っています。

 それから教育運動の問題ですね。京都教育センターという名前をつけたことは同時に、教育運動をセンターもするということで、その教育センターの機関誌は「教育運動」という機関誌名で、法律文化社から発行しました。赤字だったもんですから、法律文化社が投げちゃって、そして現在の所に移ってきています。

 父母と一緒に住民運動をやることの大事さ、特に教育運動で、古い方はご存じでしょうけれど、「民主教育を守るための11箇条」というのがあります。

「1/先生だけでは守れない。2/生徒だけでは守れない。3/親だけでは守れない。4/立ち後れては守れない。5/勝ちか負けかだけでは守れない。6/本質をつかまえないと守れない。7/経験だけでは守れない。8/教育だけでは守れない。9/守るだけでは守れない。10/力がないと守れない。11/アカ攻撃に負けては守れない。」と。

 市民といっしょに運動をやるときに、こういう教訓みたいなのをいっぱい出して、どんどん組織をしていくんです。教育運動を発展させていくために、どういう教訓が必要なのか、現在的な運動と関わりながら考えていくことが大事じゃないでしょうか。このことを中心的に提起したのは旭が丘中学校において3人の先生が解雇されますけれども、その解雇された3人のうちの一人の山本正行先生が中心になって、今の提起をなされたわけです。

 その他として、民主的管理職とか高校生の春季討論集会とか、さまざまなことを学びました。まだまだ語り尽くせない問題がいっぱいありますけれども。

未来に向けて

 最後「未来に向けて」ということについて話します。

 これからの課題につながるんですけれども、これから学校をどうつくっていくのかという問題です。そのためには教育課程(カリキュラム)の原理というものを中心に据えながら、考えていただくとありがたいなあと思っています。

 一つ目は人間の、あるいは人類の良心と言うんでしょうか、うちの親父のようにああいう技術者、無知であるがために親父の良心が生かされないで、それで精神科の病院に入らざるを得なかったという、ああいう親父をなくすために一本太い筋で、人間として本当に大事なもの、失ってはならないものをきちんと中心に据えるべきであるというように思うんです。ですから、そういう意味では戦争体験とかそういうものから学びながら、教育課程の柱に据えるべきだろうと思います。

 それから二つ目には生産労働の問題を教育課程の柱に据えるべきではないだろうかと思います。今ますます労働という側面が消えていっています。そんな中で農業の問題、あるいは工業の問題、それから教科で言えば工作等の問題、図工とかを通しながら生産労働というものが人間の発達にどういう役割を果たすのか、そんなことを考えながらカリキュラムをつくっていっていただいたらと思います。

 三番目に人格的な側面で、非人間的な労働の問題をあげたんですけれども、学生諸君はマネーゲームの堀江氏とか村上氏とか、最近ちょっと批判がでるようになりましたけれども、やっぱり「新しい人物」という評価があるんですね。半年前なんか堀江氏なんかは「輝かしい若者」ですよね。堀江氏の批判なんかしたら、学生から不満が出ていました。ぼくは「古い」って言うんです。古い、新しいという分け方も間違いですね。ぼくは71になったんですけれども、まだ青年のつもりなのにですよ。見かけはあかんかも知れませんが。

 それから四番目に社会システムとして、福祉、安全を基底にした社会システムの展望をどうつくっていくのかという問題があります。よく「キレる子ども」が増えて、つい最近、京進(宇治市の学習塾)をめぐる事件がありましたね。私の住んでいる所のすぐ近くなんですよ。散歩の途中のところなんですけれども、改めて足を地につけて生きるということが大切で、そこで生きたらキレないですよね。今日は雪が降っていて、散歩していたら雪だるまつくっている子どもが見えるんですよね。そういうのを見るとうれしいんです。子どもが地域で遊べるような、そういう地域を作っていく展望を持ちながら、カリキュラムというものを作っていってはいかがでしょうか。

 それから民主的な府政をどうつくっていくのかという問題があります。「日本の夜明けは京都から」というスローガンを掲げましたけれども、改めて、そのロマンティックな、心にひびくようなスローガンをつくればありがたいなあと思います。

 それから三番目に、「地域共同体」の理論構築の問題を考えないといけないと思います。最後に、遠い展望の探求というのを書きました。

 私は京都の教育センターに関わって、教えていただいた非常に感動した詩があるんです。いつも最後に引用するんですけれども、女の先生が指導されているんですよね。『女教師』という三一書房から出た書物です。

 「ぼくの横で」/ぼくはかぜをひいて学校を休んでいた/おとうちゃん、おかあちゃんも働きに行って留守なので/おなかがすいていたけれど、がまんして寝ていた/ぼくの家は貧乏なので梅本さんの家の部屋を借りて四人で住んでいる/ちょっと起きたら食べられるんだけれど/おぜんの上には今朝の食べ残りがそのまま置いてある/起きようと思うんだけれど、起きられない/おかあさんが帰ってきたらしい/頭に手がきた/おや 急に目をつむって寝た/おかあちゃんはぼくが寝ていると思ったのかな/何も言わない/ぼくの横で コトリと横になった/頭に手がきた/おやっと思って そっと目を開けた/顔がいっぺんに熱くなった/先生なのだ/ほこりだらけの部屋/古い中の着物/破れたふとん/食べ残しのままの枕元のおぜん/ぼくはいっぺんにそれらをぐるぐると見た/先生はそんなこと知らん顔で/どうや、しんどいか/熱さめたなら、寿司持ってきたしなあ/食べなさい/と言いながら、先生もつまんでひとつ食べた/ぼくも食べた/四つ食べたらもういらないようになった/先生はぼくの横にいたまま/たたみの上にごろっと寝た/ぼくも黙って寝た/先生はしばらくすると/元気で行こうよ/歌を歌い出した/ぼくも知らんまに歌っていた/もうはずかしくもなんともない/ぼくは今でもあのときのことを思い出して/そっと先生の顔を見ている/

 素晴らしいですね。京都だからこそ、こういう実践が生まれる。ぼくの支えになる作文です。いつも、こんな子どもの声に支えられて元気でいます。

 どうもありがとうございました。


質疑応答・交流(略)
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