トップ 事務局 夏季研もくじ
第7分科会
  子どもの発達と地域
 
姫野 美佐子(子どもの発達と地域研究会)
 


 
1.第7分科会のこれまでの経過

 
 長い間、この分科会は「地域の中の子ども達」について語り合う場、また地域に関わる大人達の交流の場で あり悩みを出し合う場として貴重な積み重ねがなされてきた。そこには、子ども達の発達を「学校」とか「地域」とかいう枠ではなく、「全生活」でとらえたいというねらいがあった。ただ、なかなか広範な立場からの参加者の増加にはつながらず、位置付けも「特別分科会」のままであった。しかし、今年の6月、夏季教研の打ち合わせのときに「いっそ、一研究会として立ち上げよう」との提起があり、発足に至った。

 
2.夏季教研のレポートと討論

 
@午前−Iさんの報告「学校現場と子ども達」

 
 去年も「学校の大変さ」で話をした。今年の夏はついに一日も自宅研修権が認められなかった。昔は、夏休みの研修に届けそのものが必要なかった。それが、届け出が必要な状態になり、次に届け出と報告書が必要になり、現在は「年休扱い」となってしまっている。地域のパソコン教室などには許可が出るが、教師の本来の仕事である教材研究のための時間が剥奪されている。また、習熟度別授業の強制が強まっている。職場は息苦しい。子どもとの関わりがしんどいということもあるが、休み時間に職員室に職員がいない。朝の打ち合わせが終わってから夕方まで顔を見ない先生が多い。

 私自身、六年生を3年続けてもっているが、これは普通ありえないこと。今の子ども達をみていて、学力問題を感じる.基礎的な力ができていない。イメージを深めることがなかなかできない。例えば、社会の授業で近畿の古墳を地図で確認することはできる.古墳って何?と聞くと「権力者の墓」と答えられる。しかしそのふたつを結びつけて「近畿には権力者が多かった」という答えを、今までの子どもはすぐに答えられたが、そういうことができなくなっている。一学期かけてやっと、「宿題はやってくるもの」ということになってきた。けんかの様子でも、ささいなことから言い合いになり、それを見ていた別の子が「(どっちが正しいかを)じゃんけんで決めたら?」と提案。じやんけんをして、勝ったほうが負けた方をたたいた。見ていた子どもも「ようやった」「もっとやれ」とこのような調子。まさに「暴力」「強い者」が支配する世界になっている。ドッジボールでも、負けそうになったら、外側にいる子が内側の子を励ますのではなく「あたれ!お前らもあたれ!」という。つまり早くそのゲームを終わらせて、リセットして次のゲームをしたいということ。どういう人間関係で子どもが育ってきているのか、ということをみていく必要がある。相手の痛みや気持ちが分からないというだけでなく、自分の気持ちが分からないという子が多い。自分の中に閉じこもる(わめく・泣く・パニックになる)子も増えている。高学年になってくると「打たれ弱い」子が増えている。「お前ぶさいくやね」と言われて次の日から学校にこない子、ちょっと先生に注意されると固まってしまう子など。

 集団作りに視点を持った方針でやっている。「おはよう」を言える子ども達にと、そこから始める。お互いがしやべりあっていく関係を目指している。6つの班を作って6週間すごす。最後の週は「班員のいいとこさがし」をする。発表しあうと、子ども達はほっとしたり、はずかしそうににこにこしながら紙をみている。ほめられた経験がとても少ない。子ども達にとって今大事なのは、地域であろうと学校であろうと「自分の気持ちを表現していくこと」言語の力や、やさしい気持ちを育てていきたい。

 
(討論)

                                           
・この夏、原谷の川で子どもが流されて新聞に載った。大騒ぎになったが、結局自力で出られて助かった。その直後、緊急の親の会を持った、誰一人り「遊びを減らせ」とは言わなかった.むしろ「こんなことで川遊びを止めるとかは、言わないでくれ」とみんなで、至らなかったところや教訓を出し合った。流された子のひとりは、5年生で長期休暇のみの参加の子だったが、まきを切っているときにも怪我をした。ほんのかすり傷だったが、本人は動揺していた.夏の終わりにその子のお父さんが「今年は本当にいろいろ体験させてもらって感謝しています」と、危険はどこにでもある。危険を上手く利用していきたい。
 もう一人、別の男の子(Kちやん)でトラブルメーカーがいた。しかし4年生の終わりにみんなで「いいとこカード」を書いたとき、たくさんの子が「Kちゃんはもめごと解決のプロ」と書いていた。大変な世の中だが、こういう子ども達に希望を見出している。

・子ども達が集まる全体の行事として、「春合宿」や「真のキャンプ」がある.何年もその行事に参加している男の子.いっときは下の学年の子が「あの子が行くなら行かない」と嫌がるような存在だったが、今年高校一年生になった彼は、まわりの面倒をよく見る人に成長した。夏は中3セミナーもある。集団の中で育っていく子どもを見ている一方で、今年の子ども達は去年に比べ、お互いに交わろうという雰囲気が弱い。行く前は「○○君来るかな?」と楽しみにしていたはずなのに、いざ出会うとはずかしくて声をかけられなかった子もいた。全員大人しくて、質問も少ない。「自分の気持ちを表現できること」を勉強会でも重視していきたい。

・学校を訪問して感動したり、学校新聞を読んで感想を持ったりはしていたが、I先生の話を聴いて「僕は表面しか見ていなかったなあ」と思った。なぜそんなにあいさつにこだわるのかと思っていたが、その意味や先生の大変さなども分かった。壁新聞は、ひとつの表現方法だが、そういうのを見ている限りでは「子ども達も何かしたいんだなあ」というのが分かる。その気持ちと人形劇をつなげられないだろうか、というのがここ2カ年の自分の課題。ペープサート(紙をいろいろな形に切り抜く作業)に興味を持ってくれた先生達が何人かいる。いっしょに何かできるかも。人との気持ちの交流ということでは、子どもが人形劇をみた後の感想文の中に「漫才が好きでやっているが、そんことで友達と気持ちをつなげられるようになった」と書いていた子がいた。そのことの大きな意味を考えている。文化の力、表現力の強さを考えている.先ほど、トラブルがあったときに「もうそれをやめよう」ではなく、原因をさぐることが大切という話が出た。世の中の不正で、原因追求されずに大人がぺこぺこ謝ってばかりのことがあふれている。子ども達はそれを見ている。

・「大人なんかいなくなれ」という劇をみた。

・演じている高校生がすごくいきいきしていた。主役の子も堂々としていて「演劇を普段からやっているのかな」と思ったほど。子どもってすごいな、と思った。

・リハーサルを観に行った。演劇というのは、社会と同じ。一人ひとりが大事。カメラマンだから、いろいろなところが見れた。膨大な時間で、待っている時間が長いがその時間をどう過ごすかも含めて、その経験はこれからじわじわと生きてくるのではないか。月光ではどんどん行事が削られていっていいる。地蔵盆めぐりも少しずつ減少傾向にあるが、その一方で突然元気になる町もある。子どもがよそのおっちやんに怒られたりするのはおそらくここぐらいではないか。横のつながりがないので、難しい面もあるが、知った以上はこれらをつなげていきたい。

・「ちびっこプール」関係者(研究会助言者)−「両面肩」がないとなかなか研究会が発展しないと思う。矛盾は発展の原動力と言われる。劇を作るのは手段であって、目的は子どもの育ち。芸術作品を作ろうということとは違う。子どもって、やりたがりだと思う。それを出せる大人の役割を、この場で浮かび上がらせたい。現象だけを見ていてもいけない.私も地蔵盆をしたが、地域の大人たちは「地蔵盆は役員が準備をやるものだ」と思い込んで、役員以外の人に頼むという発想がない。だから、子どもに何かをさせる、ということにはもっとならない。

・「自治を育てる」という発想が、現指導要領にはないので、大変むずかしい。修学旅行の持ち物の話をするときに、こちらは必要最低限のものしか言わない。それ以外(シャンプー・リンス・ドライヤーなど)については学年集会で話し合わせる。それを参観日に親の前でさせる。すべて議論させ、なぜそれが必要なのかを話し合わせる。果たして、旅行中に入浴の15分でシャンプーとリンスができるのか?「できる」子と「できない」子に分かれる。「家でやってみる」という子も出てくる。こんな取り組みができる学校だからであって、それが「総合」の時間に取られている学校が多い。子どもが学校で育つためには「時間」が必要。

・地域と見ていて、思うことは、結論はI先生とほとんど同じで「時間がほしい」ということ。失敗する時間を与えてあげたい。子どもが自立する方向に持っていかないと、「世話をしてやる」ではいけない。例えば、バスの乗り方でも同じ事を3回か4回すると子どもは学んでくる。1回目は大変だが。失敗させるのは大事だが死んでしまってはいけないので「見守る体制」が必要。

・子どもの学校の学芸は発表会をみにいき、とても感動した劇があった。その先生が「かなり時間をかけた」と言っていた。

・総合の時間の話が出たが、本当に先生達が大変そうだ。困っているということに気づいていれば、まだいいのかもしれないが。その反面、この時間ができたので私達のような人形劇も学校の中に深く入れるようになったということがある。

・総合の時間は学校によって、全然使い方が違う。高学年だったら年間105時間ある。そのうち、コンピューター教育に30時間使うのか、うちの学校のように子どもの自立に使うのか。社会人講師を学校に招くことがすごくやりやすくなっている。被爆者の方、全盲の方、阪神大震災のボランティアをした方など、どんどん招いている。「利用しないと損」という面もいっぱいある。

・矛盾と発展が少し見えてきた。そのことをここではっきりさせておけば、来年はもっと深められる。学校委員会というのがあるが、これはとらえようによっては地域と学校がつながれるところ.評議員が何人かいる.ヨーロッパでは、この評議員や、もっと言うと執行委員にも、子どもがなったりしている。

 
A午後−棚橋啓−上京区の**地域と京都市の「ちびっこプール」のレポート

 
 1972年から続いている「ちびっこプール」を、京都市は2004年3月、突然地域の人たちに相談もせずに一方的に廃止を発表。しかしその後、新聞に投書された声「廃止しないで」をきっかけに、いくつかの地域の母親たちが連絡を取り合って集まり、相談をした。話し合う中で、公園の砂場や生活の場、遊びの場に問題がいっぱいあることが話題となり、地域の施設・設備などの充実を京都市に要望する署名運動をしようということになった。署名は母親たちが作り、幅広く配られ、いくつか団体の協力もあった。著名は一ケ月で1000名を越え、2ケ月で1500名にもなった。母親たちは市会の各会派に要望を伝え、協力・支持をお願いにいったが、多くの会派からは曖昧な返事しかもらえなかった。日本共産党だけはくわしく事情や要望をきいてくれ、今後の京都市や市議会への働きかけについて相談できた。市の所管の緑地管理課長とは何度も話し合いをもったが言い訳ばかり出され、深まらなかった。児童家庭課長とも話し合ったが、所轄外の問題ということで、やはり話し合いは深まらなかった。行政の姿勢が子どもや子育ての問題を軽視し、行政の権限を守ることや予算削減には熱心になっているように思われる。結局、市内では16ケ所のプールが自主運営で開設することになった。お金の問題や当番のことなどで、母親たちから積極的に参加の申し出があり、運営は自発性、主体性の強いものになった。朝の当番には、かつてプールに通ってきていた小学生も当番表を作り、20人ほどが、学校が夏休みになってからは毎日交替で参加した。

 毎日ぐんぐん成長している子ども達、ここでも2,3それを紹介したい。掃除のとき、最初は等やブラシの使い方もおぼっかない子どもたちだが、2・3回目になると要領も分かってきて、端のほうからするとか、プール全体をみて見通しをもってできるようになってくる。新しく来た友達に教えたり洗剤を使ったり、「お−い!ここへホースの水をかけて!」と元気な声が出たりする。責任、分担、協調、見通し、計画性、社会的意義などもだんだん分かってその子なりに身についていくのがよく見える。「教えて」というので「肩をしずめて−」「手の力を抜いて、柔らかく伸ばして−。そうそう」「そしたら足も−」と“伏し浮きの姿勢を教えると、水に慣れてきている子どもは、意識して自分の体をコントロールする。ふわっと体が浮く気配を感じると何回もやる。それを見て、他の子どもも「教えて−、とやってきて、三人もそれができると、今までパチャパチャやっていた子ども達が、急にしっかりした大きい体に見えて、プールの中は幼児離れした空気が生まれた。友達がやると自分も−という気になる。やる気のある学習なので楽しいし力もつく。集団の力は大きい。

 また、母親がプールサイドから子どもに声かけをしたり注意したりする場面がある。どんな言葉かけがその子にとってプラスになるのかプレッシャーになるのか。子どもを叱っていた母親も、間もなくみんなと同じように静かに子ども達を見守るようになる。これも集団の教育の力であり、すごいことだと思う。ただ、どのような考え、子どもへの接し方が多数派なのか?というのも大事なこと。また母親たち自身が、自分の子どもが他の子どもたちの中にいてどのように動き、周囲とどんな関わりをするのかを見たり、他の子どもの動き、母親達の動きをみて多くのことを学んでいる。プールサイドで世間話をしながら、子育てのことについて情報を交換したり、いろいろなこと学んでいる。このような子育ての場所を作り維持するのも大人お互いの役割・責任だと思う。

 今まで述べてきたように、今年の「ちびっこプール」は、地域の多くの人達の協力で自主運営ができた。そして中味を作るのも住民自身だった0行政は施設、費用、条件などを保障するのが役割であり、その責任を果たすべきだと思う。子ども達は地域で育っているのだから、地域は厚みのある連帯の力で子育てにも力を発揮しなくてはならない。私達の地域の場合、数年前に廃止された児童館で子ども達と一緒に活動していた母親やボランティアの人達がサークルを組織し、子どもたちと活動を継続していたことが大きな軸になり力になった。

 
(討論)

 
・このお話では、お母さん達が「プールをなくしたくない」と動いているが、私の近所でも、おじさんおばさんたちがそうしている。

・町内会の連合会の会長さんに協力を申し出た。最初は良い反応ではなかったが、3回訪問するうちに変化していった。この背景のひとつに、お母さんたちががんばっている、署名が広まっていることがあり、会長さんもそれをしていたからではないか。

・このような運動と保育園との関わりはあるのでしょうか?

・これからの課題です。

・「左京区には「子育てネットワーク」という、地域のつながりがあり、さまざまな人が参加している.保育士の方、カメラマンの方、獣医さん、少年団の父母の方、学校の先生などなど。市長選のときに、「子育ての願いを市政にいかしてほしい」との想いを集めていたようだが、選挙が終わってもいろいろ活動をしているようだ。3月には、風の子保育園をお借りしてイラク侵略戦争反対の集会をやり、私も参加させてもらった。小さな子ども達と2〜3時間、たくさんの歌を歌ってとても楽しかった。

・戦争の問題でも、自分の子どもが小学生のときのことだが、6年生が修学旅行の関係で、平和について調べたことを「下の学年の子にも伝えたい、伝えなければ」という気持ちで動いていた。今は、ようやく民主主義の芽が見えてきた時代ではないだろうか。今の子ども達をみていて嬉しいこととショックが大きいことが、自分の中で混乱している。でも、やっぱり子ども達に力はあると思う。

・児童館を作ろうということになり、行政にも幻想を抱いて運動をしてきたが、行政の「自分の思い通りにならないものは作らない」方針にぶつかった。それ以降、また「児童館が欲しい」という声が出てきて、旧メンバーと新メンバーが連絡を取り合ってちょっと動き始めた。原谷には遊び場がない。住宅の建築規制がないので、どんどん新しい住宅が増えている。

・このように、あちこちでいろいろなことをやっているのだし、何とかそれらがひとつにつながれないものだろうか。「子どもを守る会」連絡会が、その間に立ってくれたりはしないのだろうか。

・「地域で子どもがいろいろがんばっている」とか「学校でいろいろ子どもががんばっている」ときくのだが、それぞれがなかなかつながっていない。もっと子どもの発達をトータルに見ていく必要がある。昔の、ガキ大将を中心とした子どもの集団作りを、ある意味ではもう一度見なおす必要があるのではないか。異年齢の集団の中で子どもがどう育っていくのかということにもっと注目を払う必要がある。

・疲労困ばいになるような詰もよく聞くが、「何を育てないといけないのか」ということを、お互いが分かっているようで分かっていないのかもしれない。私がいろいろ関わって見えてきたのは「やっぱり、人が主体.人を育てないといけない」ということだった。

・いろいろなところで許をしていて、ふっと気になるのは、みんな「忙しい」で話が終わってしまうこと。何か、話のポイントが抜けていく感じがする。物の本質をもう少しじっくり見つめたい。今流行の「自己肯定観」も「僕はこう。B君はこう。だから、つながらなくてもいい」という考えにつながっていく危険があるかもしれない.大人社会はばらばら、子どももばらばら。本質は同じこと。何かを見なおす必要がある。

・おとつい参加した、子どもの権利条約に関する弁護士の会で講師の人が言っていたのは「今、再度理念を見なおす必要がある」ということ。権利条約が批准されて10年。国連から政府への勧告の中味はほとんど変わっていない。我々がよって立つところは、憲法や教育基本法や子どもの権利条約の理念。そこのところが弱いと思う。

・「憲法の現状と中味が違ってきている」と、支配者側は言う。「戦争は二度といけない」というスタート地点に立つこと。初心に戻るということ。土日に学校開放があった。そういうことをどんどん活用していこう。「ゆとりの学習」が一時話題になったが、世論が「基本学習が足りなくなる」と大きな声を出した結果、1年でまた文科省も同じことを言い出した。

・知らない地域で、自分の知らない団体がいろいろあるのだなあと思った。児童館もそういうところとつながっていきたい.この場で、何が子ども達に起こっていてそれに対して何ができるのかということを出し合っている。今、この場で話されていることを多くの人に知らせていければ。

 
3.共同研究者からの総括的発言

 
 学校の状況や大変さと、いい活動の両面を見なければいけない。そしてそれを、どう地域と結びつけるのか。それぞれの役割と全体を見ていく。子どもの生活の場、活動の場、人間関係のあり方をはっきりさせること。理念は、書き言葉にすることが大切.そして、つながるためには理念が必要.ばらばらでは、社会的な力にはならない。社会的な力がないと、子どもは上手く育たない。人間は本来集団で生きて行くものだから。地域の、子どもの生活の場、活動の湯が保障されていないといけない。それらが壊されているのに、怒る大人が少ない。発達について今日話されたこととしては、子どもが変化して発達していくのには時間も手間隙もかかるということが共通認識として出された。「何を育てないといけないのか?」という提起がなされた。「共同ができる人間」一緒に暮らす、気持ち良く暮らす、−ということ。これを地域の住民や団体がみんな意識として持っている状況を作り出すこと。そこへの「つなぎ」となれるのが、この研究会の課題である。

トップ 事務局 夏季研もくじ